第九十二話 支えあう
私と葉は人気のない階段の踊り場まで移動した。
「急にどうしたの?」
葉が壁に寄りかかりながら聞いてくる。
その顔は、いつも通りの笑顔に見えて、少し違う。
ほんの僅かに、口角が上がりすぎている。
緊張なのか、恐怖なのかは分からない、でも確かにいつもと違う。
でも、それは当然だ。
昨日、葉が家を飛び出してから、まだ一度も葉と二人きりで話していない。
私自身、悠と話さなかった、まだ二人きりで話す勇気は持てなかった。
でも、悠のおかげで、葉と向き合う覚悟が出来た。
震えも止まった。
しっかりと、葉を見れる。
病院の前で怯えて立ち尽くしていた私はもういない。
「葉と、話したかったんだ」
私の言葉に葉は喜びも驚きもしなかった。
ただ、一つ深い溜め息をついた。
「私も、真鈴に話さなきゃいけない事があるの」
「私に謝るつもりなのか」
京極か聞いたあの時の真相、そして、十文字が言っていた『愉快な話ではない』話、それらを類推すれば、葉がそうしたいと思う可能性はあった。
だから、カマをかけたつもりだった。
葉は、あっさりと頷いた。
その表情は、言い当てられて驚いているようには見えなかった。
「驚かないんだな」
「十文字から、話聞いたんでしょ?」
葉は意外にサバサバしていた。
いや、そういう風に振る舞っている。
本心を隠している。
「ああ、全部聞いた。私に依存していて、私を束縛していた‥‥と」
これは、十文字から聞いた事。
そして、もう一つ、京極から聞いた事。
「それと‥‥葉に何があったのかも‥‥聞いた」
私が正直に言うと、葉は怒りとも呆れとも後悔ともとれる、もしかしたらそれらが全部入り混じった複雑な表情をした。
「‥‥京極ね」
私が頷くと、葉は溜め息をついた。
「本当にあの男は‥‥」
「全部‥‥聞いた。葉の事も‥‥悠の事も」
京極は、本当に一切合切包み隠さずに教えてくれた。
葉が私に対して何を思っていたのか。
葉が十文字に対してどう思っているのか。
そして、葉が抱えていた悠への思いを。
本人からちゃんと聞いたわけじゃない。
ほとんどが京極の推測だ。
だけど、その言葉は正しい気がした。
葉の表情はほとんど変化しない。
でも、今はそのわずかな差を、一瞬の悲しみを見逃さない。
そうすれば、お互いに楽にいられた。
でも、私も葉も、それを続けた結果が今だ。
葉がいじめられた事を知った時、私にはいくつもの選択肢があった。
だけど私は、自分の感情に任せて暴れまわった。
それが、正しいかどうかなんて関係なかった。
それまで抑えていた感情は、一度爆発してしまうと、どうしようもなかった。
その結果、私は視神経に異常をきたし、テニスを続けられなくなった。
そして葉は、それに責任を感じテニスを辞めた。
全て、私が招いた事だ。
本当なら、葉が責任を感じる事なんて一つもない。
でも、葉は自分を責め、自分の幸せを捨てようとしていた。
あの時、違う選択をしていれば、また違う未来があったのかもしれない。
けど、私はもう選んだしまった。
もう、時計の針を元に戻す事は出来ない。
ならば、私達は進むしかない。
ありがちで陳腐な言葉だが、それゆえにシンプルで真理だ。
なのに、決意はできても、言葉が出てこない。
あれだけ悠に励まされて、勇気をもらったはずなのに。
私の口は、凍りついてしまったように、全く動いてくれなかった。
「‥‥ごめんなさい」
先に、葉が口を開いた。
「ずっと前から依存してて‥‥それに甘えてて‥‥自分勝手な理由で真鈴を、傷つけて‥‥」
違う。
そんな事を言わせないんじゃない。
「真鈴に、重荷を背負わせて‥‥」
違う。
私はそんな風に思ってない。
確かに、葉にとってはそう思えるのかもしれない。
けど、私にとっては、それら全てが私が選んだ末の結果で、決して誰かに強制されたものではない。
重荷だと思った事もない。
「私の、せいで‥‥」
「違う!!」
私はおもわず叫んでいた。
「真鈴‥‥」
「葉のせいじゃない! 私は重荷だなんて思ってない! 依存されてただなんて‥‥全く思ってない!」
あの時と同じように、我を忘れ、ここがどこかも忘れ、おもいっきり自分の中にたまっていた感情も爆発させてしまった。
胸に手を当てて、落ち着かせようとしても、心臓の動きは早くなっていく。
どうすればいいのかと、必死で思案する。
必死に考えた。
そして、何か思いつけと念じる私の頭に響いたのは、あの時の悠の言葉。
私ががしり込みしていた時、勇気をくれた言葉。
「私は‥‥」
誰も傷つけず、皆を救う言葉。
「私は、ありがとうって‥‥伝えたかったんだ」
「えっ‥‥?」
葉の表情の色が変わる。
自分が何を言われたのか分からない、そんな言葉だった。
「なん、で‥‥」
「ずっと、言わなきゃいけなかったんだ。ずっと一緒にいてくれた事‥‥助けてくれた事‥‥励ましてくれた事‥‥守ってくれた事‥‥ずっと感謝しなければいけない事がたくさんあって」
「それは」
「依存していただなんて、私は思ってないし、もしそうなんだとしたら‥‥私も、葉に依存していたんだ。ずっと」
私は、これまで私を中心に物事を考えていた。
決して、我が儘に振る舞っていたつもりはない。
それでも、私は周りを気にせず私の主観で物事を考え、行動してきた。
そんな私に皆がついてきてくれたのは、葉がいてくれたからだ。
葉がいつも私をフォローして、補ってくれていたからだ。
私はその優しさに甘えて‥‥依存していた。
「だから‥‥ありがとう、葉」
私は、全ての想いをその言葉に込めた。
葉はうつむいたまま、しばらく黙っていた。
「‥‥そんな事言われるなんて、思ってなかったわ。私が何言っても、慰めてくれるとは思ってたけど‥‥」
「私は、そんなに優しくない」
もし、今日悠が見舞いに来なかったら、私はどうすればいいか分からなかった。きっとなんとなく気まずい雰囲気で、誰かが助けてくれるのを待っていたのだろう。
これまでと、同じように。
だが、それではダメだ。
皆、それぞれの考えを持って、自分が思う、最善の行動をする。
結果、私達を助けてくれる人はいるだろうが、常にそうだとは限らない。
私は、今までそれに気がつけなかった。
いつも、葉が私を助けてくれたから。
私は、葉が傷ついてもがく姿を見て、やっと気が付いた。
葉が助けてくれるのを待っているだけじゃ、ダメだ。
だから、私も自身の考えで、最善の行動を起こす。
「葉がいてくれたから‥‥支えてくれたから、私は優しくあれたんだ。だから‥‥」
自分の答えを、出す。
「これからも、私を支えて欲しい。私も葉を、ずっと支えるから」
今はまだ無理で。
悠の力を借りて出した答えだ。
それでも、私はこの答えが正しいと信じる。
『依存』じゃない。
『支え合う』という答え。
葉は今まで、私を助けてくれた。
なら、今度は私も、葉を助ける。
そういう答え。
口に出した以上、後には引けない。
自分自身が針を進めた。
どうなるかは分からない。
それでも、この答えを。
自分の選んで出した答えを。
正しいと信じて。
私は。
私達は、前に進めるはずだ。
「それで‥‥どうだろう、葉」
私の言葉を聞いた葉は、黙って頷くと、私の胸元に額を乗せてきた。
「‥‥ごめん。ちょっとだけ、このままで‥‥いさせて」
「‥‥ああ」
葉の声は、震えていた。