第八十六話 静かに
途中から悠視点に変わります。
私が奏に突き飛ばされた後、一之瀬君が続いて入り、京極君が中に入って自ら扉を閉めた。
「それじゃあ、行こうか」
京極君が先陣を切って進んで行く。
でも、私の足は、動かない。
「三神‥‥さん?」
一之瀬君が、不安そうに私を見る。
「ごめん‥‥二人で行って」
「え?」
「私は‥‥行けない」
そう。
行けるわけがない。
「何でですか? 会って、十文字と‥‥」
「十文字に合わせる顔がないもの」
私のせいで、こうなったんだから。
私に、会う資格なんてない。
あるわけがない。
「そんな‥‥」
食い下がる一之瀬君を、京極君が制止する。
「何でだ?」
「何でだって‥‥私のせいで十文字がこうなったのに‥‥」
もう叫ぶ気力もなかった。
私に残されたのは、絶望だけだった。
「それがどうした」
だから、京極君のその言葉は、私にはあまりにも意外だった。
「それがって‥‥」
「お前がどう思ってるか知らないし、興味もない。けどな」
京極君の表情が、さっきまでとは微妙に違う。
真剣さの中に、別な物が含まれている。
「起きた時に一番初めに見たいと思うのは、俺や悠の顔なんかより、一番大事で大切な奴の顔を見たいと思うんじゃないか?」
「それに」
一之瀬君が続ける。
「もし、三神さんが自分のせいだって感じてるんなら、むしろ会わないとダメです。会って‥‥謝らないと」
一之瀬君の言葉が、初めて心に刺さった。
そうだ。
私のせいでこうなったんだから‥‥私は十文字に謝らないといけない。
許してもらえるかどうかは分からないけど、とにかく、謝らないといけない。
「覚悟、出来たか?」
京極君の言葉に、私は頷いた。
地面に根付いたように重かった足は、簡単に前に進んだ。
十文字がいる部屋に着いた。
「じゃ、中に入るから、ついて来て」
京極君を先頭に、部屋に入る。
その部屋は、医療器具を除けばベッドが一つだけの、シンプルな部屋だった。
十文字は、静かに眠っている。
その様子は、まるで――
「三神さん?」
一之瀬君の声が、私の意識をこちらに戻す。
「大丈夫よ、なんでもないわ」
私はそう言って、笑顔を作る。
「‥‥無理しないでくださいね」
一之瀬君は私が何を考えたのか、分かっているみたいだった。
もしかしたら、顔に出ていたのかもしれない。
「葉、隣に行ってやれよ」
京極君はそう言って私を促す。
私は促されるままに、京極君が用意してくれたベッドの隣の椅子に座る。
十文字の整った呼吸の音が聞こえる。
本当に、すぐに目覚めるのか、不安になる。
でも、今の私がすべき事は不安になる事じゃない。
もちろん、くだらない事でうだうだ悩む事も違う。
私が今するべき事は、ただ一つ
信じて待つ事だ。
それが、私が果たすべき責任だと思う。
早く起きてと、祈りながら待つ。
気付くと、私は十文字の手を握っていた。
何か考えていたわけでもない。
でもきっと、なんとなくだとか、そういう事じゃない。
これは、私の本心だと思う。
だって一度握った手を、離したくないと思っているから。
この手の温もりを、逃したくないと思っているから。
そのまま時間が経っていく。
それは、何時間かもしれないし、何分しか経っていないのかもしれない。
そんな、不思議な時間が流れていくなか、私が握っていた手が、私の手を握り返した。
それが意味する事は一つ。
十文字が、目を覚ました。
「ここは‥‥」
「病院よ」
私は、なるべく冷静でいるように自分を抑えながら答える。
「‥‥お前、何でいるんだ?」
十文字が目だけを私の方に向ける。
「あなたに、謝りたくて」
十文字は、黙って私を見ている。
私は、自分の溢れる思いを押さえ込んで、告げる。
「ごめんなさい。迷惑かけて‥‥あなたをこんな目に合わせて‥‥。許してもらえるなんて、思ってないけど、でも‥‥謝らなきゃって、十文字に、謝らなきゃって‥‥」
だんだん言葉がまとまらなくなる。
それと同時に、涙が出てきた。
悲しいわけじゃないのに。
十文字が起きて、嬉しいはずなのに。
言葉がまともに出てこないくらいに、涙が溢れてきた。
十文字は、目を閉じて聞いていた。
「ごめん‥‥なさい‥‥」
私がもう一度そう言うと、十文字は目を開けた。
「なんで謝ってんだよ」
「え‥‥だって‥‥」
十文字がこうなったのは、私のせいだから。
私が皆を巻き込んだから‥‥。
「お前が謝ることじゃねぇだろ」
十文字がゆっくりと私を見る。
「勝手に俺がお前を探しに行っただけだ」
私を庇ってくれている。
少し下手でベタな気はするけど、それでもその気持ちが嬉しかった。
「十文字‥‥」
「だから」
十文字はそこまで言うと、握っていた手を、ゆっくりと離す。
「ごめんって謝るんじゃなくて‥‥ありがとうって言ってほしい」
十文字が笑う。
もしかしたら、こんな表情を見るのは、初めてかもしれない。
私は、止まらずに溢れ続ける涙を拭って、言った。
「ありがとう‥‥十文字」
「上手くいったみたいだ」
ドアから中の様子を覗き見ていた京極君が呟く。
「‥‥そう」
僕の言葉に反応するように、京極君がこっちを向いた。
「ありがとうね、芝居に手を貸してくれて」
京極君は笑っている。
そう、これは芝居だ。
十文字が薬を飲むのを忘れて倒れたのは、本当だった。
三神さんがいなくなった事が、相当気になったんだと思う。
そのアクシデントを、京極君は利用した。
『京極』の力で動かせる病院に搬送し、十文字を「おそらく精神的疲労で倒れた患者」にしたてあげた。
そして、真鈴やフミに協力を頼み、三神さんの不安を煽って、十文字の病室に連れ込み、三神さんが気付かない間に二人きりにして、十文字との関係を上手く繋げた。
「いやぁ、相変わらずの演技だったよ。見事に"追い込まれる少女を気遣う少年"が出来てた」
京極君は笑っている。
「‥‥何が言いたいの?」
僕も小声で返して笑みを浮かべる。
もしかしたら、第三者が見たら仲が良い二人が、友達との関係を上手く出来た事を、喜んでいるように見えるのかもしれない。
もちろん、その気持ちがないわけじゃない。
十文字と三神さんが上手くいけばいいなと思っている。
でも、今の僕と京極君が浮かべている笑みは違う。
互いの腹を探り合う笑みだ。
相手の真意を、確かめようとする笑みだ。
「感謝してるんだよ。悠の演技のおかげで、全部上手くいったんだから」
京極君の表情は変わらない。
本当に、この人の心は読めない。
「‥‥三神さんは、大切な友達だからね」
「友達‥‥ね」
京極君は、同じ表情のまま顎を触る。
「何か悪い?」
「いや、そんな事はないよ‥‥なんか、悠機嫌悪いね?」
京極君は大袈裟に不思議そうな表情を作る。
もし役者だったら、演出家に怒鳴られてしまうくらいわざとらしい。
「良くはないよ。三神さんや奏達を騙してるんだから」
僕がそう答えると、京極君はまた大袈裟にアクションを取る。
「騙したなんて物騒な言葉は使わないでくれよ‥‥あくまでもこれは"芝居"なんだから」
どちらにも違いはないと思うけど、その言葉は京極君にとっては違うみたいだ。
「じゃあ、後は頼むよ、名役者さん」
京極君はそう言うと、静かに歩いて行った。