第八十四話 逃走劇
私は、とにかくがむしゃらに走った。
何も考えずに、ただひたすらに走った。
気がつくと、私は知らない場所にいた。
辺りは真っ暗になっているのに、この場所は明るい。
この街の繁華街なのだろうか。
きっと、この場所はずっと明るいのだろう。
‥‥私の心の中とは反対に。
どうして、こうなっちゃったんだろう。
真鈴が幸せそうな顔で、私に幸せな事を話す。
それは私が望んだ光景で、もう私の日常の一つだったはずなのに。
なのに今日は、それにイラついた。
あの言葉のせいだ。
八つ当たりだと分かっていても、そう思わずにはいられない。
分かっちゃったんだ、全部。
なんで十文字との事を言われて、あんな気持ちになったのか。
今の私が誰かと付き合うという事が信じられなくて混乱したとか、照れくさかったとか、そういう事だと思ってた。
でも本当は違った。
ただ、幸せに満ち足りてる人にそれを言われるのが、ムカついてただけなんだ。
テニスも何もかも、全部自分から捨てたくせに。
自分にない物を持っているから羨ましかっただけなんだ。
嫉妬していただけなんだ。
「最悪だな、私」
誰にも届かない呟き。
当然、誰も返事はしてくれない。
誰も慰めてはくれない。
ふいに、寂しさが押しよせてくる。
自分から突き放しておいて、いないことが苦痛で仕方がない。
そんな時だった。
「こんな所で何してるの?」
知らない声だ。
声のした方を向くと、中身が軽薄そうな、チャラい感じの男が立っていた。
「こんな所だと危ないよ。俺と一緒に来ない?」
男はそう言いながら右手を差し出す。
分かりやすいナンパだ。
ふと、一之瀬君と出会った時の事を思い出す。
あの時は、真鈴と一之瀬君が助けてくれた。
今は隣には誰もいない。
誰でもよかった。
ただ、隣に誰かにいて欲しかった。
男の差し出した手を取ろうと、私も手を出した瞬間、後ろから別の人に手を取られた。
「悪いがこっちが先客だ」
「や、八雲君‥‥」
「さっさと立て」
私は、八雲君に言われるがまま行動する。
「おい、お前」
男が八雲君を呼んだ瞬間、八雲君は私の手を取ったまま走り出した。
「ちょ、ちょっと!!」
「とっとと逃げるぞ」
八雲君は私の言葉を無視して走り続ける。
男も、私達を追いかけて来る。
八雲君はスピードを緩めず走り続ける。
だけど、ほんの数十メートル走った所で、チャラそうな男の仲間らしき男達が行く手を遮った。
八雲君は急停止した。
すぐに男達に囲まれ、チャラ男にも追い付かれた。
「横から女かっさらおうなんざ、なかなか面白い事してくれんな、お前」
「いや、それほどでも」
「褒めてねぇよ!」
チャラ男が八雲君を睨みつける。
「お前、俺らが誰だか分かってんのか?」
「不良B」
「モブ扱い? しかもAですらねーんだ」
「意外とノリいいなこいつ」
八雲君が呟く。
「お前ら今どういう状況なのか分かってんのか? 泣く子も黙る、天下無敵の創園生に囲まれてんだぞ?」
創園、という言葉には聞き覚えがあった。
悪い意味で、有名な高校だ。
「お前らみたいな面見せられたら笑ってた子も泣くな」
八雲君は冗談めいた口調で話し続ける。
創園高校は、不良のたまり場のような高校だ。
きっと、こいつらもそういう人間なんだろう。
不良に囲まれてる、という状況が良い状況なわけがない。
ましてや八雲君は部活に所属してる。
自分が怪我をするのはもちろん、相手に怪我されても問題になる。
これ以上ないほど、危険だ。
でも、どうすればいいのか分からない。
私が巻き込んだのに。
勝手な理屈でここまで来て、変な男に絡まれて。
そして、全然関係ない八雲君がピンチになっているのに。
私は、足がすくむばかりで、何も出来ない。
八雲君も、口では冗談めいた口調でいるけど、しっかりと繋がれた手からは動揺が伝わってくる。
こんな状況だからか、相手が八雲君だからか、手を繋がれてても不快じゃないな、と現実逃避にそんなことを考える。
逃避したところで、状況が変わるはずがなく、男達がじりじりと近づいてきた。
「八雲、伏せろ!」
どこかから、聞き覚えのある声がした。
八雲君と私は、言われた通りに伏せた。
その瞬間、何か球体の物が投げ込まれ、球体から煙が出て来た。
「な、何だこれ!」
「誰だちくしょう!」
「前が見えねぇ!!」
男達が次々に喚き立てる。
八雲君と私はその隙に、男達の中から脱出した。
「急げ!」
また、聞き覚えのある声。
私達はその声に従って、急いでその場から離れる。
それに気がついたチャラい男が、私達を追いかけて来る。
意外に足が速いが、八雲君の足なら逃げ切れるはず‥‥だった。
だけど、今は私がいる。
八雲君は私のペースに合わせて走ってくれる。
だから、男との差がどんどん縮まっていく。
「三神、急げるか?」
八雲君はまだ体力的には余裕そうだった。
でも、私のほうは限界だった。
家からここまで、めちゃくちゃに走っていたのが効いてきていた。
私が首を横に振ると、八雲君は舌打ちをしてスピードを緩める。
「仕方ねぇ、ここで足止めするか」
「足止めって‥‥」
「俺から離れてろ」
八雲君は私の問い掛けに答えずに急停止した。
「何だ、ようやくやり合ってくれるのか?」
男はニヤッと笑うと、スピードを緩めゆっくりと近づいて来る。
「御託はいいからさっさと来いよ」
八雲君が吐き捨てるように言う。
男は相当フラストレーションが溜まっていたのか、その一言で完全にキレた。
瞬時に男の拳が八雲君を襲う。
八雲君はそれをぎりぎり避ける。
「ハッ、やるじゃねぇか!!」
男は格闘技でも習っていたのか、洗練された動きで八雲君を襲う。
八雲君は、それをかろうじて回避していく。
八雲君は、相手を怪我させる事は出来ない。
だから躱すしかない。
今この場で、この男をどうにか出来るのは私だけだ。
それに、そもそも私が蒔いた種なのだから、私が何とかするべきだ。
なのに、私の足はその場から動いてくれない。
拳を握ることすら出来ない。
恐怖が全身に纏わり付いて、どうしてもそれを拭い去されない。
動かなきゃいけないのに。
助けなきゃいけないのに。
体の全てがそれを拒否する。
男の拳が、八雲君の顔を掠めた。
八雲君の表情は、どんどん険しくなっていく。
男は、殴り掛かってこない八雲君に対して余裕の表情を浮かべていた。
「なんだよ、避けてばっかじゃつまんねぇだろ!?」
「あいにく、お前らみたいな不良とは違うんで、怪我させられないんだよ」
八雲君の言葉は、男の怒りを増幅させる。
「そうか‥‥なら黙って殴られとけや!!」
男が、また拳を繰り出す。
八雲君は、今度は回避しなかった。
する必要がなかった。
「悪ぃ、遅くなった」
男の拳は、急に現れた奏が止めていた。
奏はすぐに男の拳を払いのける。
「いや、十分計画の範囲内だ」
八雲君はそう答えると、奏がニカッと笑ってこっちを向く。
「それじゃ、後は手筈通りに」
「ああ‥‥怪我するなよ」
八雲君はそう言うと私の手を取ってまた走り出す。
さっきまで地面に張り付いていた足は、簡単に動いた。
「急いで逃げるぞ」
「か、奏は!?」
「他の連中と一緒に後で合流する」
「だけど」
「あいつ、俺より喧嘩強いし、それに‥‥今はこれしか手がない」
そう言う八雲君自身が、今してる事に納得していないようだった。
当たり前だ。
自分の彼女に、こんな危ない事をさせたがる彼氏なんて、いるはずがない。
私のせいで、皆を巻き込んで、危ない目に合わせている。
なのに、私自身は一人じゃ逃げる事も出来ずに、ただ、怯えるしか出来なかった。
どうして私はこんなにも馬鹿で弱虫なんだろう。
私がもっと利口で、もっと強かったら、皆をこんな目に遭わせななくてすんだのに。
「三神、右に曲がるぞ」
ふいに、八雲君に声を掛けられる。
気付くと、目の前は十字路だった。
私が頷くと、八雲君が右に曲がる。
その瞬間私の目に飛び込んできたのは、良く知った車だった。
「これ、お母さんの‥‥」
「さっさと乗るぞ」
八雲君が私の手を掴んだまま車に乗り込む。
中には、当然ながら運転席にお母さんが、そして助手席には真鈴がいた。
「‥‥葉」
真鈴が私を見る。
それだけの行為ですら、今は苦痛で仕方ない。
「色々話したい事はあるだろうけどな、今はそれどころじゃないんだよ」
「‥‥分かってる」
真鈴は渋々といった感じで頷く。
お母さんがアクセルを踏み込み、規制ぶっちぎりアウトの速度で走りだす。
「お、お母さん!?」
「葉、もっと詰めてなさい」
私の問いかけに答えず、お母さんが真剣な表情で言う。
私はお母さんに言われた通りにドアの方に詰める。
暴走に近い速度で走る車は、5分も経たないうちに急停止した。
止まってすぐに八雲君がドアを開ける。
その瞬間、外の喧騒の音が聞こえてくる。
音のする方を見ると、奏、そして五十嵐君が、後から出て来た男達10人以上を相手に二人でやり合っていた。
あの八雲君の名前を呼んだのは、五十嵐君だったみたいだ。
「奏!!」
八雲君が力いっぱいに叫ぶ。
その瞬間、二人がこちらに向かって走りだす。
男達も追いかけてくるが、二人の方が速い。
二人が車に飛び乗った瞬間、お母さんが車を急発進させる。
八雲君が動いている車の扉を無理矢理閉める。
「とりあえずこれで大丈夫なはずだ」
八雲君がようやく安堵したように笑みを浮かべた。
「いや、久々にガチ喧嘩だったわ!!」
奏はまだ興奮しているようだ。
五十嵐君も、そんな奏を見て笑みを浮かべている。
五十嵐君の顔に、何箇所か殴られた後があった。
奏も、足を怪我しているのか血がうっすらと出ている。
‥‥私がもしここに来なければ、負う事のなかった怪我だ。
胸が、張り裂けそうになる。
私のせいで、また他人を傷つけた。
もう、あんな思いは誰にもさせないと誓ったはずなのに。
なのに、また、私は‥‥
「――カ、ミカ!?」
気がつくと、奏が、私の名前を呼んでいた。
「ごめん、考え事してて」
「いや、そんな事は別にいいんだけどよ。どうしてこんな所に来てたんだ? 喧嘩したって言っても、わざわざこんな所選ばなくても」
すぐには答えられなかった。
真鈴と喧嘩をしたわけではない。
こっちが勝手にキレて家を飛び出しただけだ。
それに、ここに来たのは偶然だ。
たまたま、めちゃくちゃに走っていたらここに着いただけの事だ。
まず、何から話すか考えていた時だった。
五十嵐君の携帯が鳴った。
「もしもし、――うん。無事に確保したよ。みんなだいじょ――えっ?」
そこで、五十嵐君の言葉が途切れた。
顔が、どんどんと険しくなっていく。
「それ、どういう事さ。だって、薬が――忘れたって、でも――」
ちらりと私の顔を見た。
「そういう事、か‥‥うん、分かった。すぐに行くよ」
五十嵐君が電話を切った。
「すいません。今、どこに向かってますか?」
「一之瀬さんの家です。とりあえず他の人と合流しなければいけませんから」
事情を知らない私にも、なんとなく理解出来てきた。
きっと、私が家を出てから、皆が手分けをして探してくれたのだろう。
‥‥私に、そこまでしてもらう価値なんて、ないのに。
「合流先、変わったそうです」
「どこになったんですか?」
お母さんの質問に、五十嵐君は険しい表情のまま。
「病院です」
そう答えた。
「‥‥どうしてそんな所に?」
お母さんがもう一度訊く。
「十文字が‥‥搬送されたそうです」