第八十二話 もう一度
足取りが重い。
「ハァ~‥‥」
また、溜め息が出る。
もう何度目か分からない。
5回を越えた所で数えるのはやめた。
もし、幸せが逃げるというのが本当なら、しばらく私の元には幸せは来ない。
そう思った時、私は私自身を笑っていた。
"あの時"から、真鈴のためなら自分の幸せは捨てようと思っていたのに、むしろ手に入れようとしている。
気がつかないフリをしていても、指摘された以上、もう無理だ。
私は、未だに一之瀬君に対する気持ちを消しきれていない。
あっちも好き、こっちも好きだなんて、気の多い女だ。
嫌な‥‥女だ。
こんなぐちゃぐちゃした気持ちで真鈴に会いたくない。
「だからって帰らないわけにはいかないわよね‥‥」
呟いた言葉が宙に消える。
そうだ。
いつまでもこんな事を考えていてもしかたない。
そう自分に言い聞かせて、なんとか切り換えようとする。
でも、そんなに簡単に出来るなら、そもそも悩んだりしない。
ドロドロした気持ちを抱えたまま、歩き続けるしかなかった。
結局、家に着いたのはいつもより一時間も後だった。
「遅かったわね、葉」
台所からお母さんに声をかけられる。
別に怒ってるわけじゃなく、普段時間通りに帰って来る私がこんなに遅くなったのが気になっただけみたいだった。
「うん。ちょっとね。真鈴は? 帰って来てないの?」
「一之瀬さんとデートみたいよ。少し遅くなるって。お嬢様から聞いてないの?」
その言葉を聞いて、私は安心していた。
まだ、真鈴に会わなくて済む。
「聞いてないわ。まぁ、あの二人なら仲良くやってるでしょ」
私はそう答え、真鈴が帰って来る前に気持ちを切り換えようと、すぐに部屋から出ようとした。
「葉、ちょっといい?」
だけど、お母さんに呼び止められた。
「何? 手伝いなら着替えてからするから」
「違うわ。今日、球技大会だったんでしょ? 葉、どうだったの?」
「優勝したわよ。経験者私だけだったし」
「そうじゃなくて、その、楽しかった?」
お母さんは、微笑んでいた。
だけど、どこか不安そうに見えた。
「‥‥まぁまぁ、かな」
なるべく笑顔を浮かべながら答える。
実際どうだったのか、私自身覚えてない。
手応えはなかった。
ただ、必死だった。
全力を、見て欲しかった。
唯一の、私が誰にも負けない部分を見て欲しかった。
本当にそれだけなんだと、自分に言い聞かせる。
「そう。それなら良かった」
何となく、違和感があった。
いつものお母さんじゃないようだった。
どことなく、歯切れが悪い。
「どうかしたの? 何か言いたい事があるんなら普通に聞くけど」
私が訊くと、お母さんが真剣な表情になる。
「‥‥もう一度、テニスやってみる気はないの?」
どうも今日はその話ばかりされる。
「真鈴に何か言われたの?」
私が訊くとお母さんは首を横に降る。
「じゃあ何で?」
「あなたからテニスの話聞くの、あの時以来だもの。また昔みたいに」
「やらないわよ」
お母さんが喋っている間に答える。
これ以上この会話を続ける事を堪えられなかった。
「でも」
「言ったでしょ、先生に勝手に決められたんだって」
「‥‥言ってた」
「私はやる気なんてなかったわよ。話はこれで終わり? だったら」
「嬉しそうだったわ」
今度は私が喋っている途中でお母さんが割って入ってくる。
「何が?」
少なからず、今日家を出るまで、私はそんな気持ちを持ってはいなかった。
「お嬢様がよ。あなたは知らないでしょうけど」
お母さんが何が言いたいのか、さっぱり分からない。
「何の事?」
「お嬢様、あなたがまたテニスをやるって話を嬉しそうにしてたのよ」
「嘘‥‥」
そんなはず、ない。
そんなはず‥‥
「本当よ。あなたの前じゃ、絶対にそんなそぶり見せないだろうけど」
「だって私は!」
だって私は‥‥真鈴を壊したから。
真鈴から、奪ってしまったから。
「あなたが思ってるより、お嬢様は前を向くの上手いわよ。まぁ、周りの協力があったからこそでしょうけど」
そんなこと、分かってる。
真鈴はもうあの時の事から立ち直ってる。
消えた感情は、一之瀬君のおかげで取り戻す所か、あの時以前にはないくらい豊かになった。
とっくに一之瀬君と一緒に、時には他の人の力を借りながら、歩み始めてる。
いつまでも何か理由をつけて留まっているのは、私だけだ。
それでも。
「また始めてみれば、テニス。ブランクがあるから、多少時間はかかるかもしれないけど」
「ごめん」
やっぱり、その選択肢だけはない。
「無理、だよ」
誰に何を言われても。
「私はもう出来ないよ」
それが私のケジメだから。
「‥‥そう。それなら、仕方ないわね」
お母さんは私の答えを聞くと、笑顔でそう言ってくれた。
「ごめんね、お母さん」
「どうして謝るの? あなたが悪いんじゃないんだから」
お母さんは笑顔で、子供にするみたいに、頭を撫でてくれた。




