第八十一話 ドロドロとしたもの
時間が戻ります。
三神視点です
「三神君」
一之瀬君達がいなくなってすぐ、私は後ろから別の男の人に呼び止められた。
「何かご用ですか、溝口会長」
溝口会長は爽やかな笑みを浮かべていた。
「いや、特に用があるわけじゃないんだけどね。少し揉めていたようだったから」
「‥‥生徒会長のくせに盗み聞きですか?」
私はなるべく冗談めかした口調を使う。
なるべく早くこの場を去りたかった。
どうもこの人は好きじゃない。
一度も会話した事のない人を好きだの嫌いだの言うのは良くない事だけど、この人を見ると、どうも"あの時"の事を思い出してしまう。
「するつもりなかったけどたまたま聞こえてね‥‥気にしてるなら謝るよ」
「いえ、たいした話じゃないですし」
私はそう答えて立ち去ろうとすると、溝口会長は表情を変えずに一之瀬君達がいなくなった方を見る。
私は思わず足を止めた。
「彼らは、そうは思っていないみたいだったけど」
「‥‥何がおっしゃりたいんですか?」
「たいした事がないと言い切るのはどうかと思うよ。少なくとも、一之瀬君や砂川君は本気のようだけど」
そんな事は分かってる。
特に一之瀬君は、自分の事のように考えてくれているようだった。
だけど――
「関係ないですよ」
これは私の問題だから。
「もうテニスをやる気はないんですよ。私達の会話、聞いていたんですよね?」
「本当にやりたくないのかい?」
溝口会長は相変わらず笑みを崩さない。
「どういう意味ですか?」
「僕にはその言葉は君の心から言った物とは思えないんだよ。テニスをしてた時の君は、本当に輝いていたから」
「退屈でしたよ。全然手応えないんですから」
手応えがなかったのは、本当だった。
サーブとリターンだけで勝てたのだから、手応えがあるはずがない。
「だったら、手を抜いてあげれば良かったんじゃない?」
「それは‥‥」
その通りだ。
素人相手に私が本気を出せば、まともな試合にならないのは簡単に想像出来た。
それでも手を抜かなかったのは――
「あの人達に、いいところ見せたかっただけですよ」
本当は、"達"じゃない。
たった一人のために、あいつだけに見て欲しかったから。
「本当にそれだけかい?」
溝口会長は口元に指をあてる。
「‥‥さっきから歯に歯切れが悪い言い方ばかりしますね。単刀直入におっしゃる事は出来ないんですか?」
「なかなか君はストレートに物を言うね」
溝口会長は私の失礼な物言いにも、特に怒った様子を見せなかった。
「なら、お言葉に甘えて‥‥」
溝口会長はそこでいったん区切り、そして、
「本当は、テニスが好きだから、テニスで手を抜きたくなかったんじゃないのかい?」
そう言った。
「何を‥‥」
馬鹿な事を、とは言えなかった。
言えば、私は本当にテニスを否定する事になる。
「君、強いだけじゃなく、本当にテニスが好きだったと、そう聞いたけど」
誰に、と聞く必要はなかった。
「由香さんから聞いたんですか?」
「確かに、彼女からは色々と聞かせてもらったよ。彼女、相当君に惚れ込んでいるみたいだね」
「買いかぶってるんですよ、あの人は」
私がそう答えると、溝口さんは、初めて笑顔を崩した。
「過剰な謙遜はむしろ無礼だよ。君は優勝したんだろう?」
「一之瀬君との話、聞いてたんでしょう? あれは」
「だからこそ言っているんだよ」
溝口会長は私の話を遮り、一歩私に近付く。
「確かに君はメンタルが強いとは言えない‥‥でも、あの時の君は、むしろ彼女を支えていたじゃないか」
それは、まるで私の事を知っているかのような口ぶりだった。
私の動揺が顔に出てたのか、溝口会長はまたうっすらと笑みを浮かべる。
「君は有名だったからね。表舞台から姿を消した時には、少し驚いたけど」
溝口会長はくすくすと笑う。
この人は、どこか京極君に似ている、と思う。
こちらの突かれたくない部分を、確実に突いてくる。
一つ、京極君と違うところがあるとするならば、京極君は単刀直入に徹底的に突いてこっちの反応を見る。
溝口会長は、ぬらりくらりと適度に突いて、こちらの不安を煽る。
問題を解決しようとする者と、そうでない者の差といえば、それまでなのだろうけど。
「会長も‥‥テニス、やってたんですか?」
「少しだけね。君達のように本気でやっていたわけじゃないけど」
溝口会長はそう言うと、また口元に指をあてた。
どうもこれがこの人の癖らしい。
「まぁ、だから教えて欲しいのさ。あれだけ強くて、しかもテニスが好きだった君が、どうして辞めてしまったのか」
溝口会長は、笑っている。
確かに笑っている。
だが、会長の言葉には、何か言葉では表現出来ない感情がこもっていた。
「一之瀬君にも言いましたけど、自分の限界が分かったから、ですよ」
「君はどんな時でも、諦めないで全力以上の力で戦う人、と聞いたけど」
溝口会長は笑みを崩さずに言う。
「それは‥‥昔の話ですよ」
その言葉に、嘘はなかった。
諦めなければどうにかなるなんて事、この世にはないと知った。
「そうなのかい? 今も、君は諦めが悪いように感じるけど」
「そんなこと‥‥」
「いや、諦めきれない、というのが正しいのかな」
心をえぐるような言葉だった。
「テニスも、友達も、夢も‥‥なにもかも諦めなれない」
止めて。
「諦めきれないのに‥‥捨てようとしている」
もう、言わないで。
「手放したいから‥‥人に託す」
これ以上責めないで。
「そのくせ、後悔する」
「止めて‥‥」
「だから‥‥託した物を」
「もう止めて!!」
思わず叫んでいた。
「あなたに‥‥何が分かるの!?」
溝口会長は笑ったままだ。
「何も知らないさ。君が我が儘という事くらいかな」
「そんな事‥‥」
「自分で分かってる?」
「ふざけないで!」
「うん。ふざけてない」
溝口会長はそう言うと、また口元に指をあてた。
「君は自分で気付かないフリをしてるだけでしょ。自分のドロドロとした気持ちを」
そんな事はない。
私にそんな気持ちはない。
自分にそう言い聞かせる。
でも、一度指摘された言葉を切り捨てる事は出来ない。
「私は‥‥」
「会長ー!? 何してるんですか!?」
どこかから声がした。
「おや、百武君、どうかしたのかい?」
いつの間にか、廊下の遠くの方に百武さんが立っていた。
「どうかしたのかじゃないですよ! 鍵持ったままどこか行かないで下さい!」
百武さんがこちらに走って来る。
「副会長が校則破るのは感心しないな」
「急いでるんです! 会長も早く――あら」
百武さんは私に気付いた。
「三神さんと何か話してたんですか?」
「たいしたことじゃないですよ。では、私はこれで」
私はそう言って立ち去る。
ドロドロとした物を抱えたまま。