第四十五話 彼女の幸せ
由香視点の話になります
放課後、リレーの選手に選ばれた人の中で部活のない人は、京極さんの借りた運動場――学園から徒歩5分――でリレーの練習をしているらしい。
本当は学校のグラウンドを使おうとしてたらしいけど、グラウンドは野球部が使ってて無理だったみたい。
「由香!」
部長であるヒメさんに呼ばれる。
ちなみに城羽学園のテニス部では中等部も高等部も一緒になって活動する。
テニスコートが凄く大きいからだ。
学園自体が無駄に広いし、無駄にお金があるから、こういったところにお金をかけてる。
まぁ、泪さんとかヒメさんとか、強い人と沢山練習出来るから私的には大歓迎だけど。
三神さんもテニス部に入れば良いのに‥‥二宮さんのお世話とか忙しいのかな?
「由香、聞いてる?」
ヒメさんが少し呆れ顔で私を見る。
「あ、ごめんなさい、何でしたっけ?」
私が訊くとヒメさんはニヤッと笑う。
「また悠君のこと考えてたんでしょ?」
「ち、違います!」
ま、まぁ全然頭の中になかったって言ったら嘘になるけど‥‥
「本当? まぁどっちでもいいけど、人の話はちゃんと聞いてね」
ヒメさんは笑いながらそう言って、もう一度最初から話始めた。
今日の練習が終わった。
ネットを用具室に片付け、ふぅ、と溜息をつくと、後ろから誰かにぽんと肩を叩かれた。
「さっきから元気ないけど、どうかしたの?」
後ろを振り向くと、泪さんが心配そうな顔で私を見ていた。
「な、何でもないですよ! 大丈夫です!」
私がそう言うと、泪さんは「ならいいけど‥‥」と呟く。
「悩みがあったらいつでも言ってね。私でよければ相談にのるよ」
「じゃあ、その時はお願いします」
私はそう言って泪さんから離れて更衣室で着替えを始める。
泪さんに気付かれたかと、内心、凄くドキッとした。
ヒメさんも泪さんもいつも他人のことなんて見てないのに、こういうことには敏感なんだから‥‥
本当は悩みはあった。
ヒメさんに言われた通り、悠のことだ。
別に悠が二宮さんのことばかり考えて私のことを見てくれないとかそういうことじゃない。
むしろその逆だ。
悠が二宮さんを大事にしてないように見えるのだ。
もちろん、絶対にそんなことはないのだろうし、二宮さんのことを一番に考えてるだろうけど‥‥
私といる時だって、私を気遣ってるのか、私が話を振らない限り二宮さんの話題は出ない。
でもそれは、悠がずっと私の近くにいるって約束したせいだ。
だから、私が何とかしなくちゃいけないんだけど‥‥。
そんなこと考えながら着替えを終え、更衣室を出て玄関に行くと、リレーの練習をしていたはずの悠がいた。
「あ、由香、部活終わったの?」
悠が私に気付く。
「う、うん、終わったけど‥‥リレーの練習はどうしたの?」
「終わったけど‥‥えっと、忘れ物しちゃったから」
悠は頬をかきながら答える。
それは、悠が隠し事をしてる時の癖だった。
本人は気がついてないだろうけど、演技が上手い悠が、唯一隠せてない癖だ。
きっと二宮さんが忘れ物をしたんだろう。
「‥‥そっか」
私がそう答えると、悠はいつもの笑顔を見せる。
「あ、そうだ。一緒に帰る?」
そんなことを言い出した。
本当にバカじゃないかと思う。
せっかく彼女と二人きりで帰れるのに、私も一緒に帰ったら二宮さんに迷惑がかかる。
すぐに私は断る理由を考える。
『忘れ物』や『荷物を取りに行く』じゃきっと悠は待ってるだろうし、『人を探してる』や『物を探してる』じゃ悠は一緒になって探そうとするだろう。
どうしようかと考えていたら、私に誰かが話しかけてきた。
「由香ぁ、ヒメが呼んでたよぉ」
京極さんだった。
「ヒメさんが‥‥?」
私が不思議に思っていると、京極さんが私の目を見た。
そして気付いた。
京極さんは理由をつけて悠を先に帰そうとしている。
「そうですか! どこにいますか?」
私が訊くと京極さんは満足ににっこり笑う。
「コートで一人で練習してたよぉ。手伝って欲しいんじゃないぃ?」
京極さんは「じゃあぁ、伝えたからねぇ」と言って立ち去った。
「じゃ、悠、そう言うことだから、私今日遅くなるかも。一応晩ご飯は作ってあるから‥‥」
「うん、分かった。練習頑張ってね」
悠は頷くといつも通りの笑顔を見せる。
その笑顔が、大好きなはずの笑顔が、今の私には辛かった。
コートには当然人はいなかった。
そもそもネットを外したんだから練習なんてするはずがない。
「本当に来たんだ」
そう言ったのは、いつの間にか私の後ろに立っていた京極さんだった。
さっきまでとは口調が違う。
「ヒメはいないよ」
「分かってますよ‥‥さっきはありがとうございました」
私が頭を下げると、京極さんはいつもの笑顔で私を見た。
「由香でも遠慮とかするんだ」
「それじゃあ私が全然遠慮しない自己チューな女みたいじゃないですか」
私がそう言うと、京極さんは笑顔のまま首を横に振る。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ‥‥ただ昔より大人になったねって思っただけ。昔の由香は悠のことだけを考えてたけど、今の由香は真鈴のことも考えてるでしょ?」
‥‥違う。
「それって進歩だよ。今まで視野が広がったってことだから」
‥‥違う。
そんなんじゃない。
「これからは悠以外のことも考えられるってことだしね」
‥‥違う!!
「やっぱり、由香はもっと周りを見なきゃダメだよ。兄離れしなきゃ」
「‥‥違う!!」
私は思わず叫んでいた。
「私は‥‥今でも、悠のことが一番大事で‥‥悠のこと以外考えてない!」
私がそう言うと京極さんは急に真面目な顔をした。
「‥‥それが、お前の本心か」
冷たい声だった。
一度だけ、聞いたことのある声だった。
十文字さんが『ナイトメア』のリーダーになる直前、リーダーを引き受けるかどうか迷っていた十文字さんと話していた時の声だった。
私が頷くと京極さんはニヤリと笑う。
背筋がゾクッとするような笑みだった。
「だったらお前のやりたい通りに動けばいいだろ? もっと悠といちゃいちゃしたい。真鈴だけじゃなくて自分を見て欲しい。自分が思ってる分だけ、悠にも自分を愛して欲しい‥‥お前はそう思ってるんだから」
京極さんが私が気付かないようにしていた私の心の声を汲み取ったようにすらすらと言う。
「そんなの‥‥出来るわけないじゃないですか‥‥!!」
そうだ。
出来るはずがない。
悠が今一番大切な人は‥‥二宮さんだ。
二宮さんと初めて会ったあの日、悠は私を叱った。
その時、悠は本気でこの人のことが好きなんだと分かった。
だから私は悠を諦めることにした。
私が悠を思っていればいるほど、悠を困らせると思ったから。
なのに、頭では分かったつもりでいても、心は全然納得してなかった。
抱きしめたり、キスしたり、結局私は今も悠を困らせてる。
なのに、そんな私に悠は今でも笑顔で接してくれる。
迷惑なはずなのに、私に優しくしてくれる。
そのことが、泣きたくなるくらいに辛かった。
これ以上‥‥悠の枷になるわけにはいかないのに。
自分の気持ちを押さえて‥‥悠と二宮さんを仲良くさせようと思ってるはずなのに。
「でも実際にしてんじゃん。『夢魔の巣』で、抱きしめたりキスしたりしてただろ?」
京極さんはニヤッと笑いう。
「み、見てたんですか!?」
「ああ、バッチリ。千夏とか葉が騒いでたから見てないって思ったんだろうけど」
京極さんはそこまで言うと、また真剣な表情になる。
「‥‥もしかして、自分が悠の枷になってるとか思ってるのか? だから、自分の思いや気持ちを抑えつけてるのか?」
また、私の思いを当てられた。
まるで、もう一人の自分と話してる気分だ。
「その反応は、図星だな」
私が素直に頷くと、京極さんは呆れたような表情でため息をつく。
「あのなぁ‥‥確かにお前がしたいことをして悠が幸せになれるかどうかは分かんねぇよ。けどな、お前がしたいことしなきゃお前が不幸だろ」
「そんなこと‥‥そんなこと、分かってます」
私の脳内に、数日前の光景がリプレイされる。
廊下で、悠を二宮さんが抱きしめていた。
私は、それを陰から見ていた。
普通ならラブラブなカップルに見えるはずなのに、全然そんな甘い雰囲気じゃなくて‥‥なぜか重くて暗い雰囲気だった。
私は、悠の幸せを願うなら、心配しなきゃいけないはずだった。
なのに、心のどこかで喜んでた。
結局仲良く手を繋いでいるのを見て、ホッとしている私と‥‥苛立っている私がいた。
無理矢理にでも手を離そうとも思った。
悠は二宮さんと仲良くしなきゃいけないのに‥‥それを嫌ってる私がいる。
悠と二宮さんが仲良くなればなるほど‥‥私は幸せから離れて行く。
それでも‥‥
「私がどれだけ不幸になっても‥‥それでも悠が幸せになら‥‥私は‥‥私はそれで良い‥‥!!」
「お前バカか?」
京極さんが苛立ったような声になる。
「お前が不幸なままじゃ、悠は幸せになれねぇよ。悠はいつだって自分よりも他人のことを気にするような奴だ! お前が不幸なら、悠は自分の幸せを放り出しても、お前を幸せにしようとするだろうが! ずっと一緒にいるお前が、なんでそれに気付かない!?」
京極さんは声を荒げ、私を睨むような目で見る。
そんなこと、とっくに気付いてた。
でも、気付かないフリをしていた。
だって、気付いてしまえば‥‥
「じゃあ、私は‥‥どうすればいいのよ‥‥っ!?」
私の幸せは悠と一緒にいることで満たされる。
でも、そうすれば悠と二宮さんが一緒にいられなくなって、悠が幸せになれない。
もし、悠が自分の幸せを追求しようとすれば、私はきっと幸せになれない。
だから、悠は自分の幸せを手に入れようとしない。
だから、このままじゃ悠はどうやっても幸せにはなれない。
「簡単だろ。お前が幸せになろうとすれば良い」
「そんなこと‥‥今の悠が一番大切にしなくちゃいけないのは‥‥真鈴さんなんです! 私じゃ‥‥」
そこまでしか言えなかった。
いつの間にか、私は泣いていた。
止めようと思っても、全然止まらなかった。
「一番大切な人って一人じゃなきゃダメなのか?」
少し私が落ち着いてから、京極さんが私に聞いた。
「え‥‥?」
「俺はヒメが好きだ。恋人として。ヒメのためなら何でも出来ると思ってるし、今までもヒメのためなら何でもやってきた。でも‥‥」
京極さんは私の目を見た。
そこには強い光があった。
それはさっきまでの冷たい感じも、のほほんとした感じでもなかった。
「俺は千夏やモモや十文字も好きだ。友達として。千夏が困ってたら手を貸してやりたいと思うし、モモが泣いてたらそれを止めてやりたいと思うし、十文字が何かして欲しいことがあったらそれをしてやりたいと思う。恋人も友達も‥‥俺にはどっちも大切。比べるなんて出来ない。悠も多分そう。悠にとって真鈴は大切な恋人だし、由香は大切な妹だろ。どっちも世界に一人しかいないんだ。どっちも大切にするだろ」
京極さんはそう言って私を安心させてくれる微笑みを浮かべる。
「別に、最終的にはお前の自由だよ。本当に悠を諦められるなら、それでもいいと思う。だけど‥‥」
京極さんはそこで一度言葉を止めて、真剣な表情に戻る。
「そうやって自分の気持ち隠してると、取り返しのつかない事になるんだよ」
京極さんはそう言うともう一度微笑む。
「今の由香なら、まだ取り返しがつく。まだお前を心配してくれる人はいる。ヒメも泪も俺も‥‥勿論、悠もね。悠、お前が変だって、かなり心配してたからな」
「嘘‥‥」
そんなそぶり、まるでなかった。
昨日も一昨日もその前も、いつもと変わらない悠だった。
いつもと変わらない笑顔を見せてくれてた。
「言っちゃあ悪いけど‥‥お前が何したって悠に迷惑はかかる。お前は悠の枷になる。悠はいつもお前の心配してるからな‥‥兄貴ってのは大変だな」
京極さんはそう言うと、背伸びをして私の肩をぽんと叩く。
「迷ったら相談しろよ。役に立つかどうかは分かんないけど‥‥俺だけじゃない。ヒメだっている。泪だっているし、千夏やモモだっていつだって相談くらい聞くさ。お前にはこれだけの仲間がいるんだ。だから‥‥安心しろ。困った時はなんとかしてやるから」
京極さんはそう言うと、いつもの笑顔を浮かべながら、私を見る。
不安定な私の心を、包み込んでくれるような笑顔だ。
また、涙が流れ始める。
「ありがとう‥‥ございます‥‥っ!」
震える声でなんとか絞り出す。
京極さんは、私が泣き終わるまで、ずっと傍にいてくれた。
私達のマンションまで京極さんが車で送ってくれた。
扉の前で深呼吸をする。
いつもの私でいよう。
無理矢理作った私じゃなくて‥‥自然体の私で。
リラックスしてから扉を開ける。
「ただいま!」
そう言って玄関に置いてある靴を見ると、全部で四足あった。
二つは悠と二宮さんの靴、そしてなぜか六車さんの靴もあった。
だけど、もう一つには見覚えがなかった。
誰か、私の知らない人が来てるんだろうか?
「おかえりなさい、由香」
そう言ってリビングから出て来たのは、思ってもみない人だった。
「お姉ちゃん‥‥?」