第四十話 姉と弟
途中から奏視点です。
ちなみにハル=京極遥、ヒメ=砂川姫乃、ちなちゃん=千石千夏です
『過労及び睡眠不足による軽い発熱と貧血、バランスの悪い食生活による超軽度の栄養失調』
それが結衣の倒れた原因だった。
月さんが僕に結衣が倒れたことを伝えた後、僕達は医者を探そうとフロントに行く途中で昨日リネン室にいたお婆さんに出会い、訳を話すと実はお婆さんが昔医者だったことが判明、すぐにお婆さんを連れて結衣の部屋に向かい、診断してもらった。
お婆さんはぱっぱと僕達にいろんな指示を出し、あっという間に診断は済んだ。
「それほど深刻なものではありませんが‥‥しばらくは安静にしていたほうがいいですね。起きたらきちんとご飯食べさせてあげて下さい」
お婆さんは最後にそう言って部屋を出て行った。
「結衣、やっぱりほとんど寝てないんですか‥‥?」
僕が月さんに訊くと、月さんが頷いた。
「お仕事の関係で‥‥お食事もいつも簡単な物しか‥‥」
「ほとんど寝れない仕事って‥‥結衣さんはどんな仕事してるんだ?」
真鈴が僕に訊く。
「真鈴は‥‥『万代』の本社で働いてる」
「『万代』って‥‥あの万代か?」
「うん。そうだよ」
『万代』は真鈴の親が社長を勤める『一星』に匹敵する、日本でも五本の指に入る大会社で、あちこちでその名前を聞くことが出来る。
「だが‥‥万代がそんな労働基準法に反したようなことをするのか?」
「違うよ。結衣は特別なんだ」
「特別‥‥?」
「結衣様は、『万代』史上最年少の課長なのです」
月さんが僕の代わりに答える。
「課長って‥‥結衣さん、まだ‥‥」
「27歳だよ。僕より一回り上だから」
「そんなの‥‥アリなのか?」
真鈴が不思議そうに訊く。
「それだけ優秀ってことだよ。『万代』は実力主義の会社だから‥‥結果も残してるしね」
「とはいえ、自分よりも年齢の低い女性の下で仕事をするのに納得しない人や、反発する人も当然います。結衣様はそういった人達を黙らせるために寝る間を惜しんで仕事に明け暮れているんです。今回ここに来たのは、そういった日頃の疲れを癒してもらうためだったのですが‥‥」
月さんはそう言うと唇を噛んで俯く。
結衣が倒れるまで頑張り過ぎてしまっていたことに気がつけなかったのを悔やんでいるようだった。
「別に月さんのせいじゃないんだから、そんなに気にしなくてもいいと思いますよ」
「ですが‥‥私がもっと‥‥もっとしっかりしていれば‥‥」
僕はそう言って落ち込む月さんの手を取った。
「悠様‥‥?」
月さんが顔を上げ僕の方を見る。
「月さんはちゃんと結衣の支えになってます。そうじゃなきゃ、こんな若さで課長なんか勤まりませんよ。それはきっと‥‥結衣が一番良く分かってくれてると思いますよ」
僕は月さんが安心出来るように、出来るだけ優しく語りかけるように言った。
月さんはほんの少しだけ口元を緩めた。
「悠様は‥‥全く変わられませんね‥‥あの頃と同じ‥‥見た目も‥‥優しい所も‥‥」
「そんなことないよ」
僕は月さんの手を離してから言う。
「僕は変わった‥‥ううん、変われたんだ。真鈴のおかげで」
僕はそう言って真鈴を見る。
真鈴はいきなり自分の名前を呼ばれて驚いている。
「私の‥‥おかげ?」
「うん。言ったでしょ。真鈴のおかげで本当の自分を出せるようになったって‥‥」
僕は真鈴にそう言ってからもう一度月さんを見る。
「真鈴のおかげで無くなったって思った感情を見つけた。人を愛するってことを、言葉だけじゃなくて、実感として知った。もう僕はあの頃とは違う。今の僕はあの頃よりも‥‥ずっと強くなった。肉体だけじゃなくて‥‥心が」
僕がそう言うと、月さんは微笑んだ。
「『あの頃』ってどういうことだ? 悠、お前に何があったんだ?」
話についていけない真鈴が僕に訊く。
「それは――」
僕が言いかけた時、結衣が目を覚ました。
「結衣様! 大丈夫ですか!?」
「‥‥月? それに悠も‥‥私、どうしたの?」
結衣が僕らの顔を見てから訊く。
「倒れたんだよ。過労と睡眠不足と栄養失調だって」
「そう‥‥」
結衣はそう言って起き上がろうとする。
「結衣様!」
「あまり、無理しないほうが‥‥」
月さんが結衣の肩を掴んで制止しようとし、真鈴が忠告をすると、結衣が月さんと真鈴を睨みつける。
「大丈夫よ‥‥このくらいなんともないわ」
「いきなり倒れた人間がなんともないわけないだろ‥‥無理しちゃダメ」
僕がそう言うと結衣は今度は僕を睨みつける。
「‥‥無理なんて‥‥してないわよ」
「してるでしょ? どうせまた誰にも自分の辛い思いに気付かれないように下手な演技して、誰にも心配かけないようにしてる‥‥そうじゃないの?」
僕はゆっくりと、上半身だけ起き上がった結衣に近付いて、そっと抱きしめた。
「結衣は演技下手なんだから‥‥素直に自分を出せばいいんだよ。結衣には‥‥頼りになる月さんがいて‥‥頼りにならないかもしれないけど、僕や由香だっている。一人で辛いことを背負わないで‥‥みんなにちょっとずつ分けてよ‥‥結衣は、一人じゃない。支えてくれる人がちゃんといるんだから」
「あんたに‥‥私の何が‥‥分かるってのよ‥‥」
結衣の発した言葉は震えていた。
「分かるよ‥‥結衣は僕にとって‥‥たった一人の‥‥姉だから‥‥」
僕がそう言うと、首筋に冷たい物が落ちた。
「‥‥私のこと‥‥姉だって‥‥認めてくれてたの‥‥?」
「当たり前でしょ?」
「でも‥‥私は悠から‥‥感情を奪った‥‥のに‥‥」
結衣は鳴咽で何度もつっかえながら僕に訊く。
「僕が感情を無くしたのは僕のせい‥‥結衣のせいなんかじゃない。結衣は‥‥いつもちゃんと僕のことを考えてくれてた。他の人から見たら、冷たくて厳しいように見えたかもしれないけど‥‥いつだって結衣の言うことは正しかった」
結衣はもう何も答えられなくなっていた。
僕の首筋にいくつも水滴が落ちる。
「本当は‥‥僕も由香も気付いてたんだ。結衣は完璧主義者でも、冷たい人でもない。結衣は‥‥僕達のために、母親の代わりをしてくれてたんだって。でも‥‥言えなかった。結衣が‥‥一生懸命に僕達の‥‥母親代わりになろうとしてたから‥‥」
「悠様‥‥」
月さんが呟く声がした。
「結衣‥‥ずっと黙っててごめん」
僕がそう言うと、結衣は僕を強く抱きしめた。
「私‥‥悠がずっと‥‥私のこと恨んでるって、そう思ってた‥‥! だから‥‥私は、悠達の反面教師になろうって‥‥そう、思ったの‥‥」
「恨んでなんてないよ‥‥結衣には、感謝してる。今の僕がいるのは‥‥結衣が、『他人には親切に』って教えてくれたから‥‥‥‥真鈴と出会えた‥‥色んな物を‥‥手に入れた‥‥だから‥‥感謝してる」
それが僕がずっと前から隠していた本心だった。
「悠‥‥!」
結衣は、しがみつくように力を込めていた。
◆◇◆◇◆
「上手く行ったぜ‥‥全部ハルの言う通りになった」
俺がのぞき見ていたことを、自分の部屋に戻ってから、今回の旅行を企画した相手に電話で全部話した。
『そりゃ良かった‥‥これからは結衣さんの力も必要だからね‥‥わざわざ旅館の優待券作って京極のスタッフ送りこんだかいあったよ』
電話の相手――京極遥が少し楽しそうに言う。
俺は左手に持っていたハルからもらった優待券の裏を見る。
そこには私以外の5人が気がつかなかった『旅館京極』の文字が右端に小さく印されている。
ハルは、京極家の力を使ってもっともらしい理由をつけてこれと同じ物を月さんにも2枚送っていたらしい。
月さんが気付いているかは定かじゃないけど、今回の出来事は偶然を装った必然、というわけだ。
「でも‥‥いいのか? 悠のこと‥‥やっぱり沙羅さんにほとんどバレたけど‥‥」
『大丈夫だろ。沙羅さんがあのことを知ったとしても、あの人はもう悠とは無関係だし、真鈴が望んでいる以上悠との仲をどうかしようとは思わないでしょ。そのことは心配してない。今心配してるのは葉と望海のことはだから』
ハルはそう言ってため息をつく。
ハルの指示に従わないで勝手に動いた俺に呆れているんだろうか。
「あれはっ‥‥」
『奏が自分の気持ちを最後まで伝えないで結局アドバンテージを活かすことなく終わっちゃったって経験があるから、焦る気持ちも分かるけど‥‥まぁ沙羅さんにそこらへんのことはしっかり教えてもらったんでしょ?』
ハルがまるでどこかから見ているようなことを言う。
本当にどこかから見てるんじゃないだろうな‥‥
「俺、どうすればいいんだ‥‥?」
『まぁ、今回の場合はすぐに仲は直るでしょ。望海は喧嘩しても引きずらないで素直に謝るから‥‥葉だって内心では許してると思うよ。だから、安心して大丈夫』
ハルはそう言って笑う。
向こうから『まだ終わらないの?』と女性の声がする。
ヒメさんかちなちゃんかは分からないけど、そろそろ電話を切った方が良さそうだ。
「じゃあ、そろそろ‥‥」
『ん、ああ、おやすみ、奏』
ハルはそう言うと電話を切った。
「どなたに電話してたんですか?」
背後からいつの間にか部屋に戻って来ていた沙羅さんに話し掛けられる。
「さ、沙羅さん! いつの間に!?」
「ついさっき‥‥『あれはっ‥‥』って所あたりでしょうか。あ、葉と十文字さんは大丈夫みたいでしたよ。仲直りしたみたいです」
沙羅さんはそう言って笑う。
「そ、そう、です、か‥‥」
びっくりし過ぎて心臓がドキドキしてなかなか元に戻らない。
沙羅さんは俺の目の前に座る。
「今回は‥‥ありがとうございました。京極さんにも‥‥よろしく言っておいて下さい」
その顔は、『全て』を看破しているようだった。