1
すべてが燃えている。
山も、原も、川も、町も。
すべてが。
立ち上る炎の竜巻。
それに巻き上げられてゆく建物や家具の残骸の中に、一瞬、人の影が揺れた。それも、一人二人ではなくて…………ええ。
もっとたくさんの人影が、炎の中に消えてゆく。
「……ふん」
肉を、脂を焦がす臭いが濃くなると同時に、バタバタと肉の塊の落下する音があちこちで響き始めた中、私は炎の渦の先の、地平線に広がるどす黒く、うねる影……悪魔の軍勢、あるいは、終末そのものを睨みつけて。
「――ようやく本隊のお出まし、というわけですか」
吐き捨てるように、呟いた。
「なんて黒い地平線。あの様子では、おそらく、千どころでは済みませんね。万はいるでしょう。――対する私は、たった一人。これではまるで死に急ぎではありませんこと?」
そんなことをつぶやいても、返してくれるものは誰もいない。
当然だ。私と共に戦った皆は、すでに全員死んでいるのだから。
「……ふっ」
一度瞼を閉じて、息を吸う。ここまで来たのだから、演じ切らなければならない。
どんなときでも、笑みを絶やさず、誇り高く、孤高で、完璧な令嬢を。
「思えば、争いの絶えない人生でしたわ」
手を翻しながら、ダンスのステップを踏む。
それと同時に、地面が割れ、赤々と光を放つ溶岩が溢れ出し、赤色の大波となって黒い地平線へ押し寄せてゆく。
「妹とクッキーの取り合いに始まって――」
爪先で静かに地を蹴ると、ヒールの音が甲高く響く。すると大地は震え、岩の柱が天を突き破るように立ち上がった。
「あの庶民生まれの聖女との魔法対決や、ケーキの奪い合い。ああ、なんて懐かしい」
手を振り下ろせば星が堕ち、スカートを風に靡かせれば、鉄をも切り裂く疾風が戦場を舞う。
「思えば、私、皆様に踊りを披露したことはなかったわね。ああ、惜しいことをしたわ」
力強く手を広げ、くるくると回る。
空を覆っていた厚い雲は一瞬にして消え失せ、清々しいほどの青空が顔を出す。
相手のいない孤独なダンス。
その伴奏は、太陽に焼かれる悪魔共の断末魔と、世界が壊れゆく音色。あまりにも品と趣のないものだけれど、私の最期には相応しいのかもしれない。
「――さ。フィナーレ、ですわ」
舞台は整った。
私は目を伏せ、緩やかにカーテシーをする。誰に向けたものでもなく、ただ、終わりに感謝して。
遥か空の彼方から、轟音がする。
大地は揺れ、亀裂から再び溶岩が噴き出す。川は沸騰し、木々は燃え、草花は灰となって消えた。
まさしく世界の終わり。
いわばエクスターミネーション。
その規模を小さくしたものが、今、ここで起きようとしている。他の誰でもない、私の手によって。
そして。
一瞬。
世界が白く染まった。
「……ッ!!!」
全身に強烈な熱――否、激痛を感じる。
まるで体の前面を、幾万もの剣山で貫かれたような、熾烈な痛み。
「ァ……ァァ…………!」
思わず、声を上げる。
しかし、この耳に届いたのは、私の声にならない小さな悲鳴と、大きな雨音のような音。
その雨音が、私の身体中の脂肪が焼け、水分が沸騰する音であることに気付いたのは、視覚も、聴覚も、感覚も――五感のほぼすべてを、喪失した時だった。
もうじき、私は、死ぬのだろうから。
最期くらいは、弱音を吐いたって、赦されるでしょう? 誰も、聞いていないのだし、ね。
…………思えば、後悔ばかりの人生でしたわ。
皆が、私の元から離れてゆくのは、寂しかった。
皆が、私を嫌いになってゆくのは、悲しかった。
敷かれたレールを辿ったのは、私の判断だ。それなの、きっとそうなるとも、わかっていた。
それが、民を率い、救い、時には嫌われ、団結力を高め、人をまとめ上げる。
そんな、真の貴族令嬢になるための、一番の王道であると――信じていた。
けれど、結果は散々。
人は離れ、人望は消え、いつしか私は嫌われていた。手を伸ばしても、誰一人、この手を取ってはくれなかった。
誰かが言った。
時代遅れの考えはやめろ、と。
友人が言った。
あなたらしくあってほしい、と。
妹が言った。
昔のお姉様のほうが、好きだった、と。
両親は言った。
それでこそ我が娘。それでこそ、我が家にふさわしい、と。
――たとえ孤独だとしても、笑みを絶やさず、誇り高く。感情を隠し、心を殺して。
嫌われても、貶されても、石を投げられた時も。
ただ、家柄にふさわしい貴族令嬢で在ることを、選び続けた。
…………嗚呼、まるて、わたし悪役ね。
悪役令嬢、と、いったところかしら。
――。
……もし。
もしも、次が。
来世が在るのなら。
次は、自分らしく、自由に生きてみてもいいのかもしれない。誰にも縛られず、家柄にもとらわれず、私は私として生きる。
そんな来世を、心に願いながら。
意識が、熱されたバターのように、さらさらと溶けて出してゆくその瞬間。
どこからともなく、かすかに。
ほんの、かすかに。
甘いケーキと、紅茶の香りが。
漂ったような、そんな気がした。
――ぽたり、と。
どこかで、水滴の落ちる音がした。
それが現実の音なのか、それとも死ぬ間際の蜃気楼が見せた残滓なのか。その判断がつかないほどに、世界は、ひどくぼんやりとしていた。
やわらかく揺れる陽光。
温かな空気。
窓から差し込む風には、甘いケーキと、紅茶、そして花の香りが混じっている。
――紅茶の、香り……?
そう気づいた瞬間、激しく、喉の奥が焼けるような錯覚に襲われた。
口の中に広がる血と灰の味。焦げた肉の臭い。全身を貫いた激痛と、焼かれてゆく音。その全てが、ありありと記憶の中で蘇る。
胸が大きく波打って、息が、詰まる。
――どうして、生きているの。私は。
指先を動かす。
最上級の絹で作られたシーツの、ひんやりとして、なめらかな感触がする。
意を決して、まぶたを、重く開く。
見慣れた天井が、そこにあった。
白い天蓋、金の縁取りに青い刺繍。
まるで、夢のような光景。
「……は……?」
震える声が、喉から漏れる。
現実味が、まるでなかった。
だって、これは。
これは、私が十七のころまで眠っていた“かつての自室”なのだから。
全てが無に還されるあの終焉の風景と、あまりにもかけ離れている。
火も、叫びも、血も、ない。
あるのは、シーツに織り込まれた薔薇の刺繍と、朝の光のきらめき。
そして、ケーキと紅茶、花の香りだけ。
「……戻って、きたのね」
震える唇が、呟いた。
まさか、とは思う。
いや、信じてしまえば、きっと心が壊れてしまう。
けれど、認めざるを得なかった。
これは夢ではない。
妄想でも、死の間際に見た幻影でもない。
この肌の感触。枕の柔らかさ。空気の香り。すべてが、あまりに鮮やかで、生々しい。
「お嬢様……! お目覚めでしたか?」
扉が開く音。
聴き覚えのある声。
目を向ければ、侍女が居た。
リゼット・ベルミール。
学園が火事になった時、私を庇って柱に押しつぶされ、生きたまま焼かれた私のメイド。
「…………どうされましたか、お嬢様?」
リゼットは笑っていた。あのときの焦げた肌ではなく、苦しそうでもない。ただひたすらに眩しい、太陽のような笑顔を、私にむけている。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
声にならない嗚咽が漏れ、シーツを握り締める。
リセは驚いたように目を見張り、そしてすぐに、小さな手でそっと私の背に触れた。
「お嬢様……? お加減がすぐれませんか?」
「……いいえ。いいえ。少し……夢を見ただけよ」
震える声でそう言いながら、私はリゼットに抱きついた。
「っ!? お嬢様!?」
こんなにも、温かい。こんなにも、やり直せる場所が目の前にある。
ならば、私は。
もう二度と、誰も喪ったりはしない。
この手で、誰かを守れるなら、たとえ“悪役令嬢”と罵られても、笑ってやり遂げてみせましょう。
――ええ、今度こそ。
次回7/10