第3話 「完璧すぎる島の息苦しい秘密」
「いたたた...」
アリカは砂浜で目を覚ました。体中が痛い。飛行船の墜落は相当激しかったようだ。
「やれやれ、やっと起きたか」
振り返ると、シュレディンガーが呆れたような表情で座っていた。
「シュレディンガー!無事だったのね!」
「当然だ。私を誰だと思っている」
アリカは立ち上がって周囲を見回した。真っ白な砂浜、透明度の高い美しい海、そして目の前には...
「うわあ...すごい」
息を呑むような光景が広がっていた。
港の建築群が、完璧な左右対称で配置されている。まるで鏡で映したような正確さで、左側の建物と右側の建物が寸分違わず同じ形、同じ色、同じ高さで並んでいる。
「美しい...でも」
アリカは違和感を覚えた。確かに美しい。数学的には完璧な対称性だ。しかし、なぜか息苦しさを感じる。
「なんか...変」
「どこが変だ?」シュレディンガーが聞く。
「美しすぎるのよ。完璧すぎて...人間的な温かみがない」
港に向かって歩いていくと、その違和感はさらに強くなった。
住民たちが歩いている。しかし、その歩き方が異様だった。
全員が同じペースで歩いている。左足、右足、左足、右足。まるでメトロノームに合わせているかのような正確なリズム。
「え?」
服装も気になった。全員が灰色の服を着ている。それも、左右完全対称のデザイン。男女問わず、年齢問わず、みんな同じような灰色の服。
そして何より気になったのは、住民の表情だった。
感情が抜けたように灰色で、無表情。笑顔もなければ、悲しい顔もない。まるで人形のような表情で、規則正しく歩いている。
「呼吸のタイミングまで...」
よく観察すると、住民たちの呼吸すら規則正しい。吸って、吐いて、吸って、吐いて。全員が同じリズムで呼吸している。
「うわぁ...なにこの息苦しい島。美しいけど何か変」
アリカの呟きに、シュレディンガーが頷いた。
「V₄群の島だからな。対称性に支配されているのだろう」
「でも、これは...ちょっと異常じゃない?」
「同感だ。本来のV₄群はもっと自由で美しいものだ」
二人が話していると、一人の住民がゆっくりと近づいてきた。やはり灰色の服を着た中年男性で、完璧に左右対称な髪型をしている。
「お客様ですか?」
声も感情が抜けていて、機械的だった。
「はい、飛行船が墜落して...」
「そうですか。では、案内いたします」
男性は機械的に90度お辞儀をした。角度まで正確に測ったかのような完璧さだった。
「私はレオと申します。この島の案内人です」
レオと名乗った男性は、歩きながら説明を始めた。
「ようこそ、完璧な調和の島クテラへ。この島は美しい対称性に守られた楽園です」
楽園という言葉と裏腹に、レオの表情には喜びが全く見えなかった。
「すべてが左右対称に保たれ、住民は平和に暮らしています」
「平和に...見えますけど」
アリカは曖昧に答えた。確かに争いは見えないが、これを平和と呼んでいいのだろうか。
街を歩いていると、さらに奇妙な光景が目に入った。
果物屋の果物が、左右完璧に対称に並べられている。左にリンゴが3個あれば、右にも全く同じ位置にリンゴが3個。
花屋の花も同様。左に赤い花があれば、右にも同じ赤い花が同じ角度で飾られている。
「ここまで徹底するなんて...」
そして住民たちの行動パターンも規則正しかった。
9時になると全員が同じ方向を向いて歩き出す。12時になると全員が同時に昼食を取る。その食べ方も、左手と右手を交互に使って、完璧に対称的な動作で食事をしている。
「美しいけど...なんか息が詰まりそう」
アリカの正直な感想だった。数学的には確かに美しい。V₄群の対称性が完璧に実現されている。しかし、人間らしさが完全に失われている。
「これが本当にV₄群の目指す世界なの?」
「違う」シュレディンガーがきっぱりと言った。「本来のV₄群はもっと自由だ。これは歪められている」
レオの案内で宿屋に向かう途中、アリカは小さな疑問を抱いた。
時々、レオの目に一瞬だけ、人間らしい感情が宿るのを見たのだ。まるで「助けて」と言いたげな、切ない表情。
「この島の人たちも、本当は苦しんでいるのかもしれない」
宿屋に到着すると、レオは丁寧に島のルールを説明し始めた。
「クテラ島には神聖な掟があります」
レオの声は相変わらず機械的だが、説明は詳細だった。
「完璧な左右対称性が絶対の掟です。建物、服装、行動、すべてが対称でなければなりません」
「すべてが?」
「はい。歩く時は左右の歩幅を同じにし、食事をする時は左手と右手を交互に使い、睡眠時も体の中心線を意識して対称的に寝なければなりません」
アリカは驚いた。ここまで徹底しているとは。
「もし、この掟を破るとどうなるの?」
レオの表情が一瞬強張った。
「1ミリでもズレたら神への冒涜として処罰されます」
「処罰って...」
「軽い場合は矯正指導、重い場合は...」
レオは言葉を濁した。しかし、その恐怖に震える目を見て、アリカは察した。重い処罰は、想像したくないほど厳しいものなのだろう。
「でも、完璧な対称性って、実際には難しくない?人間なんだから、少しくらいズレても...」
「いけません」レオは慌てたように首を振った。「そんなことを言ってはいけません。神聖な掟に疑問を抱くことは許されません」
しかし、その慌てようが逆に彼の本心を物語っていた。レオ自身も、この規則に縛られて苦しんでいるのだ。
街を案内されながら、アリカはさらに詳しく島の様子を観察した。
住民たちは確かに規則正しく行動している。しかし、よく見ると、みんな微妙に緊張している。常に自分の動作をチェックし、対称性が保たれているか確認している。
「疲れないの?」
「疲れるとは何ですか?」
レオの返答に、アリカは言葉を失った。疲れるという感情すら封印されているのだろうか。
「この島の歴史を教えて」
「30年前に現在のシステムが確立されました。バルク神官様の指導により、完璧な対称性社会が実現したのです」
「バルク神官?」
「この島の指導者です。神聖な数学の教えを広め、住民を正しい道に導いてくださっています」
レオの説明は模範的だが、その目には複雑な感情が見えた。尊敬なのか、恐怖なのか、それとも...
「バルク神官に会えるの?」
「明日の朝、正式な挨拶をしていただく予定です」
案内の途中で、アリカは奇妙な光景を目にした。
一人の子供が転んで、膝を擦りむいていた。しかし、周りの大人たちは誰も助けようとしない。なぜなら、子供を助ける動作が左右対称にならないからだ。
「あの子、怪我してるよ」
「大丈夫です。すぐに自分で立ち上がるでしょう」
案の定、子供は一人で立ち上がり、痛みを堪えながら歩き続けた。涙を流すことすら、左右対称でなければ許されないのかもしれない。
「美しいけど...なんか息が詰まりそう」
アリカの違和感は確信に変わった。これは確かに数学的には美しいが、人間的には歪んでいる。
レオ自身も、規則に縛られて自由を失っている。時々見せる人間らしい表情が、彼の本当の気持ちを物語っていた。
「この島を救わなければ」
アリカは心の中で決意を固めた。Φの鍵を継承した調和者として、歪められた数学的システムを修復する使命がある。
夕方、レオに案内された旅館に着いた。建物は当然のことながら完璧な左右対称で、入り口から内装まですべてが鏡像のようになっている。
「お疲れ様でした」
女将が深々とお辞儀をした。やはり90度の完璧な角度だった。年配の女性だが、その表情には緊張が張り付いている。
「今夜のお食事をご用意いたします」
案内された食堂で、アリカは驚愕の光景を目にした。
テーブルの上に並べられた夕食が、1ミリのズレもない完璧な左右対称配置になっている。
お椀、お箸、おかず、すべてが数学的に正確な位置に置かれている。まるで定規とコンパスで測ったかのような精密さだった。
「これは...すごいですね」
「ありがとうございます」女将が答えたが、その手が微かに震えているのをアリカは見逃さなかった。
「何か問題でも?」
「いえ、何も...ただ、少しでもズレると...処罰が待っていますので」
女将の恐怖に満ちた告白に、アリカは胸が痛んだ。料理を作る喜び、お客様をもてなす楽しさ、そんな人間的な感情がすべて恐怖に置き換わっている。
「でも、とても美味しそうです」
「ありがとうございます。でも、お食べになる時も、左右対称を心がけてください。左手で一口、右手で一口、交互にお召し上がりください」
食事のルールまで決められているとは。アリカは苦笑いを浮かべながら、言われた通りに食べ始めた。
その時、厨房の方から小さな音が聞こえた。
「あ!」
若い女性の声だった。慌てたような、焦ったような声。
「大丈夫ですか?」女将が慌てて厨房に向かう。
しばらくして、一人の美少女が頭を下げながら現れた。
茶色のショートヘアに優しい緑色の瞳、エプロン姿が良く似合う18歳くらいの少女だった。
「申し訳ございません。料理の配置を間違えてしまって...」
これがリナだった。料理見習いの美少女で、今後アリカの大切な仲間になる子だ。
「リナ、気をつけなさい」女将が厳しく言った。「お客様の前で失礼でしょう」
「はい、すみません」
リナは深くお辞儀をしたが、その時アリカは気づいた。リナの手が、こっそりと料理の位置を微調整しているのを。
しかも、その調整は対称性を崩す方向だった。わざと少しだけ非対称にしようとしている。
「あの...」
アリカが声をかけようとした瞬間、リナは慌てて料理を元の位置に戻した。完璧な対称配置に。
「失礼いたしました」
リナは急いで厨房に戻っていった。しかし、その目には悲しげな光が宿っていた。
「あの子...」
「リナは料理見習いです」女将が説明した。「まだ若いので、時々間違いを犯してしまいます」
間違い。料理に個性を出そうとすることが間違いとされる島。アリカは複雑な気持ちになった。
食事を続けていると、シュレディンガーが耳元で囁いた。
「あの少女、興味深いな」
「リナのこと?」
「ああ。この島で唯一、自由な心を失っていない」
確かに、リナだけは他の住民とは違って見えた。表情に生気があるし、料理への愛情も感じられる。
「話してみたい」
「今夜、機会があるかもしれないな」
シュレディンガーの予感は当たった。夜になって、リナがそっと部屋を訪れたのだ。
夜、アリカが部屋で休んでいると、ドアがそっとノックされた。
「はい」
「あの...お客様」
扉の向こうから、リナの小さな声が聞こえた。
「リナちゃん?どうしたの?」
「お話ししたいことがあって...でも、人に見られるとまずいので...」
アリカは急いでドアを開けた。リナは周囲を気にしながら、こっそりと部屋に入ってきた。
「大丈夫?」
「はい。でも、あまり時間がありません」
リナは緊張していたが、その瞳には強い意志の光があった。
「実は...お客様にお見せしたいものがあるんです」
リナはエプロンのポケットから、小さな包みを取り出した。
「これは...」
包みを開くと、中には手作りのクッキーが入っていた。しかし、それは島の他の食べ物とは全く違っていた。
形が不揃いで、大きさもバラバラ。完璧な対称性とは程遠い、手作り感溢れる温かみのあるクッキーだった。
「私、本当は自由に料理を作ってみたいんです」
リナの目に涙が浮かんでいた。
「毎日毎日、同じ形、同じ配置、同じ味の料理ばかり。でも本当は、もっと個性的で、温かくて、人を幸せにする料理を作りたいんです」
アリカは心を打たれた。この息苦しい島で、一人だけ自由な心を保ち続けている少女。
「このクッキー、とても美味しそう」
「本当ですか?でも、これは島では禁止されているんです」
「なんで?こっちの方が美味しそうで温かみがあるじゃない」
アリカの言葉に、リナの顔がパッと明るくなった。
「そう言っていただけて嬉しいです。でも...」
リナは再び暗い表情になった。
「バルク神官様は、個性は悪だと教えています。すべては対称性に従わなければならない。私のような考えは、神への冒涜だと」
「そんなことない」アリカは強く首を振った。「料理って、作る人の愛情が一番大切でしょ?形や配置なんて、二の次よ」
「愛情...」
リナは目を輝かせた。その言葉を聞くのは久しぶりだったのかもしれない。
「お客様は、外の世界から来られたんですよね?外の世界では、みんな自由に料理を作ってるんですか?」
「もちろんよ。みんな自分の個性を活かして、美味しい料理を作ってる。形がいびつでも、少し焦げてても、愛情がこもってれば最高の料理になるの」
リナの目に希望の光が宿った。
「私も...いつか外の世界で料理を作ってみたいです」
「きっとできるよ。リナちゃんの料理への愛情があれば」
「ありがとうございます」
リナは嬉しそうに微笑んだ。この島では久しく見ることのなかった、心からの笑顔だった。
「でも、気をつけてね。あまり無理しちゃダメよ」
「はい。でも、お客様にお会いできて良かったです。私の気持ちを理解してくれる人がいるって知れて」
リナは立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。夜中の外出も規則違反ですから」
「気をつけて」
「はい。また明日、お話しできたらいいな」
リナは部屋を出ていった。しかし、その後ろ姿には、今までなかった希望の芽生えが感じられた。
「いい子ね」
「ああ、この島の希望かもしれない」シュレディンガーが言った。
「絶対に救ってあげたい」
アリカは決意を新たにした。リナのような純粋な心を持つ人が苦しんでいる限り、この島の問題を解決しなければならない。
リナとの会話の後、アリカは眠れずにいた。この島の問題の深刻さを実感したからだ。
「シュレディンガー、外の空気を吸いに行かない?」
「やれやれ、君は落ち着きがないな」
「だって、気になることがたくさんあるんだもん」
二人はこっそりと旅館を抜け出し、夜の島を散歩することにした。
夜のクテラ島は昼間以上に異様だった。
街灯すら左右完全対称に配置され、その光が作る影さえも対称的になるように計算されている。
「ここまでやるか」
「本当に徹底してるわね」
歩いていると、住民たちの家々が見えた。窓から覗く室内も、やはり完璧な対称配置。左側に本棚があれば右側にも同じ本棚、左側にソファがあれば右側にも同じソファ。
「まるで鏡の世界みたい」
その時、アリカの胸元でΦの鍵が微かに光った。
「あれ?」
鍵が温かくなり、不思議な感覚がアリカを襲った。まるで島全体の数学的構造が見えるような感覚。
「なんか...変な感じがする」
「どんな感じだ?」
「島の数学的基盤に...違和感がある。本来のV₄群とは違う何かが混じってる」
アリカの数学的直感が警告を発していた。この島のシステムは確かにV₄群をベースにしているが、何かが歪められている。
「やはりな」シュレディンガーが頷いた。「この島の数学的構造が歪んでいる」
「どういうこと?」
「本来のV₄群は四つの元が対等な関係を持つ美しい構造だ。しかし、この島では一つの元が他を支配している」
「一つの元って...バルク神官のこと?」
「可能性が高いな」
Φの鍵の反応はさらに強くなった。まるで島の深部に隠された秘密を感知しているかのようだ。
「何か隠されてる」
「隠されたものとは?」
「わからない。でも、確実に何かがある」
二人は島の中央部に向かって歩いた。そこには大きな神殿のような建物がそびえ立っている。バルク神官の住居兼宗教施設のようだ。
「あそこに答えがありそう」
「明日の面会で確かめてみよう」
しかし、その時だった。
遠くから悲鳴のような声が聞こえた。
「助けて...」
「今の声...」
「島の端の方からだ」
急いで声のする方向に向かうと、港の近くで一人の住民が倒れているのを発見した。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ろうとした瞬間、アリカは気づいた。
その住民の体が、非対称に捻じ曲がっていることに。
「これは...」
「事件の匂いがするな」シュレディンガーが呟いた。
Φの鍵の反応が最大になった。まるで「ここに真実がある」と教えてくれているかのように。
「明日の朝、きっと大騒ぎになる」
「ああ。そして、我々の本当の戦いが始まる」
夜風が冷たく頬を撫でていった。美しい星空の下で、クテラ島に隠された暗い秘密が明かされる前兆を感じながら、アリカとシュレディンガーは旅館に戻った。
明日、この島で何かが起こる。アリカの調和者としての最初の試練が、ついに始まろうとしていた。
完璧な対称性に支配された息苦しい島・クテラ。
住民たちは規則に縛られ、自由を失っている。そんな中、料理見習いのリナだけが自由な心を保ち続けていた。
しかし、夜の散歩で発見された不審な事件。非対称に捻じ曲がった住民の遺体...
Φの鍵が反応する島の数学的歪み。バルク神官が隠している秘密とは?
そして明日、アリカは島の指導者と対面することになるが...
次回、第4話「隠蔽される真実とV₄の歪み」では、ついに殺人事件の真相と、島の恐ろしいシステムの正体が明らかになる!
リナとの友情、バルク神官との対峙、そしてΦの鍵による初の数学的分析が待っている!
乞うご期待!