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小豆  作者: 紅小豆
戦国短編
1/1

小豆

本作『小豆』は、浅井家滅亡の直前、小谷城を取り巻く織田の陣中で交わされた、たった一つの言葉を巡る静かな駆け引きを描いた短編です。


歴史の表舞台には「お市と三姉妹の救出」という美談が残されますが、その裏で本当に語られた言葉は、どれほどの思惑を孕んでいたのか――。

助命を願うことすら「諂い」と捉えられるかもしれない場の空気。

誰もが信長の顔色を窺い、思っていることを声に出せない重苦しさ。

そのなかで、木下藤吉郎(後の秀吉)が発した言葉が、なぜ称賛されたのか。

それは果たして「忠義」だったのか、あるいは「誤解の果実」だったのか。


本作は、藤吉郎の真意を明かすことはしていません。

ただ、彼が“自分の思いとは違う解釈で褒められる”ことへの、不満とも空虚とも取れる無表情を最後に残しました。


小豆は祝いの象徴でありながら、異なる血を想起させる存在でもあります。

赤飯の中に転がる小豆のひと粒ひと粒に、この物語の問いを重ねていただければ幸いです。

天正元年八月三十日、小谷城を包囲する織田の陣では、重臣らによる談合が行われていた。


だが、誰一人として口を開こうとはせず、周囲の顔色を窺うばかりだった。陣幕には人の声ではなく、布の擦れる音や焚き火のぱちりという音だけが響いていた。まるで全員が発声の許されぬ世界に投げ込まれたかのようだった。


小谷城は落城寸前。使者として派遣された木下藤吉郎からは、浅井長政の降伏は無かったが、信長の妹であるお市とその子らの返還があるとの報告があった。


恐らく信長も助命を望んでいるのではないか――そう考える者もいた。だが確信は持てず、下手に口を開けば諂いと見られ、あるいは軽率と受け取られるかもしれぬ。信長の真意が読めぬまま誰もが互いの顔色を伺い、重苦しい沈黙だけが広がっていた。


その沈黙を破ったのは、木下藤吉郎だった。


「恐れながら申し上げます」


足軽の身分から取り立てられたこの男が、こうして真っ先に口を開くのは、もはや皆の予想するところであった。


(やはり藤吉郎が出るか)


「妹君とて、浅井に嫁ぎ長らく敵と共にありました。織田を恨んでおらぬとは限りませぬ。子らは敵の血を引いております。母子すべて、ここで断つのが最も確かにございます」


その言葉が終わるや否や、風がぴたりと止まったような錯覚を覚えた。焚き火の火が揺れる音までが、まるで言葉を失ったかのように静まった。


沈黙は深く、長く、そして誰かが破らねばならぬほどに重たかった。


「藤吉郎!」

柴田勝家が立ち上がり、声を張り上げた。


「お市様は殿の御妹だぞ! いかなる理由があろうとも、母子をまとめて断てなど、軽々しく口にするな!」


「柴田様、されど敵将の子が生きておれば、再びお家再興の旗頭に担がれ、近江が乱れまする」


「ならば再び潰せばよいのだ!」


勝家は信長に向き直り、膝をつく。「殿、この柴田、いかなる理由があろうとお市様の命を奪うことはできませぬ。どうか、助命を」


その一言に、他の将たちも次々と同意の声を上げた。


「……お主らの考え、しかと聞いた」

信長は低く言い、藤吉郎に目を向ける。


「藤吉郎」


鋭い眼光が藤吉郎を射抜く。藤吉郎はすぐさま平伏し、次の言葉を待った。


信長はしばし無言のまま藤吉郎を見下ろしていた。その眼差しに宿るものが怒気なのか、諦めなのか、誰にも分からなかった。


「先の発言、不問と致す」


そう告げると、信長は陣幕を後にした。


竹中半兵衛はその様子を見て、ぽつりと呟く。

「……木下殿は、さすがというべきか」


蜂須賀小六が首を傾げる。「何がだ? あれは本心ではないのか?」


「もし助命を願えば、これまでの功があるゆえ諂いと思われたやもしれぬ。だがあのように申せば柴田殿のように正面から反対する者が出やすい。そうなれば、殿も助命しやすくなる」


「……そこまで考える男なのか?」


「木下殿は損得をよく弁える方。損を承知であの発言をしたのだ。殿が誰の声を重んじられたか、よくご存じのはず」


二人は黙して平伏を続ける藤吉郎を一瞥し、その場を去っていった。


しばらくして、弟の木下一兵衛(のちの秀長)が駆け寄ってきた。


「兄さん、まだ動かないの?」


藤吉郎はようやく顔を上げた。表情には何の起伏もない。まるで、先程の言葉など口にしていなかったかのように。


「……行こうか」


二人は黙って陣を後にした。


その夜、藤吉郎の陣。一兵衛が赤飯をよそった器を差し出した。


「明日、いよいよ決着らしいよ。だから赤飯にした」


赤飯の中に転がる小豆が、一粒一粒、異なる血を思わせた。それは祝福か、禍根か――その答えを、喉に押し込めるために、藤吉郎は赤飯を口に運んだ。


しばらく噛みしめてから、ぽつりと呟く。


「……あまいな」


「え? 豆が固かった? もう少し煮込んだ方が良かった?」


「いや、そういうことじゃない。美味いよ。――ただ、あまいなと思っただけだ」


そう言って、藤吉郎は黙々と赤飯を食べ終えた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本作『小豆』は、豊臣秀吉という人物の「原点」を私なりに描いてみた短編です。


秀吉は人たらしで陽気な男――そんな人物像が一般的かもしれません。

けれど私は、晩年の冷酷さは彼の本質ではなく「出発点」からすでに現れていたのではないかと考えました。


この物語で描いた藤吉郎は、ただ効率を追い、禍根を断とうとする男です。

そこに情や同情はありません。

むしろ「情」こそが秩序を乱し、非効率を生む“禍根”であると見なしている。

そんな彼の視点からすれば、お市も、子どもたちも、情に訴えれば訴えるほど、排除すべき「芽」に見えたかもしれません。


ラストの「あまいな」という一言に、彼の本音を込めました。

それは、信長をはじめ、助命に傾く周囲の者たちに対する失望であり、侮蔑であり、

そして「面倒の種を見過ごす甘さ」への冷ややかな評価です。


もちろん、作中では彼の真意は明かしていません。

反対意見を引き出すための“策略”と好意的に解釈する者もいます。

けれど本当にそうでしょうか。

彼が望んでいたのは、あの結果だったのでしょうか。


――情を切り捨て、秩序を保つために人を切る。

そんな効率化の亡霊が、藤吉郎の中には、すでに潜んでいたのかもしれません。


作者としての私の答えは、すでに「赤飯」と共に、あの一言に託してあります。

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