邂逅の砂原
──もし、生き延びられるのなら。次こそは、まっとうに、人として生きたい。
熱と共に甦ったのは、遥か遠い前世の記憶だった。
家族のぬくもり、友の笑顔、愛した人の手のひら──すべてを失い、ようやく思い出したもう一つの人生。
けれど、それが与えてくれたのは、悔恨ではなく“願い”だった。
それが、死の淵に立った少女の、最初で最後の“祈り”だった。
「おい、大丈夫か!?おーい、こっち、こっちだ!まだ息がある!」
砂の海を蹴って、何人もの足音が近づいてくる。
荒れ果てた地に倒れ伏す少女の元へ、一人の青年が駆け寄った。息を弾ませながら、水筒の栓を抜き、少女の唇にそっと水を含ませる。
「……飲めるか?……ああ、駄目だ、意識が……!」
青年が焦る横で、後ろからやって来た中年の商人が少女の姿に目をやる。ボロボロになった外套の下、砂まみれながらも上質な刺繍が施されたドレスが覗いた。
「こりゃ、わざと置き去りにされたな……」
低く呟いたその声に、青年が舌打ちする。
「チッ……誰がこんなとこに置き去りにしやがったんだよ」
褐色の肌の青年は、苛立ちと憤りをにじませながら少女を慎重に抱き上げた。
手際は乱暴に見えて、どこか優しい。
「くそ……こんな細い体で、よく生きてたもんだ」
「……しかし、こんな場所で一人とはな。なあ、カイ、どうする?運ぶには骨が折れるぞ」
そうつぶやいたのは、カイと呼ばれた青年と同じくらいの年頃の、まだあどけなさの残る若い男だった。
「見捨てる理由がない。助けられる命なら、助けるべきだろう」
返したカイの声は、低く落ち着いていて、それでいて柔らかい。
鋭い目元には、生き様に裏打ちされた自信がにじんでいる。
「とにかく、急いで馬車に戻ろう。今夜は無理せず宿営だ。医薬も残ってる」
「任せとけ。おい、もう大丈夫だ。絶対に助けてやるからな」
優しくかけられたその言葉を、少女が聞いていたかはわからない。
けれど、その声は確かに、死の縁に立つ彼女に届いていた。
世界が再び、静かに暗転する。
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どれほどの時が経ったのだろう。
まぶたの奥が、わずかに明るい。
温かい。冷たくない。生きてる──?
指先が震える。喉の奥が焼けるように渇いていた。少しでも動こうとすると、全身が軋むように痛む。
「……目、覚めたか?」
低く、落ち着いた声が耳に届いた。
視線を動かすと、すぐ傍に青年がいた。
焼けた肌に明るい瞳。気取らぬ態度に、不思議な気品が漂う。
「大丈夫か?砂漠でぶっ倒れてたんだ。運が良かったな、あと少し遅けりゃ……」
冗談めかしたその口ぶりは軽いが、声の底には確かな優しさがある。
彼女は、かすかに首を振った。声にならない呼吸が漏れる。
「無理すんな。喉、カラッカラだろ。……ほら、水。少しずつな」
彼は水筒を手に取ると、自然な手つきで彼女に飲ませた。
その動作には慣れているようで、どこか旅慣れた風がある。
不思議と、反発する気にならなかった。
どこか王族にも似た誇りと自信。そして、自由気ままな風をまとった青年。
彼の背後では、焚き火の匂いと、遠くに話し声が聞こえる。
──不思議な人だ。
そう思った。
青年は、彼女の様子を見ながら、ふっと笑った。
「さて……自己紹介がまだだったな。俺はカイ。カイ・アルストリア。まあ、ただの放浪者だ。今は商人たちに同行させてもらっている」
嘘だ。どこかで、そう思った。
言葉の端々ににじむ教養や、自分を飾らない余裕。それは、本当に“ただの”放浪者が持つものではない。
けれど彼女は、問い返すことをしなかった。
理由は──自分もまた、偽りの名を名乗ることを選んだから。
「……ティア、です」
かすれた声が、口をついて出た。
過去は捨てた。
アーデンの名も、罪も、すべて。
けれど、彼はそれを咎めることなく、穏やかに頷いた。
「そうか。よろしくな、ティア」
そう言って微笑んだカイの横顔が、火の明かりに照らされて揺れていた。
ふいにテントの幕が揺れ、温かな空気と共に、ふくよかで包み込むような笑みをたたえた女性が顔を見せた。
「あら、ちょうど目を覚ましたのね。よかった。体が冷えてるだろうから、まずはこれでも飲んで」
そう言って、彼女──この隊の主である商人の妻は、湯気の立つ木椀を手渡してくれた。
ティアはお礼を口にしようとして、少し喉をさすった。まだ完全には声が戻っていない。けれど、どうにかして小さく呟く。
「……ありがとう、ございます」
言葉と一緒に、手元の椀をそっと受け取る。湯気の香りが鼻腔をくすぐり、体の芯まで染み入りそうな香ばしい匂いが広がった。
一口、唇に触れる程度にすすると、想像以上に優しい味が口の中に広がった。干し肉と野菜の旨味、少し甘く、少ししょっぱい、どこか懐かしい味。
「……おいしい」
心からこぼれたその言葉に、女主人は嬉しそうに目を細めた。
「よかった。食べられるなら、すぐ元気になるわ」
そう言って彼女が腰を下ろそうとした、そのとき。
テントの入り口がばさりとめくられ、数人の男たちが顔を覗かせた。粗野な服装の若い商人たちが、焚き火の明かりを背に、そろりとテントの中をうかがっている。
「お、おい……ほんとに目、覚ましたのか……?」
「うわ、すっげぇ……綺麗……」
ティアの姿を見た若い男たちは、口々にそんなことを呟いた。じろじろと遠慮もなく視線を向けてくる。
ティアは椀を握ったまま、戸惑いとわずかな羞恥でうつむいた。今の自分は髪も乱れ、ドレスも砂まみれなのに。それでも彼らの視線は、値踏みするように、あるいは物珍しさを込めて彼女を見つめていた。
「お、お嬢さん、あんた……どうしてあんなとこにいたんだ?どこの家の娘さんだ?」
「親は?まさか一人旅じゃないよな?」
「いったい、誰に捨てられたんだ……?」
浴びせられる言葉は、善意から来るものか、ただの好奇心か。
ティアにはもう、わからなかった。
答えられない。帰る家など、ないのだから。
ぎゅっと唇を噛みしめたそのとき。
「……あんたたち!」
突如、女主人の声が鋭く響いた。
彼女はずい、と立ち上がると、ぐいっと手を振り払うようにして男たちを睨んだ。
「病み上がりの子を質問攻めにしてどうすんの!好奇心は外で焼き干しておいで!さあ、さっさと出てった、出てった!」
「えっ、ちょ、奥さん……!」
「聞こえなかった?この子はまだ回復途中。目を覚ましたばっかりなの。あんたたちのくだらない詮索でまた倒れたらどうするつもり?」
言いながら、女主人は容赦なく男たちの背中を押し、テントの外へと追い出していった。
「ひっ、人使い荒いなあ……」
「まったく……あれが商隊の女王さまだよ……」
ぶつぶつと文句を垂れながら、男たちはしぶしぶ退散していった。
やがて静かになったテントの中で、ティアはそっと彼女を見上げた。
「……ありがとう、ございます」
震える声で告げると、女主人は微笑みを浮かべたまま、そっとティアの肩を撫でた。
「礼なんかいいのよ。今はしっかり食べて、体を治すの。家のない子なら、なおさら、まず元気にならなきゃ話にならないわ」
彼女の言葉は、ただ優しかった。
その優しさに、ティアの胸がきゅうっと締めつけられる。
──家がない。それを肯定されることが、こんなにも温かいだなんて。
木椀の中のスープはもう冷め始めていたけれど、胸の中にはまだ、熱が残っていた。