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焔災、開帳

 ギルバンの言葉に、その場の者たちは一様に動揺した。


「魔族だって!?」

「そいつは、架空の種族じゃなかったのか」


 魔族の存在が語られていたのは、三千年以上も前の話だ。

 それは、神がまだ人間と近しい関係にあり、地上に降り立っていたとされるほど、現実味の薄い神話のような話である。


 カイの脳内では、かつてないほど思考が高速回転していた。

 目の前には、魔族──スピナ。そして天変地異の如き災厄をもたらす存在、アモン。

 どちらも、放置すれば甚大な被害を招くことは明らかだった。早急に叩かなければ、取り返しのつかない事態となる。


 しかし、戦える者は限られていた。

 錯乱状態にあるティアも、直ちにこの場から退かせなければならない。

 進むべきか、退くべきか。判断を誤れば、スピナの言う通り、大勢が死ぬ。


 苦渋の決断の末、カイはギルバンに進言した。


「三手に分かれましょう──」


 カイの考えはこうだ。

 一つは、スピナの抑え。

 一つは、アモンとの正面対決。

 そして、残る一つは、離脱と救助にあたる組。


 意識を保っている兵士たちで、昏倒者や錯乱状態の者を連れ、安全圏へと退避する。

 その指揮を任せるのは、ジークハルト。


 ギルバンは静かに頷いた。


「……それしか、道はあるまいな」


 すぐにジークハルトとユリウスが前に出て申し出る。


「私たちも戦う!このままでは引き下がれない!」


 だがカイは、即座に首を振った。


「無理だ。あんたたちは精神攻撃に耐えるだけで精一杯だろう。そんな状態で戦場に出たら、今度こそ命を落とすぞ」


 声に棘はあったが、そこに嘲りや侮蔑はなかった。

 それは、戦場に立つ者としての冷静な判断。そして、彼なりの誠意でもあった。


「……それに、敵はスピナとアモンだけとは限らない。これ以上の犠牲を出すわけにはいかない。腐っても王族というならば、助けられる命を救うのも立派な務めだろう」


 そう言って、カイは錯乱したティアの背後に回り、首元に手刀を落とした。

 一瞬、ティアの身体がびくりと震え、そのまま意識を失う。

 倒れる彼女を、カイは優しく支えた。


 その手つきは、まるで壊れ物を扱うように繊細だった。

 乱れた前髪をそっと払うと、彼女を静かに抱き上げる。

 腕に感じる重みと体温に、カイは僅かに力を込めた。


 本当は、自分の手で安全な場所まで運びたかった。

 いや、できることなら、ずっと目の届く場所に置いて守り通したかった。

 だが──敵の力量を前に、それが叶わぬ願いであることは痛いほどに理解していた。


 不完全な状態で召喚されたとはいえ、アモンの力は異常だ。

 ヴァルゴイアを一撃で倒すほどに力をつけたカイとレイでさえ、アモンに通じるかどうかは分からない。

 それほどまでに、目の前の“災厄”は異質で、規格外だった。


 カイはティアを抱いたまま、ジークハルトのもとへと歩み寄る。


「ティアを頼む。……本当は……お前なんかにティアを預けたくはない。だが、今は時間がない。……もしティアを死なせたら、すべてを捨ててでも、俺がお前たちを殺しに行く。覚えておけ」


 ジークハルトは言葉を失った。

 カイの言葉は痛烈だったが、間違ってはいなかった。

 今は争っている場合ではない。それは、彼自身も理解している。

 ヴァルゴイアに太刀打ちできなかった自分が、この場で戦っても足手まといになるだけだ。


 それが、悔しかった。

 無力さが、情けなかった。

 だが、その悔しさをぶつける場所もない。カイの瞳には、誰かを守る覚悟と責任しか宿っていなかったからだ。


 ジークハルトは小さく息を呑み、下唇を噛む。

 唇の内側に滲む鉄の味を感じながら、静かに頷いた。


「……必ず、守る」


 わずかに震える声でそう答え、カイからティアを受け取る。

 その体は軽いはずなのに、責任の重さがずっしりと肩にのしかかってくるようだった。


 その間に、ギルバンが魔槌を担ぎ直し、言う。


「スピナは我がやる。……うちの兵も、まだ動ける者をつける」


 カイはそれを受け入れ、レイと目を合わせた。


「行くぞ、アモンは俺とお前で」


 その時だった。


「──残念だけど」


 ふわりと浮遊しながら、スピナが口を開いた。


「僕は君たちとは戦わないよ。せっかくの場面だけどさ、戦う気なんてないんだよね」


 気の抜けた声。どこまでも不気味な笑み。


 そして、スピナは指先をくるりと回しながら、最後にこう言い残した。


「僕と戦いたければ、まずはアモンを倒してみなよ」


 そう言って、スピナの姿はふっと掻き消えた。


 残されたのは、圧倒的な巨躯。

 《黒き燔祭獣》アモン。 


 その咆哮が、再び空を震わせた──。


 スピナの姿が掻き消えたあとも、場に残った余韻はただひたすらに不気味だった。

 その異様な空白を断ち切ったのは、ギルバンの低く、怒りを抑えた声だった。


「……戦わないだと?ふざけた真似を」


 魔槌を強く握り、石突で鋭く大地を鳴らす。

 ごう、と空気が震えたような気がした直後──ギルバンが叫んだ。


「三手に分かれる案は、撤回だ!」


 一言で、戦場の空気が一変した。

 混乱しかけていた兵たちの視線が、一斉にギルバンに集まる。


「意識のある者は、周囲の仲間を担いで離脱!混乱してる奴は殴ってでも動かせ!」


 その指揮の声に、兵士たちの身体が反応を取り戻す。

 各所で叫びと動きが生まれ、戦場に再び命が宿った。


 ギルバンがアモンへ視線を向けると、巨獣は既に動き出していた。


 灼熱と氷結がせめぎ合うような、異様な空気。

 天地のバランスが狂い、理性がひっくり返る。世界が狂気に飲まれていく錯覚さえ覚える。


 地の底から響くような、重低音のうねり。

 その中心に、アモンがいた。


「死ぬ覚悟がある者だけ、我に続け!あの怪物を打ち倒す!!」


 ギルバンの雄叫びに呼応するように、カイとレイが駆け出す。

 その背を追うように、わずかなドワーフ兵たちが集い、アモンへと向かった。


 黒き巨獣を囲むように、各々が配置に着く。


 アモンの巨体が、ぎしりと軋み音を立ててゆっくりと動く。

 全身を包む黒炎はまるで意思を持つかのように脈動し、地を這い、空を焼いた。

 余熱だけで地表が罅割れ、熱波が兵士たちの肌を焼く。


「来るぞ!」


 カイの叫びと同時、アモンの巨腕が唸りを上げて振り下ろされた。


 それはただの肉弾ではなかった。

 空気を爆ぜさせる衝撃波。触れずとも、至近距離にいるだけで命を奪うほどの暴力。


 カイと近くの者たちは即座に逆方向へ跳躍。

 直後、先ほどまで立っていた地面が音もなく吹き飛び、巨大なクレーターが口を開けた。


「……この化け物め」


 カイは歯を食いしばり、即座に着地。槍を構え直す。

 目の前の存在は、ただの獣ではない──災厄そのもの。


 黒い瘴気をまとうその姿は、呪詛の塊であり、炎の化身。

 存在するだけで周囲を蝕む“厄災”が、今ここに現出している。


「カイ、これ……本当に“不完全”な召喚なのかよ」


 いつの間にか隣に来ていたレイの声。静かだが、わずかに震えていた。

 カイは苦笑で返す。


「ああ。不完全でこれなら、完全体なんて冗談にもならない!」


 だが、それでも退くわけにはいかない。

 ここでアモンを止めなければ、誰かが死ぬ。

 いや──国が、街が、すべてが呑み込まれる。


 全身の血が沸き立つような感覚。

 心臓の鼓動が、剣戟のように耳に響いた。


 ギルバンの咆哮が戦場に轟いた。


「一斉にかかれッ!!」


 カイとレイ、そして精鋭のドワーフ兵たちが、怒涛のごとくアモン=ヴァル=ゼルグへ突撃する。

 その巨体はまるで山の如く、びくとも動かない。蠢く尾は不気味に地を這い、空気は灼けるような熱を帯びていた。


 その瞬間、声が彼らの脳髄に直接、侵入してきた。


 ──《笑止》


 低く、鈍く、しかし途轍もない威圧を孕んだ声。それは鼓膜を通らず、思考を呑み込むように響く。


 ──《千と数百年を生きる我が身に……この程度の刃を向けるとは。無知は罪、無謀は愚。愚か者どもよ、地に伏し灰となれ》


 その言葉が終わると同時に、アモンの全身が赤黒く光を放ち始めた。まるで地獄の炉の中心にでもいるかのように。


「来るぞッ!!」


 レイが叫んだ。


 ──《焔災殲域(えんさいせんいき)


 地面が悲鳴をあげて裂け、赤黒い光柱が天を突く。瞬き一つの間に、戦場は灼熱の魔界へと変貌した。


 轟音、爆炎、煉獄の奔流。

 溶け落ちる岩盤、焦げて消えゆく草木。

 そして、ドワーフ兵たちの断末魔が、すべてを呑み込む熱にかき消されていく。


 レイは即座に魔法陣を展開し、多層の魔法障壁で自身とカイを包み込んだ。火焔が目前まで迫る中、結界が赤く軋みながらも、ギリギリのところで踏みとどまる。


 ギルバンもまた、咄嗟に魔槌を地に叩きつけ、衝撃波の盾を展開。全身で炎を受け止め、寸前のところで焼き尽くされるのを防いだ。


 だが──


 炎が静まり、硝煙が晴れた後、戦場に立つ者は三人だけだった。


 屈強で知られたドワーフの精鋭たちは、無惨にも灰と化し、焼け焦げた装備だけを遺していた。


「……クソッ……!」


 ギルバンが奥歯を砕かんばかりに噛みしめる。鉄をも砕く腕力を持つその体が、わずかに震えていた。


「これが……魔界に住まう魔獣の力か!」


 レイの声も、かすかに震えている。どれほどの戦場を潜り抜けた者でも、目の前の“それ”を前にして、心が凍えぬはずがなかった。


 カイはただ、唇を噛みしめる。怒りか、悔しさか、恐怖か、あるいはそのすべてか──その目が、かすかに揺れていた。


 そして、再びアモンの声が、静かに、確実に、脳を抉るように響く。


 ──《ほう。我が焔を前にして、生き残ったか。しかし、三匹残ったところで何になる。踊れ。笑え。喚け──その絶望のままにな》


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