王子との出会い
王家主催の茶会の庭園は、春の陽光に満ちていた。
咲き誇る花々、柔らかく揺れる噴水の水音、絹の衣擦れ。
華やかな社交の場にあって、レティシア・アーデンは、あくまで完璧だった。
微笑を絶やさず、声の調子を少しも乱さず。
誰の視線にも応じ、どんな嘲笑にも上品に応えた。
けれど、心の奥に宿った氷のような孤独は、誰にも気づかれぬまま。
そのときだった。
ひときわ強い風が吹き抜け、テーブルの上のナプキンが一枚、彼女の前から飛ばされた。
芝生の上を滑るように飛び、噴水の近くまで転がっていく。
追おうとしたそのとき──
「落としましたよ、お嬢さん」
静かで、けれどどこか朗らかな声。
顔を上げたレティシアの前に立っていたのは、一人の少年だった。
深い藍の礼装、端整な顔立ちに、まっすぐな碧眼。
年は彼女と同じくらいだろうか。だが、その立ち居振る舞いには幼さのかけらもなかった。
「ありがとうございます」
自然とお辞儀をし、微笑を返す。仮面のように、完璧に。
けれど、彼は少し首をかしげて言った。
「無理して笑う必要はありませんよ」
その一言に、レティシアの胸がぴくりと震えた。
「え……?」
少年は、ふっと微笑んだ。
それは他の誰とも違う笑顔だった。勝ち誇りも、憐れみもなく。ただ真っ直ぐに向けられた眼差し。
「さっきの冗談、少し意地が悪かったでしょう。僕には、あなたが困っているように見えました」
ああ、この人は──
この人だけは、わたしの“痛み”に気づいてしまった。
彼にすべてを見透かされた気がした。
「……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せして」
いつもなら、そう言ってその場を去っただろう。
けれどその日、レティシアの足は動かなかった。
「別に。見苦しくなんてなかった。むしろ、格好良かったです」
「……?」
「笑ってごまかすなんて、僕には到底できない。誰もあなたの味方をしない中で、それでも立ち続けるなんて、すごいと思いました」
彼は、王子だった。
この国の第二王子、ジークハルト・ヴァレンティア。
けれどそのときの彼は、肩書でもなく、血筋でもなく、ただ一人の「少年」として彼女に話しかけていた。
レティシアの中で、何かが音を立てて揺れた。
冷たい仮面の奥に、わずかな熱が灯った。
「……あなたは、変わった方ですね」
「そうですか?でも、今のあなたよりはずっと正直かもしれませんよ」
ジークハルトはにこりと笑った。
レティシアはそのとき、初めて本当に、自分の涙を見られてもいいと思えた。
それは、少女の孤独な仮面劇に差し込んだ、最初の春の光だった。
あの日から、すべてが変わった。
あの日、ジークハルトの言葉に触れてから、レティシアの世界は色を取り戻した。
誰よりも高貴で、誰よりも遠い存在。
けれど彼は、誰よりも近く、温かな瞳で自分を見てくれた。
──もっと綺麗になりたい。
──もっと賢くならなければ。
──もっと強く、自信を持てるように。
それからのレティシアは、日々を必死に生きた。
昼は家庭教師のもとで歴史と外交を。
夜はひとり部屋で舞踏のステップを繰り返し、鏡に向かって笑顔を練習した。
誰にも褒められず、誰にも見守られず、それでも彼女は立ち止まらなかった。
何度も孤独に押し潰されそうになった。
それでも、ジークハルトの微笑みを思い出すたび、また前を向けた。
そして、数年の月日が流れた。
いつしか、社交界の誰もが認める令嬢となったレティシア・アーデン。
美しさ、気品、教養、そして完璧な振る舞い。
周囲の噂では「第二王子にふさわしいのは、彼女しかいない」とまで囁かれるようになっていた。
だが、それは努力の果てに彼が振り向いたというわけではなかった。
ある夜、父エルネストに呼び出されたレティシアは、書斎の重い扉の前で静かに息を整えた。
扉の向こうに広がるのは、子どものころから慣れ親しんだ、冷たく静かな空気。
「入れ」
低く重い声に従い、扉を開ける。
「……お父様」
「王家より通達があった。第二王子ジークハルト殿下との婚約が、正式に内定した」
その言葉に、時間が止まったような気がした。
──やっと、届いた。
けれど。
「この縁談は、陛下と私の間で取り決めたことだ。お前の気持ちは関係ない」
その一言が、胸に突き刺さる。
「……わたくしが、努力したからではなくて?」
「努力? 勘違いするな。お前が“選ばれた”のではない。“使える”と判断されたのだ」
言葉は容赦なかった。
レティシアは目を伏せ、静かに息を吸う。
──そう、分かっていた。最初から、分かっていた。
けれど、それでも
「光栄に存じます」
そう答えたレティシアの声は、震えていなかった。
政略。国の都合。家の利害。
それが全てだと、父は言った。
ジークハルト王子の意思がどこにあるかも、告げられなかった。
それでも、胸の奥で、小さく花が咲いたような音がした。
あの日、春の庭園で初めて心を見透かされたあの瞬間から、レティシアはずっと、彼の隣に立てる自分になりたいと願っていた。
愛されたくて。必要とされたくて。選ばれたくて。
それは今も、何一つ変わっていない。
たとえそのきっかけが、恋ではなく政略だったとしても。
──それでもいい。
“婚約者”という立場が与えられた今、ようやく彼の隣に立つ「資格」ができたのだ。
「……わたくしは、嬉しいのです」
ぽつりと、誰に聞かれるでもなく、呟いた。
彼の隣にいられることが。
彼と同じ未来を歩む可能性が、確かにそこにあることが。
政略だと誰が言おうと構わない。
だとしても、これは自分にとって叶った願いなのだから。
──ここから、始めてみせる。
恋を終わらせたりはしない。
むしろ、ここからが本当の始まりだ。
レティシア・アーデンは、諦めない。
どれほど遠回りでも、いつかきっと、ジークハルト・ヴァレンティアの心を掴んでみせると誓った。