虚構の令嬢
──レティシア、七歳。
アーデン公爵家の朝は、静寂の中に規律と格式が息づいていた。
だがその空気の中で、レティシア・アーデンの存在はいつも“例外”だった。
広々とした食堂の長テーブル。その中央には、主であるエルネスト・アーデン公爵と、その妻マティルダ。
そしてその隣には、愛くるしい金髪の少年、レティシアの異母弟セドリックが、無邪気な笑顔で座っていた。
「ママ、これ美味しい!料理長に伝えてくれる?」
「まあ、本当に可愛い子ね。そうね、後で褒めておかなくちゃ」
優しい声、微笑み、差し出される果物。
それは、レティシアが一度も与えられたことのないものだった。
やわらかな母の笑みと、父の穏やかな眼差し。
そのすべては、レティシアに向けられることはない。
「おはようございます。本日も良い朝ですね」
かすれたような声で挨拶しても、返事はない。
彼女の声など、風と同じ。あってもなくてもいいもの。
レティシアは今日も、完璧な姿勢で、丁寧にスープを口に運ぶ。
母に似ぬ銀色の髪。父とは違う淡い紫の瞳。
どれだけ整った所作を見せても、「あの子は本物ではない」という視線が常につきまとっていた。
それもそのはず。
レティシアは、前妻の不貞によって生まれた子だと噂されていた。
本来なら正妻の娘として祝福されるはずだったその存在は、母の死とともに“穢れ”として扱われ、やがて後妻が屋敷に入る頃には、誰も真実を語らなくなった。
母が床に伏し、静かに息を引き取ったあの日のことも。
誰かが語り継ごうとすれば、まるで口裏を合わせたかのように、沈黙だけが返ってきた。
父は一度たりとも、彼女を「娘」として認めたことはない。
「レティシア」という名を呼ぶことすらなかった。
目が合えば逸らされ、誕生日を祝われた記憶もない。
レティシアだけが”家族”ではなく、他人だと言わんばかりの扱い。
──やはり、私だけがここでは余所者なのだわ。
胸の奥にそんな思いが浮かぶたびに、レティシアはそれを笑顔で押し潰す。
どれだけ痛みがあろうとも、歪ませてはならない。
ひび割れひとつ見せれば、誰かが勝ち誇ったように囁くから。
“やはり、あの子は本物ではない”と。
使用人たちの目も同じだった。
ひそやかに交わされる視線、陰口、そして侮蔑。
それらすべてが、幼い頃からレティシアの背中に突き刺さり続けていた。
「お嬢様、お下がりのドレスを小さく仕立て直したものです。少し違和感があるかもしれませんが……」
「ええ、ありがとうございます。どれも、とても素敵ですわ」
それが、マティルダの着古した大人用ドレスを無理やり手直ししたものだと知っていても、レティシアは微笑みを崩さなかった。
虚構で塗り固めた優雅な娘。それが、彼女に許された唯一の「生き方」だった。
──壊れてはいけないのだ。
もし、感情を露わにすれば、「やはり」と囁かれる。
「やはり、あの子は本物ではなかった」「穢れの子には相応しい末路だ」
その言葉を突きつけられるのが、何より怖かった。
だから、レティシアは“理想の令嬢”を演じ続けた。
たとえ誰にも愛されずとも。
たとえ、誰にも抱きしめられたことがなくとも。
「笑っていれば、きっと……いつか誰かが」
その祈りは、薄氷のように儚く、幼い心にすら沁みる孤独の証だった。
そんなある日、王家主催の茶会が開かれることとなり、レティシアも招待された。
その茶会は、王家の婚約者候補を集めたものであり、名だたる貴族の娘たちが一堂に会する場所だった。
「まぁ……あなたがアーデン公爵家のお嬢様?……へえ、あまり似ていらっしゃらないのね」
他家の令嬢が、わざとらしい笑みを浮かべてそう言った。
「髪の色も、瞳も。……あっ、でも、母親には似ているかも?誰の“お母様”かは知らないけれど」
「うふふ、やだわ、そんな冗談──」
くすくすと笑い声が重なる。
上品な紅茶の香りに、静かに毒が混ざっていた。
レティシアは、微笑んだ。完璧な口角。上品な声音。
「皆さまの冗談は、本当に愉快でいらっしゃいますわ」
その手は、震えていた。
けれど、誰にもそれを見せないように、必死に隠そうとした。
たった七歳の少女には、あまりにも酷な舞台だった。
──そう。それが彼女、レティシア・アーデンだった。
“愛されぬ娘”として、公爵家に存在し続けるために、完璧に振る舞い、決して感情を乱さず、ただ静かに笑うことを選んだ少女。
それは、誰からも望まれなかった生き方。
誰にも届かない、孤独な仮面劇。
けれど、それでも彼女は笑い続ける。
壊れてしまわぬように。心の奥の叫びを、誰にも悟られぬように──。