プロローグ
砂漠の真ん中で、少女は死にかけていた。
焼けるような太陽が、空高く照りつけている。乾いた風が容赦なく肌を裂き、荒れ果てた大地が体温を奪っていく。
喉はすでにひび割れ、唇は裂け、血が滲んでいた。
彼女の名はレティシア・アーデン。かつてアーデン公爵家の令嬢だった少女。
今、彼女の周囲には誰もいない。
家族も、友人も、婚約者だった王子すらも。誰一人、助けに来ない。
それは、当然の報いだった。
婚約破棄。
子爵令嬢への陰湿ないじめ。
暗殺未遂の罪。
すべてが暴かれ、王子は激怒し、婚約は白紙に戻された。
その騒動に激昂した両親。否、父と継母は、彼女を勘当し、砂漠に置き去りにしたのだ。
「……滑稽ね……」
レティシアはかすかに笑った。
自嘲に満ちたその微笑は、唇が裂けて血がにじむほど弱々しかった。
誰からも愛されなかった。
父の目に映ることはなく、継母からは冷たい無関心を向けられた。
それでも、努力はした。公爵家の娘らしく、完璧に、優雅に、そして美しく。
いつか王子と結ばれ、正妃になれば、誰も自分を見下さなくなると信じていた。
それだけが、彼女の生きる理由だった。
だが、王子が心を寄せたのは、明るく朗らかな子爵令嬢。
元使用人の娘で、正妻ではない愛人の子。
それでも、彼女は愛されていた。誰からも笑顔を向けられ、周囲に人が集まる。
そんな姿を、レティシアは憎んだ。
心の底から、羨ましかった。
だから、手を汚した。
浪人を雇い、彼女を傷つけようとした──。
「……わたし……最低ね……」
呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。
風だけが、さらりと砂を舞わせていく。
そのときだった。
彼女の意識が深い闇へと沈もうとする瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
何かが“開く”音がした。
胸の内側から、熱が込み上げてくる。
──これは……記憶?
いや、違う。もっと遠い、もっと昔の何か。
レティシアの脳裏に、見知らぬ風景が次々と流れ込んでくる。
重なり合う感情。懐かしい匂い。笑い声。
異世界の都市。学生服。部屋の灯り。
──……思い出した……これは、私の前世……。
彼女は確かに、別の人生を生きていた。
普通の家庭に育ち、誰かを愛して、そして──何かの理由で命を落とした。
生まれ変わった先が、この世界。
レティシア・アーデンとしての人生。
けれど、その再出発は、最悪だった。
愛を知らず、憎しみだけで生き、手にしたのは破滅だけ。
──……やり直したい……せめて……今度こそ……
だが、まぶたは重く、身体はもう限界だった。
すべてが暗転していく中で、彼女の耳に、かすかな声が届いた。
「……おい、誰か倒れてる……!おーい、こっちだ!」
風の幻か、それとも本当の声か。
それを確かめる余裕もないまま、レティシアの意識は静かに沈んでいった。
──もし、生き延びられるのなら。次こそは、まっとうに、人として生きたい。
それが、死の淵に立った少女の、最初で最後の“祈り”だった。