弱小モブ大名の伊藤さんが、うっかり歴史を動かしてしまう話
現在の岐阜県大垣市
そこに伊藤盛正という弱小大名がいた
親が秀吉にたまたま仕えていたというだけで、もらった大名の地位と小さな所領、そして当主は平凡でモテない男な伊藤さん
しかし、時は戦乱の時代
伊藤さんもそこから逃れる術は無かった
関ヶ原の戦いに巻き込まれていくのである
そんなモブの中のキング・モブである伊藤さんが歴史を動かした挙句にフェニックスになってしまうお話
ぼ……僕の時代が……
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伊藤さんは心の中で……
小躍りどころか……
大はしゃぎ\('ω' )/≡\( 'ω')/した。
それもそのはず、関ヶ原の戦いの前に行われた西軍の軍議で……何と3万4千石の弱小大名である伊藤さんの大垣城が西軍の本拠地とされたのである!
自分の城が天下分け目の大決戦の中心舞台となるのだ。伊藤さんが浮かれてしまい飛び跳ねてしまうのも仕方がないのである。
伊藤さんは父親が織田そして豊臣に仕えていたお陰で3万4千石を貰い大垣城城主になったという典型的な織豊大名であった。
ただ、同じ織豊大名でも、加藤清正や石田三成など武勲や知略で領地を貰った人もいれば、長く家臣をしているというだけでご褒美として大名となった凡庸な人もいた。伊藤さんの父は紛うことなく紛れもないほどの後者である。武功とも無縁の凡庸な人であった。その父の後を継いだ伊藤さんも当然のことながら、絵に書いたような全く目立たない汎用な人だった。
だから、軍議で大垣城に籠城し家康に対抗すると発表があったとき皆がこう思った。
(……大垣城主って誰だっけ?……斎藤?……)
と、思われるほど、忍者や隠密の方がまだ目立つのではないかと言うくらい影が薄い伊藤さんなのであった
しかし、今や西軍の本拠地である大垣城の城主なのだ!
そんな日陰者の人生も今日限りなのである。
いつもはコソコソと隠れる様に端を歩いていた大坂城の廊下。今やど真ん中を肩で風切って歩く伊藤さんである。
そして、近くにいる側近たちへ、しきりに大阪城いっぱいに響き渡るような声で叫ぶ。
「我が伊藤家の大垣城に目をつけるとは!流石は三成公、お目が高い。我が大垣城をもってすれば家康なぞひと捻りだわい!」と……
もちろん側近に言っているのではなく周りに自慢しているだけである。
人生で初めてスポットライトが当たったのだ。はっちゃけるのも仕方ない。放っておけば、大坂城の中心で愛を叫んじゃうか、大坂城の障子を破りまくり盗んだ仔馬で走り出しちゃうくらいの勢いで調子に乗りまくりだったのである。
そして、喜び勇んで大垣へ飛んで帰っていった。
馬上で「ついに来たぜ♪俺の時代♫」とラップ調に口ずさんでいた。日本初のラッパーがここに誕生した瞬間である。
ということで、伊藤さん張り切っちゃいました!
西軍1万五千を大垣城に迎え入れるのである。城下町や寺を整備し軍勢を迎え入れる準備に勤しんだのである。
もっとも3万4千石の大名が用意できることは、たかが知れていたが伊藤さんは伊藤さんになりに金庫を空にして頑張ったのである!
伊藤さん……人生で最高の至福の瞬間であった。
ということで、
そうこうするうちに三成の軍勢がやって来た!
伊藤さん、三成を出迎えた!
お褒めの言葉をいただく自信満々である!
しかし、伊藤さんにまさかの事態が襲った!
三成から衝撃的な言葉を言われることになる。
「おい伊藤!!お前はもう要らないから、城を引き渡してどっかへ行け」
えっ(;゜д゜)ェ………伊藤さんびっくりビックリである。
何かの聞き間違いかと思い、思わず訊き返した。
「何かの間違いではございませんでしょう……か」
「何だとゴラァ、なんか言ったかぁ ?
伊藤ごときの無能の虫けらがァァァッ?
お前のような無能な奴は生きているだけでも丸儲けなんだよ。
それとも家康の前にだなァ、お前のクビを晒したろうか!」
カタ((((꒪꒫꒪ ))))カタ
気弱な伊藤さんガクブルである。
そして、パワハラー三成は本丸を1万5000の兵で取り囲み、あっという間に伊藤さんを城から追い出したのである。
こうしてなんと伊藤さんは一瞬にして城主からホームレスになってしまったのである。
ときは1600年8月10日、残暑の厳しい季節(現在の暦では9月)であり、下手に昼間に闊歩をしていると熱中症で生命が危うい季節である。当時も武士や庶民問わず熱中症による死は多かった。城主からホームレスを飛び越えて死の淵まで追いやられた伊藤さんなのである。
そんな伊藤さんに当然ながら行くあてなんて無い。
パワハラー三成を恐れて誰も声もかけてくれない。
トボトボと孤独に炎天下の中を歩く伊藤さんであった。
額から汗を噴き出しながら行くあてのない旅であったが、それこそ何となく今村と言われる地方へに向かったのである。脱水症状でフラフラになりながら歩いたのであった。
だが……この危機が後にオタク歴史家たちからフェニックス伊藤と言われることになる伝説の始まりだったことを誰も知る由はなかった。そして、このときパワハラー三成の運命が決まった瞬間でもあった。
さて、三成から逃れ今村に何とかたどり着いた伊藤さん。そこにはもはや民家と言ってもいいくらいの粗末な城とは名ばかりの家があったのだ。
そして、ここで伊藤さんは最初の奇跡を起こす。
何と言うことでしょう!
なんと誰もいないではありませんか!
しかも、食べ物があったのである!
普通は放置された民家の様な城に食べ物なぞない。野盗なり近隣住民が持っていってしまい、もぬけの殻が当たり前なのだ。そこに食べ物があるというのは信じられないことなのである。
だが何たる幸運というか奇跡!
何とかこの奇跡で命を繋いだ伊藤さんであった。
さて、満腹になった伊藤さん。
怠惰にゴロゴロしながら考えた。
やっぱり大垣城に戻りたいのだ!
三成に認めて貰えれば戻れるのでは?と考えた
そうだ!東軍の将のクビをとればいいじゃん!と……
戦で武功どころか、戦場にいたことすら認識すらされていない伊藤さんがいきなり首をあげるなんぞ、浅はか小町以上のアホな考えである。しかし、彼はなぜか出来ると思ったのであった。
そして、ご近所に東軍が攻めてきたというので、その軍勢にホイホイと付いていったのである。
が、相手は徳川家康の配下の中でも戦闘狂と言われた〝放人〟市橋長勝。伊藤さんたちは毛散らされて当然ボロ負けである。
そして伊藤さんは、まるで尾崎豊の歌詞のように盗んだ馬で駆け出したのである。歴戦の市橋が逃げる敵将を逃がすわけもない!
はずが、毛散らされてバラバラになったのが幸いして逃げきってしまった。
どうやら市橋は伊藤さんの影の薄さに、居ることすら全く気がついていなかったという、嘘みたいな本当の話で逃げのびたのであった 。恐らく毛散らされただけに毛根も失いさらに影が薄くなったので無事だったと後年の歴史家たちが一様に指摘している。
さて、話を戻そう。
全く意味合いが違うが、当初の予定通り?に大垣城に戻った伊藤さん。 そして、そこで前城主なのに城内に入れて貰えないという門前払いという言葉を体現することになったのである。
が、行くあてもないので城下町をプラプラしていたら空いてる民家を見つけて、ちゃっかり居座った伊藤さん、早速怠惰にゴロゴロし始めた。
しっかりすっかりしぶといモブである。
でも、良く考えてほしい。大垣の城下町はいきなり単純に一万五千人も人口が増えたのだ。お供のものも入れればもっと増えたであろう。空き家という空き家は三成軍に占拠され、本来は空き家なんかまず見つからないのだ。資料では空き家を巡って殺傷沙汰は日常茶飯事だったらしい。そんな中アッサリと空き家を見つけて居座ったのである。
どうやら伊藤さんは、先の今村の件といい、空き家を見つけるスキルが開花したらしい。大名として全く役に立たないスキルであるが、今の伊藤さんには一番必要なスキルが開花したのである。
だが、そこはモブの悲しさである。
二週間くらい民家でゴロゴロしていたが、三成の娘婿の福原に見つかってしまう。
そしてパワハラーの娘婿は当然のようにパワハラーなのである。
「お前みたいな役立たずはいらねぇんだよ!
関ヶ原で人足として雇ってもらえ!
行かねぇとぶっ殺すぞ!」
と、関ヶ原行きを命じられ、またもやホームレスとなった伊藤さんだった。
月は変わり9月(現代の暦だと10月)になっており、関ヶ原は一変して底冷えする時期になっていた。しかも秋雨が容赦なく体温を奪っていき、今度は違う意味でガクブルの伊藤さんであった。
冷え切った身体で何とか寒さに耐えながら一晩かけてやってきた関ヶ原。既に布陣していた大谷吉継と小西行長に陣に加えて欲しいとお願いした。
だが、類は友を呼ぶ。
パワハラー三成の親友は当然ながらパワハラーなのである。ヤンキーの周りにはヤンキーしかいないのと同じ構図だ。
「斎藤?いや伊藤だっけ?誰にお願いしてるんだ?
なんの役にも立たねぇだろ?
邪魔だから失せろや!」
とあしらわれ、本当に石を持って追われるくらいの勢いで追われたのであった。
はてさて困った伊藤さんは、お腹が空いたので山に行けばアケビくらいあるかな?と松尾山という山に登ってみた。
そうしたら、なんということでしょう!
テッペンには空き城があるではありませんか
しかも、兵糧も置いてあるということで、ちゃっかり居座ることにした。空家探しの才能発揮しまくりの憎めない伊藤さんである。
だが、モブ体質は変わらないのである。
もう空屋にいると追い出されるというのはお約束。
当然ながら松尾山でのマッタリとした時間は直ぐに終わるのであった。
早速怠惰にゴロゴロしていた伊藤さんは、完全武装した男たちに囲まれて城を明け渡せと凄まれたのである。
何を舐めたことを!などと言える伊藤さんではない。もう、自分が戦に向かないことは市橋戦で禿げかかったので良く知っている。
ということで、伊藤さんは誰にも告げずに山を降りた。麓にいた大谷吉継も小西行長も誰も彼が山を降りたことは知らなかった。いや気にもかけていなかったのであろう
伊藤さんを追い出した男たちの大将は小早川秀秋といった。そして、西軍は松尾山に掲げられた小早川の家の旗を見て大パニックになったのである。
巷では今でも小早川秀秋は合戦の最中に西軍で裏切ったと思われているが、最新の研究では小早川秀秋はどちらに味方するか去就をはっきりと示していないどころか、東軍として参加するのではないかと西軍から思われていた。三成はそんな秀秋を関ヶ原に行かせるのはマズイ!と思っており、関ヶ原とは違う方面に行けと命じたくらいに、西軍は小早川秀秋を大警戒していたのであった。
しかし、秀秋は関ヶ原に向かった。
その軍勢は八千!!
大軍を誰も止めることは出来なかったのである。
そんな東軍に裏切るかもしれない軍勢が大挙して山城を占拠したのだ。大パニックになるのも当然で、布陣は大混乱となり一部は松尾山に向き、一部は徳川に向いた。
そして、その混乱を家康が見逃すはずはない。
翌朝開戦した。
そして小早川秀秋は合戦が始まると同時に山を疾風の様に駆け下り、大谷吉継の軍勢に襲いかかった。
結果は書くまでもない。天下分け目の合戦は午前11時頃には呆気なく決着がついた。
関ヶ原の戦いの特徴は、両軍ともに主力部隊が到着していない中での先遣部隊での戦いであったことだ。
ここから歴史のイフになるのだが、 このとき伊藤さんが抵抗までいかなくても、せめて麓の西軍に「小早川に追い出されました」と連絡していたら、大警戒していた西軍は小早川秀秋の松尾山城に入城を拒めただろう。
小早川秀秋の軍勢は松尾山に入れなければ隘路を進み関ヶ原に向かうことになる。隘路では軍勢の多さは活かせない。果たして裏切りは成功したのであろうか。
そもそも、駿才であった秀秋が隘路で軍を動かすとは到底思えない。つまりしれっと西軍のまま参加したのではないかと思う。
何よりも、西軍の陣の乱れは小早川秀秋の松尾山布陣であふる。それがなくなるので、あの日に開戦していたのだろうか?可能性は極めて低い。
西軍の本隊が足止めされていた大垣城攻防戦は関ヶ原の戦いの当日に終わった。本隊の大半は翌日には到着していただろう。しかし東軍の本隊は信州の上田で真田親子に足止めをされ関ヶ原への到着はさらに数日後である。
松尾山を占拠したのが小早川秀秋でなく西軍の本体であったならば、本隊がいない家康は力押しでつぶされた可能性も高い。
この小早川秀秋の松尾山占拠に伴う伊藤さんの行動は明らかに関ヶ原の戦いを動かしたのだ。
まさしく三成の命運を決めたのは追い出したモブの伊藤さんの沈黙だったのである。
さて、関ヶ原の戦いで伊藤さんがどこで何をしていたのかは分かっていない。資料に伊藤さんが出てこないからである。
関ヶ原の戦いのあとの伊藤さんについて大垣市は市史を編纂するので調べた。市史には笹尾山で戦死したと大垣城の城主だったとは思えぬくらいのアッサリぶりで書かれている。
市としては何の功績もないどころか、城を追い出された挙句に行方不明な伊藤さんより、その後に水の街大垣市を造った戸田氏を推したいのだ。 伊藤さん城主時代とは、大垣市の黒歴史にほかならないのである。モブの宿命であり、あっさりでも仕方ないのであろう。
哀しいかな、伊藤さんは城を追われた挙句に最後は生命を落とした間抜けとして知られている。
伊藤さんにとっての関ヶ原とは踏んだり蹴ったりの関ヶ原だった。伊藤さんの人生は小大名の哀れさとモブキャラの悲哀を感じさせる人生だった……
と、思うだろうが、ここからフェニックス伊藤の真骨頂が始まる
∧_∧
( ・ω・) 復活!!
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∟⊃~⊃
│││ ドゥーン!!!
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/ (____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そう、伊藤さん……
なんと、京の空家で生きていたのである。
つまり大垣市の公式市史が間違っていたのだ!
関ヶ原の戦いときにドサクサに紛れて逃げ出すことに成功して、京の空き家にちゃっかり居座って怠惰にゴロゴロしていたのであった。ここでも遺憾なく空き家を見つける才能を発揮している。
が、空き家にいると敵に見つかるのもお約束である。
当然ながら見つけたのは徳川軍。
伊藤さんは大垣城の前城主
何よりも処刑しても誰からも恨まれないモブ
生かして置く価値もないから殺してしまおうね!
ということで斬首と決まった
と思った矢先に突然……
縁もゆかりなければ伊藤さんと会話したことすらもない福島正則が伊藤さんを庇いだしたのである。
「伊藤さん悪くないじゃないですかぁ!
可哀想じゃないですかぁ!
助けてあげてください!」
と、助命嘆願したのであった。
家康は「えー正則ちゃん、いまさらそんな事を言うの?もっと早く言ってくんないかなぁあ。メンドくさ!」と思いながらも、可哀想といえば可哀想だし、何より福島正則は関ヶ原の戦いの軍資金を出してくれたので無下にも出来ない。「まぁ、福島君が責任をもって雇うならいいよ!」ということで無罪放免となったのである。
なぜ福島正則が助けたのかは資料がなく不明であるが、筆者が推考するに福島正則は急速に領地が増えたため文官が不足していたのだと思う。弱小大名とはいえ領国経営の経験がある伊藤さんは文官としてピッタリであったのだと考えている。
ということで、またも死の淵から生還した伊藤さんであった。
このあと正則さんの領地である広島に15年ほどいたらしい。しかし、ある日伊藤さんは広島を出た。その経緯は全くもって不明であるが、何かしらの問題で出なくてはいけなかったのであろう。
その後の歴史書にもどこにも伊藤さんの名はない。
行方不明となりモブキャラらしく生涯独身で人知れず死んでいったのであると歴史家の誰もが思っていたのである。
が、相手はフェニックス伊藤なのである
一筋縄ではいかないドラマが待ち受けていたのである
時は流れた
徳川の時代は終わった
大戦も終わった
高度成長期も終わった
関ヶ原の戦いから400年
ときは西暦2000年になった。
金沢市のとある郷土史研究家が前田家の研究をしていた。その中で前田利家の養女の一人の嫁ぎ先が分からなかった。別に養女なので突き止める必要もないのであるのだが、不思議なことに嫁ぎ先が気になって仕方ない。そして古文書を紐解いたであった。程なくして彼女は図書頭という役職の文官の男へ嫁いでいることが分かったのであった。
男の名前は〝伊藤盛正〟
そう……あの伊藤さんであった
なんと400年後のフェニックス伊藤復活である
ハリー・ポッターシリーズに呼んで欲しいくらいの復活ぶりである。
このことは全国ニュースになるくらい歴史家の間でも話題になった。ここにオタク歴史家たちは伊藤さんをこう読んだ
「四百年の時を経て甦りし伊藤。まさに不死鳥の如し」
さて伊藤さんの足跡に戻る。
どうやら広島を出て放浪していたら、加賀藩に招かれたのである。
しかも加賀では二千石という大きな所領を貰い、あの前田利家の養女を嫁に貰い結婚するわ、子供に恵まれて幸せな家庭を築いていたのである。
図書頭が何をするのかは筆者にはさっぱり分からないが、役職に頭とつくことや石高の多さから、かなりの重要職であることは間違いないし、加賀藩では優遇されていたのが分かる。
何はともあれ、伊藤さんは大名ではないが幸せに余生を送ったのであった。
戦国武将の一番の使命は何か?
それはお家を存続させることだ。
どんなに英雄として死んでもお家が無くなれば意味はない。それでは戦国武将としては失敗なのである。
そして、伊藤さんは見事に果たしたのであった。
そして、何と!
直系のご子孫が今もご健在であると言うのだから驚きだ。この功績に勝るものはないであろう。
1623年3月、徳川家光が将軍に就任する約4ヶ月前、徳川の世が本格的に花開こうとした時期……
関ヶ原の命運を決めた男
伊藤さんは愛する妻や子供たちに囲まれて穏やかにこの世を去った。
伊藤さんの家の庭にはいつも沢山の雀がいて賑やかだったという。
伊藤さんが天に旅立ったとき、一斉に空の彼方へ飛んでいった。
まるで魂を何処かへ連れて行くかのように……
ちなみに雀は空いた巣を使う名人である。
肖像画もなく
生まれた年すらも分からない伊藤さん
挫けぬ・諦めぬ
そんな気持ちを持ち続けた彼は平凡なのではなく優秀な武将だったのかもしれません。
さて石田三成がヤンキーみたいなパワハラ口調ですが、これ実は本当なのです。
石田三成は伊藤さん様な無能感じた織豊大名を本当に嫌っていて罵っていました。後年の三成像は良くないのはこの影響が大きいです。小早川秀秋にも厳しい言葉をいっています。
なお、関ヶ原の戦いは両軍ともに本隊が着いていない中で始まったんです。西軍の本隊が遅延したのも三成の暴言からです。
こう考えると関ヶ原の戦いで負けたのは自業自得なんですよね