第12章:およよ
そして、そのまま幾日かが過ぎることとなる。
街で狼に襲われて以降、何故か攻撃の手はぴたりと止んでいた。俺は、いつ襲われるか気が気でなく、正直学校なんか行く余裕はなかったのだが、
「駄目よ、ちゃんとガッコウとやらに行きなさい。いきなり普段の生活を変えてしまったら周りから不自然に思われるでしょ」
と至極真っ当なご意見を天使様から頂いたので、結局無意味な皆勤賞を続けることとなった。俺が学校に行っている間、奏はどうしているのか聞くと、
「あたしは調査で忙しいから。大丈夫、シキが呼んだらすぐに行く。一応、あんたもウィスメント使えるんだから、善戦はしてほしいところだけどね」
と、呼んでいいのか呼ばれたくないのかよく分からない回答をされた。まあ明らかに後者であることは、これまでの奏との付き合いから俺が学んだことである。
というわけで、俺は小林とたわいのない話をしながらも、いつ来るか分からない襲撃者に絶えず怯えるという、精神的にも過酷な生活を強いられたのだった。
「ああ、情けねえよなぁ。俺だって、一応魔法使いだっていうのに、魔物一匹倒せないんだからなぁ」
学校からの帰り道、俺は誰としゃべる訳でもなく一人ごちていた。最近は、万が一襲われたことを考えて、こうやって一人で帰宅することが多くなった。
昔は、放課後に買い食いしたり家でゲームしたりと、まめに交友を行っていたため、友人には事欠かなかった。今はそんな付き合いもなくなってしまったので、みんなとうの昔に俺の存在なんて忘れ去っているのだろうと思う。しかし、現在の俺の精神状態は、友達について考える余裕などは微塵もなかったので、下手に干渉されないという方が好都合であった。多分、後々困ってくるんだろうが。気づいたら友達が小林しかいなかった、という最悪の状況だけは回避しなくてはならない。
そういう訳で、寂しさを紛らわすために無意味な独り言が増えてしまうのは、当然の摂理であった。
「考えてみれば、今まで退屈な日々を過ごしていたのに、いきなりRPGみたいなスキルを手に入れたんだ。傍から見れば、かなり愉快な設定だよなあ。まあ、傍から見ればの話なんだがなあ」
俺は、虚空にこのウィスメントと呼ばれる魔法の杖を振り回した。便利なことに、地上の人間にはこの怪しげな武器は見えないらしい。よって、俺は四六時中、体育の授業にでさえ、この杖を持参していた(体育の時は、紐をくくりつけ背負っていた)。悲しいかな、運動なんて最初から出来なかったので、こんな邪魔なものを背負った状態で授業を受けていても、誰も疑問に思うことはなかった。まあそのことについては、調度よかったととらえておこうと思う。近年は、ポジティブ思考でないと、生きるのがしんどくなる時が多い。すさんだ世の中になったものだ。
で、この杖なのだが、こうやって常に装備しているのにも関わらず、しばらく魔法を使う機会がなかった。
「ちょっと久しぶりに、魔法でも使ってみようかな」
いざというときになって、魔法が使えない状態になってしまったら意味がない。
訓練だと思って、空でも飛んでみようと、俺は目を閉じ、意識を集中させた。
「天駆ける力を我に! フライ!!」
ブワァァッ!!
俺の背中に、以前と同じ真っ白な羽が生えた。魔法の腕は鈍っていなかったらしい。しかし、このまま何事もなく魔法が使えなくなり、魔物からも襲撃されなくなればいいのに、という希望を僅かながらも抱いていた俺としては、何とも複雑な心境であった。
考えていても気分が沈むだけであったので、そのまま俺は気晴らしに町内を飛び回ることにした。
とん、と地を蹴る。
それだけで、俺の体は宙に浮いた。
そのまま、俺は真上に飛び上がる。
家の軒先、電信柱、ビル……。あっという間にもうそこは、地上の世界ではなくなった。
地上には、道があり、壁があり、山があり川がある。その度に人々は回り道をしなければならない。そうやって、前に進んだと思えば後ろに戻ったりを繰り返す。 空中には、そのような回り道は一切必要ない。前方になにか障害物があれば、高度を上げれば済むことだ。
天界人の寿命を詳しくは知らないが、生き急いでいる者は多いと思う。実際、奏は娯楽を知らない。常に仕事が最優先で、地上の観光もろくにしてこなかった。今の人間の生活だって、天界人とそんなに変わらないのかもしれないが、少なくとも俺は、地上の道のように曲がりくねった人生を歩んでいきたいものだと思った。今は絶賛回り道中だと思えば、少しは気が楽になる、かもしれない。
なんて柄にもなく哲学的なことを考えてしまうくらい、俺の神経はやられちまっていたようだ。改めて前回の戦いのダメージが大きかったことを認識する。
しかし、空を飛ぶことは純粋に気持ちがよかった。俺は風を切りながら宙を泳ぐ。全身に心地よい冷たさを感じる。そこらを飛び回っていたすずめと並走してみる。次々と雲に迫り、追い抜いていく。こんなことは、今までの俺には決して体験しえなかったことだ。
「命の危険に晒されているわけだが、まあ、これは不幸中の幸いってとこなのかな。今のうちに楽しんでおこうっと」
できるだけ暗いことを考えないようにしたいという本音を、誰も居ないのにも関わらず口に出さずに、俺はその後しばらく、空中遊泳を楽しんだ。
昔銭湯をやっていた名残の煙突。
少し疲れた俺は、その先端に腰掛け、何とはなしに風景を眺めていた。
こうやって空を飛んでいる間は、地上の者には姿が見えなくなる。本来ならば通報されるシチュエーションでも、これならば安全だ。都合のよい力だな、と改めて思う。
「これで、危険な輩が襲ってこなければ文句なしなんだけどなぁ」
魔法が使えるなんて、本当に愉快な設定だ。誰もが必ず、一度は夢見たと思う。しかし世の中は等価交換。何かを得れば何かを失う。俺は「平和な日常」を対価に「魔法の力と冷徹天使」を得た。何だか等価ではない気がするのは俺だけだろうか。
吐くだけ虚しいと思うが、既に数百回は吐いたため息を、俺はやっぱり吐かざるを得なかった。
と、その時。
「っ!!?」
背後に不穏な気配を感じた。
咄嗟に後ろを振り向くと、そこには何も居ない。
しかし、この気配。
忘れたくとも忘れさせてはくれない、奴のものに違いない。
「また、きやがったな……!!」
俺は空中に飛び上がり、気配から間合いを取る。
意識を集中させると、確かに、瞬間的に移動している何者かが居ることを感じ取れるが、依然、俺の目の前には何も映っていない。
数日前の出来事がフラッシュバックする。
脂汗がにじみ出る。
落ち着け、落ち着くんだ……!
俺は、動いている気配の軌道を追いながら、静かに詠唱を始めた。幸い、奴はまだ気づいていない。
先制を取れさえすれば、俺にだって勝機はある。一発喰らわせて、やればできるってところを奏に見せてやる!
「来たれっ天のいかずちっ!! サンダーーー!!」
ズガーーーーーン!!
攻撃範囲を「広域」にセットした俺の攻撃は、見事に命中した。しかし威力が弱かったのだろう、完全に倒れるまでにはいかなかった。姿をあらわにしながらも、そいつは俺に向かってくる。くそっ、しぶとい奴め。
だが、ダメージが影響したのか、奴のスピードは格段に落ちていた。再びこちらに向かってくる前に、俺が詠唱する時間は十分にあった。
「これでとどめだ! ファイアーーーっ!!」
ギャアアアァァァッ!!
俺のファイアが魔物に炸裂する。クリティカルヒットだった。
辺りに断末魔が響き渡る。内臓に響く、超音波のような叫びだった。
そのまま、奴はどす黒い煙を撒き散らしながら、姿を消した。
後には、何も残っていなかった。
「はぁ、はぁ……」
魔物の気配は完全になくなった。
しかし、俺はしばらく、その場から動けなかった。
足が、今更震えてきた。変な汗が、全身をつたった。
俺は、杖を持っていた手を見る。
力強く握りすぎたせいで、手のひらは赤くなっていた。
やっとのことで、俺は煙突のところまで戻ってきた。
大きく、息を吸い込み、そのまま吐く。
胸の動悸が、少しずつ収まってきた。
「……った」
両腕をあげ、天を仰ぐ。ゆっくり、口を開いた。
「やった……やったぞーーーっ!!」
時間が経つにつれ、徐々に実感が湧いてきた。
俺は、勝ったんだ。奏が居ない、この状態で。頭の上には、レベルアップという大きな文字が浮かんでいることであろう。
相手は、取るに足らない小物だったと思う。奏なんか敵とも思わない奴だったんだと思う。しかし、俺にとっては今まで精神を蝕んできた元凶だった。そいつのせいで、ずっと怯えながら過ごさなければならなかった。まだまだ、魔物はたくさんいるだろうし、俺が今倒した奴なんてスライム程度の弱い魔物だったのだろうが、この勝利は俺にとって大きな一歩だったことに変わりはない。
「俺だって……やれば、できるんだーーっ!!」
今までのフラストレーションを全て発散するかのように、俺は煙突の上で叫んだ。
「貴方、すごいですわねっ! 本当に一人で勝ってしまうんですから!」
「だろっ!? 俺だって、奏に頼らなくても戦えるん……」
え。
俺は誰としゃべっているんだ……?
ここに俺の姿が見える人なんて……
俺は驚いて、声がする方向へと向き直った。
と、そこには。
長い羽衣を体に纏い、優雅に宙を舞っている方がいらっしゃった。
天使の羽はなく、彼女は羽衣で空を飛んでいるようだった。奏を天使というならば、彼女は天女ということだろう。凛々しさを感じさせる奏とは対照的に、柔和で非常に女性的な人だった。肩にかかる程の黒髪、丈の長い着物、おとぎ話の挿絵から飛び出したような、時代錯誤なお方だった。いきなりの登場に唖然とするしかない俺を見て、彼女はくすくすと笑っている。
「あ、あの、あなたは……?」
「ああ、すみません、怪しい者ではございませんわ」
怪しいものではない、なんて言う奴は大概怪しいものだ。ひとまず雰囲気からして敵ではなさそうであるが、俺は警戒するため一定の距離をとった。それを見て、天女さんは慌てる。
「ほ、本当ですのよ! 私はぜーーんぜんっ、怪しいものではございませんっ!」
と言いながら、天女さんは手を腰に当て胸を張る。そこは威張るところではない。
「で、怪しくないあなたは何者なんですか?」
直感的に、この部類はめんどくさい性格だ、と感じた俺は、手っ取り早く話を進めるために質問をする。天女さんは威張った格好のまま、続けた。
「私は水の守護、詩音と申します。奏とは同僚ですわ! この度クレス様により、貴方様をお守りするよう仰せつかりました!」
「は、はあ」
天女、詩音さんは「全然怪しくないでしょ?」と付け加えながら、俺に握手を求めた。俺はなされるがまま、詩音さんにぶんぶんと手を振られる。しかし、俺がなおも怪訝な表情であるのを詩音さんは察したらしい。こほん、と咳払いをして、俺に向き直った。
「本当は、私、貴方様宅へ本日の朝伺う予定だったのです! そうすれば、その時奏とも会えたでしょうから」
「……はあ」
「しかし、本当に貴方様が私たちと同様の力をお使いになるのか、私疑問に思ってしまいまして……今まで人間が力を使うなんて、聞いたことありませんでしたから。そこで、大変申し訳ございませんが、少し様子を見させていただいておりました。思えば、この行為が逆に、貴方様の不信感を招いたのですよね……」
非常に落胆しながら、およよ、と詩音さんは着物の袖を顔に近づけた。ものすごく芝居がかっていると感じるのは俺の勘違いなのだろうか。なおも詩音さんは大舞台を続けた。
「でも、この目ではっきりと私は見ました! 貴方様が魔物を倒す雄姿を!! 私が抱いていた疑念など、とても矮小なものだったのだと!! 私は今、恥ずかしくて貴方様に合わせる顔などございません……しかし、私はクレス様から命を授かった身。私は決めました、この命、尽き果てようとも貴方様をお守りするとっ!! このように卑猥な考えに及んだ私を律するためにも、全力で貴方様にお使えしようと!!」
紙吹雪が舞い飛び、抒情的な音楽が本当に響きそうだった。魔法の力で、それくらいはできないこともないんじゃないか、なんて考えたりもした。
俺には、完全にお芝居にしか見えなかった。しかし、当の本人はいたって真面目なようだった。再び俺の手をがっしと掴み、ぶんぶんと上下に振る。
「何なりとご命令くださいませ! 私は貴方様を、必ず魔の手からお守りいたしますっ!!」
「……はあ」
これはまた、やりにくい天界人が増えてしまったようだ。というか、まだこのお方が本当に味方なのかどうかも判明していない。しかし、詩音さんはそんなことそっちのけで、依然俺の手を振っていた。
とりあえず、家に帰って奏に見せれば、分かるだろう。
そろそろ痛くなってきた手をいつ放してもらおうかタイミングを図りながら、俺はこれからの生活に再び不安を感じずにはいられなかった。