蝶になる 〜不惑女の再出発
女手ひとつで育ててくれた母が、先日亡くなった。母を失った寂しさと虚しさで、思考がずっとにぶい。
「お母さんのそばにいて」
「裏切らないで」
「あなたがいないと生きていけない」
私はたった一人の母を支え続けた。四十年間、母のために生きた。勉強して、社会に出て、恋にうつつを抜かすことなく過ごしてきた。母も私のためにすべてを費やしてくれた。
だからなのか、世界にぽつんと取り残されたような気がする。葬儀が終われば日常に戻ると思ったけれど、そうじゃない。むしろ日を追うごとに自分の形があやふやになっている。身内を亡くしたとなればこうなるのだろうか。わからない。職場にはまとめて休暇を出しているので、まだゆっくりしていていいのだけど、これからどうしたらいいんだろう。
今日は家にいるのがいやで外へ出た。ぼーっとしながら町を歩くと、ふとショーウィンドウに写る自分の姿が目に入る。白髪まじりのひっつめ髪。化粧っ気のない顔。母が言う通りに買った地味な服。くたびれたスニーカー。
いつのまにか四十歳だ。同級生は結婚して子どもが生まれていたり、独身でも趣味にいそしんだり、仕事に精を出したりしている。それに比べて、私は。
「……枯れてる」
久しぶりに開いた口からはかすれた声しかでなかった。思わず自虐的な笑いがもれる。その姿さえ、滑稽だった。ガラス窓をはさんだ向かい側には目を張るような華やかさがあるのに、自分には何ひとつない。
『おしゃれなんか必要ない。もう四十なんだし』
肩に手を置く母が見えたような気がした。母ならばそう言うだろう。同じ過ちを犯してほしくないと、異性関係は特に厳しかった。男の気を引くためのおしゃれなんて、とよくテレビを見て愚痴をこぼしていたのを覚えている。これからも母の言う通りに生きていけばいいのだろうか。私という存在は、母に縛られていないと形をなさないのだろうか。
私は目に留まった美容室の扉を開けてみた。予約はしていないが大丈夫かと店員さんに聞くと、いいですよと笑ってくれた。
髪を明るく染め、ばっさりと切ったボブヘアは、なかなか似合っているように思えた。少しあった白髪が見えなくなるだけでだいぶ若々しく見える気がする。メイクまでお願いすると、垢抜けた私が鏡にうつった。
「いかがですか?」
「……とってもステキです」
施術が終わってケープを外すと、頭は華やかなのに地味な服がどうにも合ってないように思えた。
「服も、買いに行こうかな」
「いいですね」
そうして私は、四十歳にして初めておしゃれというものに接した。自分ではセンスが皆無だと知っているので、ショップの店員さんにアドバイスしてもらう。
通りを歩き、足元に目をやるとローヒールのパンプスが艶々としていた。靴っていいな。メイクも洋服も心踊るけれど、私は靴が好きかもしれない。いろいろ揃えてみようか。パンプスにサンダル、スニーカーやブーツ。貯蓄だけはある。
いつもは下を向いて歩くおしゃれな並木道を堂々と歩いてみた。新鮮だ。前を向いて歩くとこうも景色が違うのか。そこで一軒のお店に目が止まった。アンティークな店構えで、看板には革靴の絵が描いてあった。
◇
金色のドアノブをひねると、開けた扉の先から革の匂いがした。落ち着いた調度品に静かなBGM。品のある室内に見惚れて、私は店の中へと足を踏み入れる。壁に備えられた棚には靴が並んでいるものの、その数は少ない。中央にはテーブルがあって、革の見本や、足の形をした木の模型が並べられていた。
「いらっしゃいませ」
声をかけられて顔をあげる。そこには髪を後ろに流した壮年の男性が立っていた。パリッとした白いシャツの上に黒いエプロン。深い紺色のスラックスからのぞくピカピカの革靴に、思わず目が惹かれた。
「ここはオーダーメイドシューズの店なんですよ」
この人が履いている靴、とてもかっこいい。似合っているし、丁寧に扱っているのがよく分かる。いつも磨いているのだろうか。靴へ時間をかけるということがすごく贅沢なものに思えた。
オーダーメイドということは、自分のために作られる、たったひとつの靴だ。ここはそれを作るお店なのか。
「女性ものも、できますか?」
「ええ。もちろんです」
そう言って笑った目の前の人は、目尻のしわを深くした。少し年上だろうか。エプロンに付いているシックなネームプレートには金色の文字で「月野」と書いてあった。
聞くとオーダーシューズは出来あがるまでに時間がかかるらしい。打ち合わせとサイズ測定のために明日改めて予約をすると、私は店をあとにした。少しだけドキドキする。なにか悪いことをしているような気分だ。その日の夜は、久しぶりに星がのぞいていた。
次の日、朝起きると身支度をしっかりして家を出る。以前から気になっていたスイーツ店に入り、焼き菓子をいくつか買って包装してもらった。予約もなしに行ってしまった昨日の美容室に立ち寄ると、再度お礼を言ってお菓子を渡した。
「今朝、自分でやってみたんです。おかしくないですか」
「ばっちりですよ」
明るい笑顔で後押ししてもらい、オーダーシューズのお店の前まで来た。ドアを開ける時は昨日よりも緊張する。私の見た目、変じゃないかしら。いえ、きっと大丈夫。パンプスだってピカピカだし。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、牧田様」
にこりと笑って私を迎える月野さん。私の名前は昨日のうちに用紙に記入していた。それでもすらりと名前を呼ばれると、どこか落ち着かない。「こちらへどうぞ」とテーブルに案内され、まずはヒアリングを行うことになった。どういう靴を作りたいのかを具現化していく作業だ。サンプルを見せてもらって靴の形や革の種類、ヒールの高さを考えていく。完成形を頭の中で想像して楽しくなった。
おおまかな形や素材を選ぶと、次は足の測定だ。でもその前にフットバスというものをやった。専用の部屋には立派なリクライニングチェア、その足元には足湯ができる機械があって、それはもう気持ちがいい。大量の気泡が足裏を刺激して、体中がぽかぽかになった。あまりの気持ちよさにうとうとしてしまうくらいだ。月野さんがタオルで丁寧に足を拭いたあと、マッサージまでしてくれたのだけど、これがけっこう恥ずかしい。
柔らかなタオルで足を包みながら、月野さんが言う。
「……足の形が、とてもきれいですね」
熱心に見つめられると身体中の熱が増す。引っ込めるように足を引くと、柔らかく捉えられた。月野さんの指先が足の甲を撫でる。
「指の長さ、爪の形、肉の厚さ」
なんだかとても恥ずかしい事をされている気がしてきた。たかだか足なのに、大切なところを暴かれているような。もし母が生きていたら、とんでもない男だと罵ったかもしれない。
月野さんのその視線はまるで大事なものを慈しむようだ。どうしよう、年甲斐もなく胸がドキドキしてくる。だけどしばらくして月野さんの表情が曇った。
「ただ、今日履いてらっしゃるパンプスはあまりフィットしていないようだ。既製品の靴では仕方のないことですが、できるだけ早くあなたの靴を完成させたい」
◇
「コーヒーはお好きですか」
「はい」
ほどなくしてテーブルに湯気のたつカップが置かれた。靴が出来上がったと連絡を受けて引き取りに来たところ、丁寧にもてなされている。ドリップしたコーヒーのほどよい苦みが心地よい。子供の頃にはわからなかったおいしさだ。
私の足元には店のロゴが入った上等の紙袋がある。その中には私の為に作られた靴が入っていた。手掛けたのは彼だ。このお店のホームページを調べたところ、月野さんはイギリスの老舗で靴職人として実績を磨いたと書いてあった。素直にすごいと感心してしまう。
彼は姿勢よく座っている。店の制服は相変わらずパリッとノリがきいていて、飴色の革靴は汚れひとつなく磨き抜かれている。素敵だ。落ち着かなくてそわそわしてしまう。
「牧田様はどうして靴を作ろうかと思ったのですか」
月野さんが優しい声音で私に問う。オーダーシューズは安くない。気軽に買うような代物ではないのに、私のようなパッとしない女がどうしてと思っているのかもしれない。
「……ひとりで立ってみたいと思ったんです」
ひとりの人間としてしっかり生きたい。自分の意思で先を見据え、道を歩みたい。母と二人で生きていた時、窮屈にも感じた愛情は、確かに私を守ってくれていた。それがなくなった今、自由とはこんなに心許ないものだったのかと不安になるけれど、それでも自分だけの人生を、自分のために生きたいと思っている。
「その決意表明、みたいなもので」
言ってしまって恥ずかしくなった。
「すみません、答えになってないですよね」
「いいえ。素敵だと思いますよ」
笑って目を細めた彼。その表情にまた身体が熱くなってくる。ダメだ、どんどん彼を意識してしまう。あまり下手なことを言わないうちに退散しようと立ち上がった。しっかり礼を言ってから店を出る。もしかしたらもう会わないかもしれない。でも引くなら今だという己の直感を信じた。
扉に手をかけ、身体が半分外に出たところで、月野さんに呼び止められた。
「今度、食事にお誘いしても?」
「へっ」
一瞬言われた意味がわからなかった。ご飯のお誘いって、二人でどこかへ出かけるってこと? どうして?
「ふふ、耳が赤いですよ」
「あ、あんまりからかわないでください……!」
営業トークなのだろうか。あわよくば二足目を作らせようとか。私なんかにデートのような誘いをするなんて、それ以外考えられない。
「お誘いしたいのは本当ですよ。ただ、自分で言うのもなんですが、私はあまり品行がよろしくない。こんな悪い男に引っかかってほしくないとも思っています」
ふっと笑ったその顔はとても色っぽくて、危険だった。どうして、と疑問に思うのと別に、魅力的な誘惑が私を手招く。ううん、触れてはだめだ。きっとヤケドじゃすまない。そうだとわかっているのに——
「羽化したばかりの蝶はひときわ美しく、無防備だ。惹かれてやって来た蜘蛛に捕まらないうちに、どうか逃げて」
口ではそう言いつつ、彼の黒い瞳は私をとらえて離さなかった。すぐに逃げることができなかった私は、もう、蜘蛛の糸に捕われているのかもしれない。