第8話
翌朝、ボリスはラキムとジャバルに見送られて昨日と同じ教室に来ていた。
教壇にワレリーこそまだいないけれど、ほとんどの座席に既に生徒が着いている。どこから来たのかだとか、合格の順位はいくつだったのかとか、得意な魔法、不得意な魔法、名前、年齢などの雑談が飛び交っていた。しかしドアを開けて入ってきたのがラキム達であるとわかると、水を打ったように静まり返る。
この雰囲気がボリスは大の苦手だった。そして空白のままの自分の席に座る。いや、ジャバルによって座らせられた。
「また迎えに来る。一色だけでも、自分で考えておくといい」
昨日の服の購入についてだろう。ボリスは曖昧に頷いた。そんなことよりも、ここから逃げ出したくて仕方がない。
ラキムとジャバルに救いの目を向けるも、ジャバルはそんな顔してんじゃねえとばかりに一睨をくれるだけだった。
しかし、ラキムには届いたらしかった。
踵を返そうとした彼は一度ボリスに向き直って──
「ひぇっ……!」
なんとボリスの頬に触れるだけのキスをした。
貴族では挨拶程度のものなのかもしれないけれど、人との触れ合いなどほとんどなかったボリスには衝撃的な行為だった。
顔を覗き込んできて微笑むラキムの顔から目が離せない。
「心配するな。私が推した特待生なのだ。堂々としたまえ」
そう言い添えて、今度こそ部屋を出て行ってしまう。
ふたりが閉じたドアは、重苦しい空気を教室に残した。固まったままのボリスは、キスされた頬に触れる。
汚れてなかったかしら。
顔を洗ったかしら。朝食のあとにも顔を洗っておくべきだった。
なあんて的外れでどうでもいいことをくよくよと後悔してみる。それよりも、どうしてラキムはキスをしてくれたのか、という疑問が浮かんでは弾ける。彼の行為はいつも混乱を招く。
「なあんだ、ただの色仕掛けか」
とは、誰が言ったのか。
女性の声だった気がするが、ボリスは声の持ち主に視線を向けることができなかった。
ぴしりと空気が冷え固まる。
自分の左後ろから声が聞こえてきた。
「試験もなし、5日間の補習もしてこないで、いきなり入学なんておかしいと思った。それに『私は魔法なんて使えません』だなんて変な話。入学式なんてラキム様とジャバル様にエスコートされてさ。そうやって迷子の小兎ちゃんみたいな顔してればいいと企んでるんでしょ。したたかな女」
「やめなよ。仮にも特待生だよ」
と、誰かが発言を諌めるも、不満の噴出は止まらないらしい。
「だってさぁ! 皆もムカつかない!? あたし達さ、この学校に入るために遊ぶのも我慢して、寝るのも我慢して、ずっと、ずーーーっと努力してきたじゃん!? なのにさぁ、こういうふうに顔と体だけのコネで入ってくる奴がいたらさぁ、あたし達の努力ってなんだったのって思わない!? 魔法も思うように使えないんじゃあさ、ただの娼婦と同じだよ!? それがあたし達よりも優遇されるって、どういうこと!?」
ボリスはただ俯いていた。
ここにいる自分以外の全員が、どれほどの努力をしてきたのか、ボリスはまったくわからなかった。魔法を使うという概念すらボリスにはわからないから、さらにその力を高める苦労が余計に想像出来ない。
けれど、とんでもない倍率を勝ち抜いてきた人達であるとは知っている。
そして自分がなんの努力もしていないとも、知っている。
だから、恥ずかしくて堪らない。
彼女の言い分が、なにもかも、一縷の望みさえ持つのも許されないほどに正しいからだ。
わかっているのだ、自分がここにいるに相応しくないと。なのに、帰らせてくれとも言えずに今日もこの席に着いている。
戻らなくてはならない。
出来損ないには、出来損ないの生き方と生きる場所があるのだ。こんな輝かしい場所は、目が眩んで立ちどころに転んでしまう。
逃げよう。
そして母に縋って頼むの。
なんでもするから、家にいさせて。どんな家事でもどんな仕事でもするから、あのベッドと籠だけの小さな部屋にいさせて。
あの陽の入らない部屋で。短くなった蝋燭の光で本が読めれば幸せだったじゃない。
なんで私、ここにいるのかしら。
こんなに努力した人に囲まれて、なんの努力もしていないゴミが、どうしてこんなところにいるのかしら。
ゴミはゴミ箱にいないと。
ボリスは自然と立ち上がって、のろのろとドアに向かって歩いた。
「えっ」
と、言葉に詰まったのは生徒のうち、誰だったのだろう。泣くか、言い返してくるか、そのどちらかを予想していたのかもしれないけれど、自分にはそんな価値もないと知っているからボリスはただ歩いた。
ドアを開けて、伸びた廊下を進む。
俯いてばかりで、ラキムやジャバルの背を追っていただけだから、どこを歩けば外に出られるのかもあやふやだった。どうにかして外に出ると、ボリスはどうしようもなく、ひとりになりたい衝動に駆られた。
自分が、あれだけの努力を重ねてきた人達と共に過ごしたたった2日さえ、申し訳なくて堪らない。恥ずかしい。
とぼとぼと歩いて、学校の出口を探す。
出口なんてあるのかしら。
そう思うほどに、学校は広い。
とぼとぼ。
とぼとぼ。
そうして迷って、空を見上げた。飛べることが出来たなら、こんな迷路も一瞬にして抜け出せるのに。
また歩き出す。とぼとぼ。とぼとぼ。
どのくらい、さまよい歩いていただろうか。
「あれー? 特待生の子じゃん?」
それは見知らぬ男子生徒の声だった。