第4話
「ワレリーには注意を払う必要がある」
中庭のガゼボに着くや、ラキムはそう言って腕を組んだ。どうやら怒っているらしい。ああ、また自分は間違えて人を怒らせてしまった。指示も間違えて人の手を握ってしまうし。ワレリーは手が腐ると思い、今頃何度も手を洗っているかもしれない。それもこれもすべて、自分が馬鹿で無能でなにも出来ないから。
ボリスは俯いて謝ろうとしたが、ラキムが察したようだった。
「叱責しているのではない。ボリスはもっと……なんというか」
「可愛いのを自覚しろ、ってことだろ?」
「そう──いや違う」
ジャバルの横槍に頷きかけて、ラキムは首を振った。ジャバルは大仰に驚いたふりをしてみせた。
「違うのか?」
「違わない。いや、そんな下世話な表現ではなくてだな……。とにかくジャバルは少し黙っててくれ」
「はいよー」
言って、ジャバルは緑豊かな葉が生い茂る木に寄り掛かってしまった。背も高くて、肩幅も広い彼はそれだけで絵画のようだった。
──秀でている人は羨ましい。
ボリスはジャバルから目を逸らした。腹の奥にどっぷりと溜まった劣等感に内側から呑み込まれてしまいそうだった。
ラキムは言う。
「女性はもっと警戒心を持たなくてはならない。女性というだけで狙ってくる輩は残念ながら多い」
もっと。
それはボリスがずっと言われ続けてきた言葉だった。もっと、うまくできないのか。もっと、役に立てないのか。もっと。もっと。
やっぱり、人より劣っているんだ。
こんなふうに新しくて綺麗な制服を着たところで、中身がなにか変わるわけではない。結局自分は、ドジでマヌケで落ちこぼれのボリスのままだ。
「ごめんなさい」
膝の上に置かれた手に視線を落とす。すると自然と声色も落ち込んだ。
世界が重い。
私が生きていくには、世界は有能にすぎる。無能は淘汰されて、生きづらい。なんで、こんなになにもできないのかしら。なにかひとつでも特技があればいいのに。
「……謝罪が欲しいのではない。そんな、傷だらけみたいな顔をしないでくれ」
言われて、顔に触れる。怪我などしていないはずなのだが、と思っていると、頬を包まれた。
「ボリスの心は、少し傷が深いようだ。私が治すよ」
治すものなんてない。私の心はただ臆病で、使い物にならないだけなのだから。傷なんてない。傷付けられるほどの形状を保った心なんて持っていなかった。
ラキムは気を取り直して、柔和に微笑んだ。
「とにかく、まずは魔力の流れを教える。手を握ってくれ」
言われて、先のワレリーとのやりとりを思い出した。同じミスは繰り返してはならない。ボリスはさっと胸の前で自分の手を握ってみせる。
「違う。私の手だ」
そして、ラキムはボリスが握り合っている手を取って、それぞれの手を握った。
ワレリーの手とは違う、大きくて力強い手だ。ワレリーはどちらかというとボリスに似て細長く、滑らかだったが、ラキムは大きくて固くて、包まれてしまいそうな強さがある。
熱いのに冷たいような気もして、ボリスは戸惑った。
「目を閉じて、体の中を流れるものを想像するんだ」
言われたとおり、瞑目した。
瞼の裏に視界の残像が見える。暗い中でも薄明かりが見えるのは太陽の光がなせる技なのか。
いや、違う。
その明かりはさらさらと音を立てて流れていた。小川が曲がりくねって下流へと動くように、さら、さら、と。
そしてその流れが早くなっていく。水の粒子が見えていたのに、もう目で見えないくらいに右から左へと流れ続けている。
これが魔力の流れなのだろうか。この明かりが。しかし、ではこれは誰のものなのだ?
手で繋がるラキムの魔力なのだろう。体の中の奥のほうでなにかが蠢いている気がする。掌の奥のほう。腕の奥のほう。胸の中。胃の中。
気分が悪くなって、ボリスは咄嗟に手を振り払うようにして立ち上がってしまった。
急な直立に血流が耐えられず、目眩がする。それを肩を支えて抱き留めたのはジャバルで、手を引いてくれたのはラキムだった。
「す、すみません。目が回りそうになって……」
うっ、と喉を逆流してきたものを飲み込んで胃に押し戻す。
「すまない。魔力を流し過ぎたようだ」
「いえ……」
その場に蹲ってしまいたくなる。気持ち悪い。
「こりゃ駄目だな。部屋に運ぶか」
「医務室に行こう。ひとりで寝かせておくのも心配だ」
そんな大袈裟なものではない。放っておいてくれれば、すぐに治る。ベッドで横になっていれば、ひとりでもどうにかなる。
というか、こんな自分に時間と手間をかけてもらえるほどの価値を見い出せなかった。そこまでしてもらったら、バチが当たりそうだ。
だからボリスはラキムの胸を押し返した。
「だ、大丈夫です。ひとりで部屋に戻れますし、眠れば治りま──」
「違う。私が心配なのだ」
ラキムはボリスの両手を握り締めながら、顔を覗き込むようにして言った。
その言葉が力強くて、迷いがなくて、真っ直ぐだったから、ボリスは泣きそうになってしまった。
優しい人なのだ。
こんな自分にも目を掛けてくれる優しい人。この人でなければ、きっとこの場に投げ捨てられていたに違いない。普通の人なら、自分のことなど見向きもしないに決まってる。
「いいから。とにかく来なさい」
そうして抱きかかえられてしまう。ジャバルもなにかを言いたげな顔をしていたけれど、口を噤むことにしたらしかった。
ボリスはなるべくラキムの負担にならぬように体を固めて動かずにいた。そんなことなど気にも掛からないとばかりラキムが簡単に歩いていくから、ボリスはとにかく驚いてしまった。
こんなことが二度とないようにしないと。
いつかこの人も私が役立たずだと知って背を向ける。
ボリスはそう思った。