第3話
ひっくり返るかと思った。教室というから地元の学校をイメージしていた。小ぢんまりとした部屋に20人くらいがいるくらいだろうと甘く考えていたら、大きくて広い階段教室に100人はいるではないか。教壇には教師と思しき男性も既に立っている。
しかも教壇横の入口をどかーん、とジャバルが開けたから3人に視線が集まっていた。
(ジャバルさんーーーーー!!)
せめて淑やかに開けていただきたい。ひっそりと入室くらいさせて欲しいのに逆に目立とうとするとはどういうことなのか。
100人の迫力に圧倒されて、ボリスは踵を返して逃げようとした。
当然、ジャバルには首根っこを掴まれ、ラキムには抱き止められてしまう。
「むむむむむむ、無理無理! む、無理です……!!」
小声で訴えるけれど、ジャバルに口を塞がれて無とされた。
ラキムが教師に言う。
「私が推した特別枠のボリスだ。まだ力について自覚がない。基礎から頼む」
「承知致しました。ではボリスさん、どうぞ席へ」
ちらりと教室を見ると、ど真ん中にひとつだけ席が空いていた。
(せめて端であれ)
そんな祈りは見事に玉砕し、ふたりによって、どかっ、と座らせられる。
そんな馬鹿な──。
「じゃあ、迎えにくっから!」
と、ジャバル。
「またあとで会いに来る」
と、ラキム。去り際に頭を撫でて、そのままの指で頬を撫でられて、手が離れていく。
ラキムが僅かに微笑んでいた。
ひとりにしないで、行かないで、と追い縋りたかったけれど、ふたりは出て行ってしまう。扉を閉める直前にラキムが再度ボリスを見て手を上げてくれたので、会釈をして応えた。
ぱたん、と閉じる扉。
しーん、と静まり返る教室。
待たせたことで皆が怒っているのかもしれない。迷惑を掛けましたと謝るべきなのだろうか。それとも自己紹介をしなければならないとか?
ボリスはぐるぐると思考が渦巻いて目が回りそうだった。
教師が言った。
「1学年を担当するワレリーといいます。僕が全魔法の基礎を教えます。2学年からは専門毎に教師が変わり深い内容を学び、3学年からは自分の属性に合った魔法をより伸ばしていく。この学校はそんな3年制です。グループに分かれて実践してもらう以外は、ここにいる全員が一様に学びますので単独行動は慎むように」
ワレリーはまだ若く見えた。どんなに高く見積もっても20代前半で、背は高く、どちらかというと華奢だ。濃い紫色の三つ揃いを着て、縁のない眼鏡を掛けている。シルバーの髪を分けていて、吊り目気味だ。
「超難関の入学試験を突破してきた皆さんですので、自分の得手不得手、力量は既にご存知かと思います。2学年までにすべての種類の魔法を一定レベルにすることを目標とします。……あー、ボリスさんは入学試験は受けましたか?」
話を振られて、顔を上げた。前列に座っていた全員がボリスを向いた。服の擦れる音が一斉だった。
「い、いえ、試験は、ありませんでした……」
「では、補習は受けましたか? 合格ラインぎりぎりだった人には5日間の補習がありましたが」
「い、いえ……」
「そうですか。では、いきなりですが習熟度を見たいので魔法を使ってみてください」
「……えっ」
ワレリーはさも当然といった顔だった。しばらくボリスが反応しないでいると、小首を傾げる。
「あー、なにが苦手か、まだ自覚がない? 得意なものがよくわからない? 力の調節とか、それとも、発動そのものが苦手?」
「えっ……。い、いえ、魔法は使ったことないです……そんなの、私なんか、出来ません。出来るはずないです……」
言うと、教室がどよめいた。それもそのはずだ。この魔法学校になぜ魔法が使えない人間がいるのかと皆が疑問に思うのは当然だった。
ワレリーはぽかんとした顔で瞬きを何度か繰り返した。
「……え? だって、さっき入学式のときに──」
言い掛けたところで、ぱっと表情が明るくなった。自分で自分の考えに納得するみたいに小さく何度も頷く。
「自覚がないって、そういう……。あー、はい、わかりました。『自覚がない』のレベルがそこなのですね。理解しました。しかし、それは困りましたね。では、ボリスさんは今日から毎日、放課後に補習をしましょう」
「あ、は、はい」
やっぱり、自分は落ちこぼれなんだ。この教室の中で一番駄目な奴なんだ。当然だし理解もしていたけれど改めて言われるとボリスは悲しくなって俯いた。自分みたいな無能者がこんなエリート達に混ざっているなんて、恥ずかしくて逃げ出してしまいたい。
「ではひとりずつ前に立って自己紹介していただきます」
その言葉だけで気絶しそうだった。
◇◆◇◆◇◆
皆が教室を出るのを見送ると、ボリスはどっと力が抜けた。
自己紹介を誰にも目を合わせず俯き、名前だけを言うことで乗り切ったあと、はきはきと喋る皆に呆然として最後まで誰の名前も覚えられずに終わった。
初日は早めに切り上げて解散ということになり、本格的な授業は明日からだ。まずは指定された教科書を発掘するところから始めなければならない。
「ボリスさん」
残っているワレリーに呼ばれて、壇上に向かった。
「単刀直入に言います。ボリスさんは魔法が使えます」
そんな嘘をついて嫌がらせしようとしなくていいのに。自分がなにも出来ない人間なのは知っている。だからひっそりと両親が営むアパートの掃除をしてお小遣いをなんとか貰っていたのだから。
「信じられない様子ですね。……ここまで無自覚であると、もはや才能としか言いようがないですが。とにかく目で見てみましょう。まずは僕から」
そう言って、優しく開いた掌にはきらきらと光る花があった。透明で、氷で出来ている。黒の手袋をしているから、黒の薔薇にも見えた。
「見ていてください」
言われたとおり、花を凝視する。するといったん砕けて水滴になり、手袋に染み込んでいってしまう。けれどまたすぐに水滴が浮いてきて、今度は校章の形に凍った。
「これが水魔法です。好きなように水を操れます」
「は、はい」
「僕は頭の中で魔法を発動する呪文を唱えています。だから想像通りに水が動かせます。ボリスさんも、なにか頭で思い描いて、その通りになったことはありませんか」
まったくありません。
しかし、ぴしゃりと否定するのはなんだか気が引けて、曖昧に首を傾げた。
「そうですか。では僕がボリスさんの魔法を引き出してみましょう。手をこうしてください」
ワレリーは自分の胸の前くらいの高さに両手を上げてみせた。降参と言っているみたいだ。真似をする。
「では、そのまま握ってください」
「は、はい」
ボリスは言われたとおり、ワレリーの手に手を合わせてそのままそっと握った。
だがワレリーがなんの反応も示さないので、あ、握り方が違うのかしらと指と指を絡ませる握り方をした。
しかしまだ反応がない。
弱すぎるかしらと、ぎゅっと握ったところでワレリーが笑い出した。
「ふふっ!」
控えめに笑ってくれたけれど、ボリスは焦った。また間違えたかしら、なにが違うのかしらと握り合っている手とワレリーを見比べる。
顔を引き締めて、ワレリーが咳払いする。
「いや、失礼しました。僕の言い方が悪かったです。自分の胸の前で自分の手を握ってください。こう、神に祈るみたいなイメージです」
「あ……」
そっち?
ボリスは自分の間違いに気付くと顔から火が出るくらいに赤面した。
「す、すみません……不愉快にさせてしまって……気持ち悪かったですよね……」
「いえ、可愛らしい人だなと思っただけです。ラキム殿下が推す理由がわかりました。ふふふ」
にぎにぎ、とわざとらしく握り返してくるのは、どうやらワレリーの悪戯心に火が付いたからのようだ。自分から握ってしまっただけに、やめてくださいとも言えない。けれど、とても恥ずかしい。
にぎにぎ。にぎにぎ。
(あー……私って本当に駄目な奴……。恥ずかしい……きっと呆れられてるんだろうなあ……あーー、これ以上、恥を晒す前にこのまま死んじゃいたい……)
そう思うのと同時に、吐く息が白くなった。
顔を上げるとワレリーの目が大きく見開かれている。
なんだろうと思って視線を辿ると、大きな氷の花が浮いていた。階段教室の天井に浮かぶそれは、まるで氷で出来たシャンデリアみたいに巨大で、温度差による白い靄がベールのように漂っている。
「これは、凄いですね。魔法を使った自覚はありますか」
「い、いえ……これは、私がやったんじゃないです……。私、なにもしてません」
「……なるほど、無自覚でこの魔力ですか。はい、理解しました。とにかく、これはボリスさんの魔法です。魔法学校へ入学、おめでとうございます。これから僕がちゃんと教えていきますので、安心してください。魔法が使えることはわかりましたので、続きは明日にしましょう。根を詰めても仕方ありませんから」
「は、はい……」
ちらり、とシャンデリアを見上げる。
(これを、私が……?)
ちょっと信じられない。そう思っていると──
「なにしてる?」
ラキムがやってきた。
いつの間にドアを開けていたのか、ジャバルとラキムはふたり並んで立っていた。
ワレリーが微笑みながら返す。
「補習です。今日は終わりました。なかなかの逸材を見つけてこられておいでですね」
「そうではない。
その手は、なんだと聞いている」
黒目だけでぎろりと睨んでくるラキム。
ボリスははっとして、まだ握ったままの両手に気が付いた。ぱっと手を離す。
「ごごごごごごごごめんなさい、これは、その、私が先生の指示を勘違いしてしまいまして」
「ワレリーで構いませんよ」
「あ、は、はい」
ふたりの会話に割ってはいってくるように、ラキムは言った。
「明日からの補習はふたりきりにならないようにしたまえ」
しかしワレリーは微笑みながら、顎を撫でてみせる。
「それは難しいですね。他の生徒を無理矢理、居残りさせるわけにもいきませんし、殿下は多忙の身、ジャバルは殿下に仕えていますし。僕とふたりで問題ありませんよね?」
笑顔で顔を覗き込まれた。
「は、はい。大丈夫です」
「ほら」
ワレリーが言うと、ラキムは気に入らないとばかりに腕を組んで眉根を寄せた。
「ならば、今後一切の身体接触を禁ずる」
「それも難しいですねえ。魔力を使っている自覚がないのですから、魔力の流れを感じてもらうことから始めなければなりません。そのためには、少なからず身体接触を要しますし」
「それは私が明日までにボリスに教える。現在時をもってワレリーとボリスの身体接触は禁止。以上だ」
「殿下が直々に享受するとは驚きですねえ。しかし、はい、承知しました。ではボリスさん、また明日。ごきげんよう」
胸に手を添えて恭しく礼を執るワレリーに、ボリスも頭を下げる。終始、くすくすと笑っているワレリーとラキムは旧知の仲のように見えた。
「あ、あ、ありがとうございました」
ラキムとジャバルに連れられて教室を出る間際、なんとか勇気を出してワレリーに言った。ワレリーは優しげに笑いながら、両手を降参のように胸の高さに上げて、さっきと同じく指をにぎにぎと曲げてみせた。
先のあやまちが蘇ってきて赤面してしまう。けれど怒っている様子はなかったので、幾分か安心した。