最終話
言った。
ようやく言えた。
「よくやった、ボリス」
そっと頭を撫でてくれたのはラキムの大きな掌だった。見上げれば、ラキムは慈愛に満ちた視線を落としてくれている。
心地よい。
存在を無視されるでもなく、存在を認められても蔑まれるでなく、ボリスを見てくれる目は心から安心できた。
断ち切った。
少なくともボリスは、自分の力で糸を断ち切った。
「それで、その、本心か?」
「えっ?」
見ると、ラキムは顔を赤くして口元を手で隠してしまっている。視線を逸らして、床やら天井やらに彷徨わせていた。
「私といると幸せというのは、ボリスの本心なのか」
ボリスは驚いて立ち上がってしまった。
「ほ、本心です! 本当に決まってます! ラキムさんは、なんていうか、胸が温かくなるというか、その、えーと、なんていうのでしょう、温かいお風呂みたいというか……例えがおかしいですよね」
失礼な物言いになってしまった。しかしボリスにとってラキムがどんな存在であるかをどんな言葉を使ってみても伝えられそうにない。
「とにかく、ずっと温かいままでいたくなるというか……!」
「……わかるよ」
ふと、ラキムの手がボリスの頬を撫でた。くすぐったくなるほど、触れるか、触れないかの撫で方だった。
「私も、あたたかい」
ラキムは言って、視界から消えた。
いや、消えたのではなかった。膝を付いたのだった。いつもは自分がラキムを見上げるのに今はラキムから見上げられていて、その行為に気付くのが遅れた。
王子が自分に跪いている!
「ら、ら、ラキムさん、なにを──!」
「結婚してくれ」
ラキムはボリスの手を取って、言った。ボリスは驚いた。ラキムはさらに続けた。
「まだ一度も正式に言っていなかった。ボリス、私と結婚してくれないか。ボリスが怖がってしまいそうなところに立ち向かいたいと望むのなら、私はいつでも隣にいて背中を押す。落ち込んだときには壁越しではなく直接ボリスを抱き締めにいく。服に迷うなら私が何時間も一緒に考えるし、魔法がわからなくなったら私が何日だって教える。だから──」
一緒に生きていこう。
ラキムは言った。
傍を離れない、と。
ひとりになんてさせない、と。
なんと言えばいいのか。
こんなにもたくさんの嬉しい言葉を受け取って、どんな言葉で返せばいいのだろう。
「わ、わ、わ……」
これでは母に馬鹿にされていたのと同じだ。私もと、せめて言えたらいいのに。
早くしないと、と思うのに、ラキムはなにも言わずにじっと待っていてくれる。ずっと膝をつかせているのが忍びなくて、ボリスも同じように両膝をついた。
「わ、わ、私も! ラキムさんと、これからずっと、こんなふうに、あの、その、えっと、お、同じものを見ていきたいです!」
共に歩むと伝わったらしかった。
ラキムはぐいっとボリスを抱き寄せた。
それから婚約式が行われたが、入籍はボリスが卒業してからということになった。
◇◆◇◆◇◆
「ちょっとボリス! 早くしなよ! これから卒業式なのに!」
部屋の外から急かすのはフリオだ。フリオはボリスと常にペアを組むという有言実行を果たした。ふたりはどんな授業においても、どんな課題においても必ずペアであり、または同じグループで、互いの得手不得手を理解し、言うよりも前に補い合うほどの公認の仲になっていた。
ボリスは鏡の前でボタンを留めている。
「ま、待ってください! いつもと制服が違うから戸惑ってしまって……!」
「ブラジャーのホック? 留めてあげようかー?」
「違いますッ!!!!」
くつくつと笑う声がドア越しに聞こえた。
今日は卒業式だ。3年間の課程を修了し、それぞれの就職先へ旅立っていく。結局、ボリスの成績は2位に終わった。どう足掻いてもフリオを抜けなかったのだ。悔しいが、それでも自分が2位になれたことを誇りに思う。王妃との約束通り、城内に構えた保育園で働くことが決まっている。保育園の開園も1ヶ月後に迫っていた。フリオは就職先を教えてくれない。
「よし、出来ました!」
鏡を見る。
卒業式だから、鏡に映る自分はローブを纏った正装に包まれている。眼差しも、きゅっと結ばれた口角も、3年前とは打って変わって自信に満ち溢れている。私なんかが、とは思わない強さが備わっていた。
「ボリス、早く! 総代と副総代が行かなくてどうすんのさ!」
「はーい!」
けれど、もう一度鏡の中の自分を見る。胸に輝くのはラキムから貰った特待生である証の白の胸章。そしてもうひとつは、副総代を表す銀色の胸章だ。フリオの胸には同じデザインの金色のものが輝いている。
「ドアぶち破るまで5ー、4ー……」
「いま行きます!!」
背の伸びたフリオは正装がよく似合った。赤いアイラインは相変わらず彼の眼差しを妖しくしているけれど、魅力は衰え知らずだ。
ふたりはどちらともなく高速移動の魔法を発動した。途端に到着する広間の前。
静けさは、入学式の日と同じだった。
誰もいない、始まりの場所。
「……これでお別れなんですね」
しみじみとして言う。初めての友人であるフリオとの切磋琢磨の日々は掛け替えのないものだった。好きなものも嫌いなものも、得意なものも苦手なものも知り尽くした友人と会えなくなるのは寂しい。
しかしフリオはケロッとした顔で鼻を鳴らした。
「いつかは去らなくちゃいけないんだから」
「……そうですね。フリオさんはどこで働くのか、やはり教えてくださらないんですか?」
「教えなーい。選んだ仕事に文句言われたりすんの嫌だし」
ボリスは、フリオが決めたことに対して文句など言わないとわかっているくせに。
少しガッカリしながら、ふたりは扉を開けた。
全生徒が整列していた。
◇◆◇◆◇◆
「──ボリス、ちょっといいか?」
王妃との話し合い中に、ラキムが声を掛けてくることは珍しかった。
3日後に控えた開園のため、入園してくる子ども達のロッカーや靴箱に名前を掛けたり、遊び場に危険はないかの最終チェックが忙しい。テーブルや椅子でさえ角を作らず、丸みを帯びた作りにしているのだけれど、子ども達の目線ではなにが危ないか予想がつかないため、ボリスと王妃は繰り返し園内を歩き回ることが日課になっていた。その作業をいつもならばラキムは中断をさせないようにしてくれるのが常だ。急ぎの用だろうか。王妃に断りをいれ、駆け足でラキムのもとへ向かう。
「ラキムさん、どうかされました?」
「……ああ、非常に言いにくいんだが……」
顎を摘み、なにやら難しげな顔をするラキム。
もしぞやまたドレスの変更だろうか。結婚式のためにラキムが選んだドレスは70着にも及んだ。どれもボリスに似合うからひとつに決められないと、ジャバル、ワレリー、王妃、さらには王まで巻き込んでなんとか1着に決めたのだが、そこに至るまでには紆余曲折があった。公務で他国に行ったときに斬新なドレスを見つけると、これもいいのではないかと、せっかく狭めた選択肢をラキム自身が増やすのだ。皆に、いい加減にしろ、と宥められて落ち着いたはずだったのだが。
「伝えるのを失念していたのだが、保育園の開園日からボリス専属の護衛がつくことになる」
ドレスではなかったか。よかった。
護衛は予想の範疇だ。王子の妻となるのだし、毎日保育園で一般人である親たちと交流するのだから立場を考えれば護衛は必須。王妃にも3人の護衛がいる。もちろん、子ども達がくれば怖がらせないように配慮はするらしいが。
「そうでしたか」
「私が守ってやりたいところなのだが、仕事中はそうもいかない。ジャバルを兼任させてもよかったのだが」
「俺はあいにく、ラキム専属なんでな」
と、ひょっこり現れたのはジャバルだ。腕を組みながら壁に寄りかかっている。
「はい。大丈夫です。私も多少の攻撃魔法は覚えましたし、子ども達を守れるだけのシールド魔法も出来るようになりました。護衛の方と早く仲良くなれるように努力します」
「非常に不本意だ……。夫である私がボリスを守らずに他者に委ねるなんて。しかしボリスが働くのはボリスの望みであるし私の傍に四六時中いてもらうのは束縛が強すぎると嫌われてしまうかもしれないしそれは避けなければならない由々しき事態だし──」
「俺からボリスの護衛を紹介してやるよ。面接官は俺とラキム、王妃、王、ワレリー。応募者は多数だったが、満場一致でこいつに決まった」
こいつ、と親指で後方を指差したジャバル。その指の先を見ると、そこにいたのはフリオだった。軍服を着ているではないか。
「ふ、フリオさん!? なんでここに──し、就職先って私の護衛ですか!?」
「そうだけど」
「え、ええ!? だ、だってお別れなんですねって言ったら、いつかはねって言ってらしたじゃないですか!?」
「違うよ。いつかは去らないとねって言ったの。学校からは去らなくちゃいけないでしょー? 別にボリスとお別れなんて一言も言ってないけど」
「えぇ……」
言ってほしかったような、サプライズで嬉しいような、なんていうか。そういえば以前、必ずラキムと結婚しろと押されたことがあったが、もしかしてそのときからこのポストを狙っていたりしたのだろうか。だとしたら、フリオの頭の回転の速さには尊敬しかない。
そう思っていると、むにっ、とラキムに顔を挟まれた。
「私は不本意だった……! 好意を向けられたら、問答無用で攻撃魔法を発動させて自分を守るんだぞ」
「え、こ、好意……?」
「この男は危険なんだ! いや、ボリスが可愛すぎるから世の中は危険がいっぱいなんだ!!」
「なんなのこの王子」
フリオがジャバルに耳打ちすると、ジャバルは呆れたように顎をしゃくって見せた。
「あれだ。愛妻家。いや、溺愛ってやつ」
「あー……。ほらボリス。護衛が傍にいてあげるから、王子は公務に戻してあげないとね? 専属護衛だからね。死ぬまでずっと一緒だからね。王子は王子の仕事をしてもらわないとね」
「あ、それもそうですね」
「つーことで、行くぞラキム」
「待て! やはり、もうひとり護衛を!! 女性の騎士を!!」
ずるずるとジャバルに引きずられていくラキムを、ボリスは微笑ましく眺めて手を振った。
これから楽しくなりそうだった。
いや、楽しい。
おしまい




