第26話
自分でも大胆な要望をした自覚はあった。
まさかこれから開こうとしている王妃の保育園で働きたいだなんて。
城で働きたいと思う人は多い。きっとたくさんの働き手の応募があるはずなのに、婚約者になろうとする自分がそこで働きたいと言うのは人脈を使ったずるさなのではないかとも思う。それこそ、優秀な人材が集まるはずなのだから。
だからボリスは10位以内を条件とした。
実力が伴わなれば、誰も納得してくれない。
本当ならば3位以内と打ち出したかったのだけれど、そこはまだ弱気なボリスが邪魔をした。しかし、ボリス本人としては3位以内を目指して努力する。
そんなボリスも、早速膝を震わせていた。
ラキムとの登城だ。
大きな大きな王城を見上げて固唾を呑む。
「我が家を案内する」
そうラキムは軽く言う。確かにラキムにとってみれば心も落ち着く実家なのだろうけれど、ボリスにしてみれば神に近い存在なのだ。城の威風堂々とした佇まいは、足が竦むくらいの器の小さな人間ならば即刻立ち去れと言わんゼウスの肉体そのものにさえ見える。巨大ななにかに見下される気分は、自分の人生の良し悪しを判断されているようでそわそわする。
「すぐ慣れる」
と、ジャバルは背中を押してくれるけれど、慣れるとかそういう話ではない。
ボリスは半ばジャバルに押され、ラキムに引かれる形で城に踏み込んだ。
でかい。
広過ぎる。廊下だけで何世帯が暮らせるだろうか。天井はやけに高く、さらにはきっと有名な画家に描かせたのだろう絵画が天井を覆っている。宝石並みに輝くシャンデリア。なんだか高そうな壺。どこを切り取って見てもボリスの人生にはなかったひと場面だ。
「ここが謁見の間だ。母も既に待っている」
「えっ、も、もう!?」
もう?
とは、既に王妃が待っていることの驚きと、気持ちの整理をつける前に国王陛下との謁見なのかのどちらの意味も内包していたが、ラキムは前者の意味しか汲み取ってくれなかった。
「母は楽しみにしていたらしいから、気にしなくて構わない」
「は、はあ……」
「んじゃ、俺はここまでだ。じゃァな」
ジャバルは軽く言って、廊下に残る。その間にラキムは勝手にドアをノックして開けてしまうし、ボリスは謁見室に引きずり込まれてしまった。
王妃と一度でも顔を合わせておいてよかった。そうでなければ玉座につく国王の目の威圧に負けて逃げ帰っていただろう。隻眼の国王は年齢を感じさせない肉体と眼差しでボリスを威嚇し続けている。隣でにこにこと笑う王妃がなんとかバランスを保ってくれている。
「は、はじめまして。ぼ、ボリスと申します」
ラキムから教わった型式通りの挨拶をしてみせるも、国王は眉ひとつ動かさない。護衛に裏切られて正面から切り掛かられたとされる左目を横断する傷を、ボリスは直視できなかった。顔は細いのに、体の内側から迫力が滲み出ている。
「あらあらボリスちゃん、少し痩せたんじゃない? いやだ、もう。ドレスのお直し間に合うかしら? この前に会ったときの体型でドレスを作ってもらっちゃったものだから。あ、今からたくさんご飯食べればお腹も膨れるかしら?」
ドレス。食事。この人達と?
無理だ。水の一滴も喉を通らない。
「ねえ、ダーリン。どう? 可愛い子でしょ? もう絵師を呼んでるし、婚約発表してもいいでしょ?」
「む」
むん、と小さく頷いただけで国王はなにも言わなかった。
(そ、そんなに簡単でいいの……? 王子の婚約なのに……)
そんなボリスの心境を察したのか、王妃がにっこりと微笑んだ。こうなることはわかっていたみたいな表情だ。
「あのね、ボリスちゃん。わたくし達は息子をそれはもう厳しく育てたわ。王子なのだから、王子なのだからと。それはね、王子なのだからいつでも正しくいなさいということよ。立ち振る舞い、マナー、モラル、節度、知識、教養。すべて正しくいなさい。いつでも勉強しなさい。そして、それらをすべて活用して、いつでも正しく判断しなさいとも教えたわ。ラキムはわたくし達の自慢の息子になったわ。立派な王子よ。これ以上ない王子。どの国の王子にも負けない王子。まさに最の高。圧倒的最高。歴史上最高。最上級の最高のその果ての──」
「お母様」
ラキムに嗜められると、王妃はこほんと咳払いをして慈愛に満ちた眼差しをボリスに向ける。そして続けた。
「そのラキムが、あなたであると判断したの。わたくし達はラキムの判断になにも言うことはないのよ」
ボリスは圧倒された。
親から子への圧倒的な信頼を前にして、なんだか胸が熱くなった。泣きそうになってしまって、思わず唇を強く噛む。
羨ましいのだった。
親子という絆を目の当たりにして、自分には築けなかった太い糸を見せ付けられて、とてつもなく羨ましいのだ。
「とにかく、婚約発表と致しましょう。ね、ダーリン?」
「む」
すると国王は王妃を手招きした。国王の薄い唇に王妃が耳を寄せると、口元を手で隠した国王がごにょごにょとなにかを耳打ちした。
「ダーリンからの伝言よ。娘が出来て嬉しいって!」
自分がこの人達の家族の一員となって、同じような太い糸を紡げるのだろうかと不安になる。そして無理だと察する。自分は結局他人だ。ラキムの付き添い。おまけ。ラキムがいるから優しくしてもらえるだけ。自分にはラキムがいなければなんの価値も──。
「安心しました。そこで、ボリスからお母様にお願いがあるそうなのです」
促され、思い出した。
「は、はい。あの、城内に保育園を開くのが夢だとお聞きしました! あの、わ、私も保育園で働きたくて……! も、もちろん学校で勉強を頑張りますので、卒業するときに10位以内に入っていたら、保育園で、その、あの、えっと、や、や、や、雇っていたたけないでしょうか……!」
目をぱちくりとしたのは王妃だった。王は先までの迫力の矛をおさめて、ボリスの奥底を見透かしてやろうという細い眼差しを向けてくる。しかしその視線はけして、悪人に対するものではなかった。
初めて見た、そんな感じだ。
まるでこんな生き物は見たことがないというような、じっくりと観察する目。
王妃は頬を赤らめて拍手した。
「いい考えだわ! 魔法と子ども達! きっと色んな幅が広がるわね! 冬になったら庭を雪いっぱいにしてソリを楽しむでもいいし、スキー教室を開いてもいいし、スケートだって出来るし、そうそう夏には水遊び! トイレに失敗した子のお洋服だって衛生的に洗えてすぐに乾かせるだろうから自尊心も傷付けられないし、劇だって迫力満点のを見せてあげられる! きっと世界一の保育園になるわ! お城が子ども達の笑い声で包まれるわよ! ボリスちゃん、頑張って魔法を覚えてきて! わたくし、ひろーい、広い、特大サイズの保育園を作って待ってるから! 一緒に保育園を楽しくしていきましょう!」
待っている。
ボリスがその言葉にどれほどの歓喜を覚えたのか、きっと王妃は未来永劫知ることはないのだろう。誰にも待たれることのなかった家。帰る場所なんてなかったあの家。待ってくれる人のいなかった日々。
私を待つ人がいる。
じんわりと視界が滲むのを堪えて、やっとの思いで返事をした。
「はい!」
そして、ラキムに肩を抱かれる。しかしラキムの双眸はボリスではなく王に向けられていた。
いや、父に。
『どうだ』
と、なんだか誇り高そうな表情である。
「さ、じゃあ会食にしましょう! ご両親も呼んでるわよ!」
両親。
その言葉にボリスは青褪めた。さ、と血の気が引いた。
「……え……?」
いっきに悪夢の中に押し戻された気分だった。




