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第25話


 ラキムは瞬く間に戦意喪失して、慌ててボリスに駆け寄った。

 ユレンが魔物の類で、ぬらぬらと唾液に濡れた牙をちらつかせて嗤い、触手でボリスを絡め取ろうとしているように見える。ボリスの体に足元から巻き付く触手を、手当たり次第に引きちぎる。そんな気持ちだった。

 触手の隙間から現れたボリスの顔を包み、続いて細い肩を掴んでから、顔を覗き込む。


「入隊なんてよせ。私の隣にいる資格など、そのようなものは存在しない。ボリスはボリスのままでいい」

「……は、はい……」


 ボリスはまたボリスに戻ってくれていた。

 軍隊は拷問だ。日夜の訓練だけでなく、命を懸けて戦場に向かわねばならない。命を捨てろという命令にも寸分の躊躇いもなく従わなければならない。

 国を守って死ねば英雄。

 逃げ出せば裏切り者。仲間を助けられなければ仲間から殺される。


 そんなところにボリスをみすみす送るわけにはいかない。


 ラキムは早口で諭した。


「いいか、ボリス。誰かと一緒に生きていくのに、資格なんて不要だ。そんなもの、いらない。ユレンの言葉に惑わされるな。早く昼食を摂って、午後の授業に行こう」

「はい……」


 ラキムはもうボリスの視界にユレンが入り込まないように、ふたりの間に割って入って、ユレンをそのまま残して歩き始めた。ジャバルとフリオも続く気配がある。



「このユレンが迎えに来る──姫」



 背中越しに聞こえてくるユレンの台詞が甘ったるすぎて胸焼けする。

 毒を吐く気にもなれず、その場の離脱を優先した。




◇◇◇◆◆◆




 眠りに付けないのは久しぶりだった。ラキムは寝返りをうって、眠れないとわかると薄っすらと目を開けた。


 胸がうるさい。


 そのざわめきは、どうやら焦燥らしかった。サイドテーブルに乗せている、火を抑えたランプの灯りをなんとはなしに見つめる。


 なぜ、焦っているのだろう。


 理由は明らかで、昼間のやり取りからしてボリスが軍隊に入ってしまうのではないかと考えているからだ。でも、なぜ? ボリスの体を心配しているから。それは当然だ。軍隊は生易しい場所ではない。


 しかし、入隊がボリスの意思なら?


 国軍への入隊は、王子という立場を考えるなら大いに感謝し、受け入れ、むしろ率先して励むよう言うべきではないのか。ボリスの意思をねじ伏せてまで断念させようとするのは、ボリスの家族がしてきた仕打ちと同じ行為ではないのか。しかしユレンの口車には信頼出来ない部分もある。けれど本当に魔法の才能を開花させたら──。


 ラキムは途端にわからなくなってしまった。

 なにがボリスのためにいいのか、わからない。


 動かないでいることが苦痛になって体を起こすと、ベッドが軋んだ。


 自分が囲うのはよくない。それでは、鳥籠が変わっただけでボリスはいつまでも自由になれない。

 けれど、自分だけのボリスにしたい。

 あの小さな体を抱きしめたいし、小さな頭を撫でたいし、頬を包みたい。しかし、このまま婚約発表したとして、そのとき、ボリスは笑ってくれるのだろうか。


 こんこん──。


 と、ノックがされる。それは寝室の向こうのリビングのドアがノックされた微かな音だった。この時間、ジャバルが護衛のためにドアの前に立っているはずだ。そのジャバルがノックするわけはないし、ジャバルがノックするのを許してやる人物などひとりしかいない。

 ラキムは早足でドアを開けた。

 やはり、ボリスだった。

 ドアの前に立つジャバルはわざと護衛らしく振る舞っているのか、廊下へと視線向けてラキムを見ようとしない。あるいは気を使ってくれているのか。


「こ、こんな夜遅くに、す、すみません……」

「いい。どうした、悪夢を見たのか」

「い、いえ、そ、その」

「とにかく、入りたまえ」


 暗い部屋に招き入れ、ドアを閉めた。なんとなくジャバルに会話を聞かれるのは避けたくて、寝室へと促す。ふたりは並んでソファに腰を落ち着けた。



 ああ、きっと、入隊するから婚約は取り止めてくれと、そう言われるのだろう。


 母の勢いに任せての婚約予定ではあったが、いつの間にか、当然に婚約するものと思っていた。当然に、ボリスと生きていくのだろうと。たったの、この数日で。

 送り出してやらねばならない。自分はボリスの可能性を見出して連れてきたのではないか。ボリスの育ったあの環境に憤慨して、助けてやらねばと連れ出したのではないか。


 なにを迷う?


 ラキムはランプの火を大きくしながら顔を擦った。覚醒しているのに、随分と疲れを感じる。


「あ、あの、ラキム殿下……」

「敬称はいらない」

「は、はい。ら、ラキム、さん……あの、その、私、実はお願いが、ありまして」


 ほら、やはり。

 母になんて報告しようか。事情を説明すれば、時間は掛かるかもしれないけれど理解はしてくれるだろう。母もまた女性の活躍を夢見ている。


「ああ。なんでも言ってくれ」


 そう言うラキムの顔のなんて情けないことか。笑い掛けてやっているのに眉は下がって、本心はまるで違うことが見え見えだ。


 ボリスは膝の上でぎゅっと拳を作った。




「あ、あの! わ、私も、保育園で働かせてください!」




 ラキムは、言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。

 あれ?

 なんの話だ?

 ランプの火を見つめて、ランプの火によって浮かんだ自分達ふたりの影を眺めて、言葉をようやく脳に浸透させる。しかし、やはりわからない。


「……保育園?」

「は、はい! わ、私、や、やはり、ユレンさんの言う通り、なにもせずにラキムでん……ラキムさんの婚約者になるのは、あ、あまりにもおこがましい気がするのです。だ、だから、自分にもなにか出来るようになれないかと、なにか、助ける側になれないかと、たくさん、か、考えまして、そこで、王妃様が城内に保育園を開くのが夢だとお聞きしたのを思い出しまして……!」

「うん」


 頬を真っ赤にして、自分の考えをなんとか伝えようと奮闘するボリス。炎のゆらめきで輝くその目を見つめていると、ボリスの性格上、視線を逸したいはずなのに今は逸らさずにずっと目を見返してくる。


 その姿が、愛おしくて堪らなかった。


 だから、なにを言いたいのかわかったのに、わざとわからないふりをしてボリスの話に耳を傾け続けた。

 必死の姿が可愛い。


「わ、私、こ、子ども達と遊んだことはないのですけど、こ、公園とかで元気に遊んでいる子ども達の姿を見て、あ、あんなふうに純粋な心のまま大きく育って欲しいな、なんて考えていて、その、手助けになれればと……!」

「うん」

「あ、あの、だから、その、えっと、魔法で子ども達を楽しませてあげられると思うんです! でも、結果を出さないと、確かに皆さんが認めてくださらないと思うので、わ、私が卒業するときに成績10位以内に入っていたら、あの、その」

「うん」

「は、働いても、い、いいでしょうか……」


 最後のほうはラキムの表情を窺うような憂い気な上目だった。抱き締めてキスしたい衝動を抑えるのにひどく苦労した。にやつく口元を手で隠すのも顔を擦るついでにと見せ掛ける。


 なんなんだ、この可愛いボリスは。

 自覚がなくてこの可愛さは危険ではないだろうか。人攫いならぬボリス攫いが流行してもおかしくない。罪名に加えておくべきか。むしろ人間国宝に認定されてしまうのではないか。やはり近衛兵を雇うべきか。ふたり。いや、3人は必要か? しかし男を近くに置いておくのは気に食わない。女騎士を雇うか。いやいや、女騎士達の勇ましい姿を見て憧れを抱き、やはり軍への入隊をしようかと考え直されては困る。ならば信用のおける誰か。誰だろう。誰だ。


「だ、だめ、でしょうか……」


 ラキムははっとした。

 そうだ、まだ返事をしていなかった。


「駄目なはずがない。しかし、私はてっきり軍に入隊するのかと思っていた」


 ボリスはきょとんとした顔をした。それからやや考えて首を激しく振る。


「た、確かに嬉しいお誘いではありましたが……。私も助けてあげられる側になると言っていただけて、考えて、軍ではやりたいことが違うなと思いまして、だから、その、お断りするつもりなのです」


 なによりだ。


「そう。ところで、それはつまり私との婚約はそのまま発表ということで構わないのか?」

「えっ? あ、は、はい。もちろんで……はっ……! も、もしかして、ら、ラキムさん、やはりこんな私では嫌に──」

「ならない」


 ならないよ。

 なるわけない。


 そう繰り返すと、ボリスは心底安心したように嘆息ついた。その口元がほんの少し緩んで喜んでいるところを見て、ラキムの胸はどくんと大きく波打った。

 駄目だ、駄目。

 まだ気持ちを伝えていないのだから、不埒な真似はいけない。そんなことをしたら、無遠慮に体を触る下衆共と同じところまで堕ちてしまう。

 ラキムはなんとか理性を働かせた。


 先までの悩みはなんだったのか。ほっとすると、急に眠くなった。


「一緒に寝よう。ボリスといたい」

「あ、は、はい」


 緩やかにボリスの手を引いてベッドに潜る。柔らかなシーツの中でボリスを抱き締めると、胸いっぱいにボリスの香りが広がった。


 幸せだった。


 ボリスの髪が首筋を撫でる。


「……そういえば、私からも頼みがひとつある」

「は、はい。なんでしょうか」

「髪は自分で結んでくれ」

「?……は、はい」


 火が大きいままのランプはふたりの影をひとつにしていた。

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