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第21話


 フリオは悔しくて悔しくて堪らなかった。

 なにが悔しいのかもわからなかった。生まれ落ちた家か。産んだ母か、孕ませた父か。魔法学校こそ花形とする世間か。自分より目立つ落ちこぼれのボリスか。

 なにに対する憤怒かもわからぬまま、フリオは寮の私室で頭を抱えていた。


 ボリスさえいなくなればいいと思っていた。そうすれば自分は首席らしくチヤホヤされるのだろうし、首席らしく褒め称えられ、首席らしく王族に一目置いてもらえるのだろうと、そう思っていたのに、いざボリスを排除しようとしたらこのザマだ。ラキムには蔑んだ眼差しを向けられ、教師には退学を警告され、極めつけにこの晴れ晴れとしない暗澹たる心情。


「くっそ!」


 おかしい。

 どこかがおかしい。どこからおかしい?

 わからない。心の中が渦巻いて、沸騰したように色んな情景が思い浮かんでは弾けて忙しい。父に殴られたあの衝撃。母に泣き叫ばれたあの息苦しさ。眠りたいのに眠れない。とうには眠気さえ感じなくなって、食事の味もわからなくなって、ある日の朝、髪が真っ白になっていた。

 寝不足で目が充血しているのを誤魔化すために、目を赤く縁取る化粧を施し始めたのはいつだったか。そんなことも忘れてしまった。


 父の目が浮かんで弾ける。

 母の口が浮かんで弾ける。

 自分が吐き出した汚物。匂い。

 死にたいと望む気力もなくなったあの日々。



 ボリスの顔。



 どうしてなのだ。

 あれほどの地獄を味わってきたのに、そんな光景を押し退けて、とめどなくボリスの顔が浮かんでくる。フリオによる欺罔を知ったときの、あの力なく笑った顔。


 頭がかち割れてしまいそうだった。


 泣くのだと思った。

 怒るのだと思った。

 掴みかかってきて、母のように唇を捲りあげて黄ばんだ歯を剥いて噛み付いてくるのだと思った。

 父のように息もできないくらい何度も何度も鉄球のように重い拳を振り下ろしてくるのだと思った。

 あるいは王子の権力に縋って、自分を痛めつけようとするのだと思った。


 ボリスはそのどれもをしなかった。


 笑った。

 笑って、またペアになってくれるかと訊ねてきた。


「……馬鹿なのか?」


 わからない。

 一緒にいることで罪悪感を覚えさせようという魂胆か?

 それとも自分は良い子でいるための演技か?

 徹底的に俺を悪者にするための目論見か?


 それにしては、ボリスの目は懇願の色に染まりすぎていた。


 まるで、まだ一緒にいてくれ、と頼んでいるみたいな。望んでいるみたいな。


「……どうして?」


 なぜ、時間の共有を望む?

 俺だったら叩き潰して二度と顔も上げられないように痛めつけてやるのに。


 わからない。

 わからないけれど、なぜか胸にはひとつの後悔が棲み付いて動かない。


 ──あんなこと、やらなければよかった。



◇◇◇◆◆◆



 どうにかしてボリスを慰めてやりたいのに、ボリスがなにも言わないからラキムは口を噤むしかなかった。落ち込んで押し黙るでもなく、ボリスは、いたって普通のボリスだった。

 着替えて食事をして、デザートを食べて、食後の紅茶を飲む。会話も普通にしている。


 なのに、フリオの話題には触れない。


 テストに合格したのだと、安心したとは報告してくれるくせに、傷付いたとは言ってくれない。

 教えてくれてありがとうと礼を言ってくれるくせに、悲しいのだとは打ち明けてくれない。


 ジャバルと目配せをすると、ジャバルもやや戸惑っているようだった。口元を歪めて肩を竦めてくる。


 ならば、敢えてこちらから聞かないほうがいいのだろうか。


 ラキムはこんなに人の気持ちについて悩んだことがなかった。人の心を考えるより先に、告げることはだいたい決まっていた。用件がなければこちらからは話し掛けないし、相手も然り。挨拶にしてみれば、決まりきったセリフを繰り返すだけだ。


 人の心を考えたことがないから、ボリスの心も想像できない。

 だからダイニングを辞去するボリスの背中に、なにも声を掛けてやれなかった。





 その日の夜。


 ラキムは寝室の壁に触れた。

 冷たくて固くて厚い壁。


 その向こうから、ボリスの啜り泣く声が聞こえた。あまりにも微かだった。枕に顔を押し付けて、声を押し殺しているのだろう。


 どうして、言ってくれないのだ。

 ボリス、どうして。


 ラキムはとうとう我慢出来なくなってボリスの寝室に飛び込んでいた。暗がりの中。白いシーツに包まって嗚咽しているボリスが、きらめく瞳をラキムに向けてくるより先にラキムはボリスを抱いた。


 なぜなのだ。


「ボリス」


 どうしてなのだ。


「なぜ、教えてくれない?」


 君の痛みがわかれば、どうにかしてやれるかもしれないのに君が痛みを隠すから、どこが痛いのかわからないではないか。



「言って」



 君の痛みを。

 ボリスの心を。気持ちを。そして、傷を。


 初めは体を押し返そうとしていたボリスも諦めて、ラキムの胸に崩れ落ちた。堰を切ったように泣き始めた。


「お、お友達に、なれたのかと」


 ぎゅ、と引っ張られた気がして視線を落とすと、ボリスがラキムの服をくしゃくしゃ握り締めているのが見えた。



 ぞくぞくした。



 ボリスに求められている。縋られているとわかって、背筋を欲望が這い上がる。

 しかし、それ以上にボリスをなんとかして悲しませないようにしたいと思った。


「わ、私、てっきり、お友達に……!」

「ボリス」

「とんだ勘違いをしてしまって、私」

「違う。騙すほうが(あく)なのだ」

「でも、でも……こんな、私と」


 友達になってくれる人なんているはずがなかった。

 きっとボリスはそう言ったのだろうと思う。けれど、ラキムの耳がそんな言葉を聞きたくないと拒否したのか、よく聞こえなかった。


 ボリスも地獄を生き抜いてきた。

 きっと、フリオも別の地獄を耐え抜いてきた。


 どちらも価値観を捻じ曲げられて、こんな悲劇を生み出してしまった。誰が誰を責められるというのだろう。


「そんなことはない。ボリス、頼むから自分のことを()()()だなんて言わないでくれ」

「わ、私、恥ずかしくて……なんで勘違いしてしまったのか……なんで」

「ボリスは悪くない」

「こんな、こんな──」

「やめてくれ」


 好きだと、言ってやればよかった。

 ボリスが好きなのだと。

 けれど、ボリスは信じてくれるだろうか。自分を慰めようとする嘘であろうと思わずに聞き入れてくれるだろうか。


 この好きという気持ちは、どういう意味の好きなのだろうか。


 わかりきっているのに、ある種の()()はボリスに拒絶されてしまう可能性が高いから、ラキムはまた言えずに終わった。


「私はずっと一緒にいる。約束する。悪魔にだって誓う。だから──頼む」


 自分の価値をみすみす落とさないでくれ。


 ボリスは涙が枯れるまで泣いた。

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