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第2話


 そして、今に至る。


 ぷらん、ぷらん、と首根っこを持たれた猫のようにジャバルに連れられたボリスは、大きな白い建物の前に着いた。

 剥き出しの円柱がいくつも並んで、窪んだ位置にある入口扉に屋根を作っている。

 その屋根の下。扉の前に、ラキムがいた。


 ラキムとジャバルは制服を着ていた。といっても、ほとんどボリスと同じデザインで、ボリスのラップキュロットが男性用のズボンに変わっているだけではある。しかし、ジャバルやボリスと違ってラキムの左胸には小さな黄金色の胸章があった。


 ラキムが気付いて振り返ってくる。ボリスの格好を見て、ゆっくりと瞬きをした。どうやらそれが疑問を抱いたときの癖らしかった。


「制服は合わなかったのか」

「い、いえ……! その、着替える余裕がなくて、すみません……」


 まさかせっかく用意してくれたサイズぴったりの制服を置きっぱなしにして、放心していたとは言えない。恩知らずと怒られてしまう。だが幸い、ラキムは気に留めていなかった。ほっと安堵する。


「いや、構わない。早速、説明する。ここが式典をする大広間だ。明後日の朝9時から入学式を執り行う。ボリスのことは私が寮室まで迎えに行くから、8時50分までに支度を終わらせておいて欲しい」

「は、はい!」

「式中は話を聞くだけの受動的なものだ。私の隣にいれば、すぐに終わる。身構えることはないから、気楽に臨むといい」

「わわわかりました」


 そもそも、ここにいる理由すらわかっていないのに身構えるなというほうが無理である。

 ジャバルはボリスを放して、茶色の大きな観音扉を引き開けた。


 そこは礼拝堂に似ていた。入口から見て正面に色鮮やかなステンドグラスが飾られていて、そこに向かって濃茶色の細長い絨毯が伸びている。椅子や机などはなく、だだっ広い空間だ。


「私は右手側の最前列に立つ。ボリスはその隣。私と一緒にここを歩き、位置に付く。あとは終わるまで黙っていればいい。簡単だろ」

「は、はい!」


 これなら自分にも出来そう。特に一緒にいてくれる人がいるというのが心強い。


「ジャバル。あれを」

「ああ、はいはい。ほらよ」


 そう言って、ジャバルはなにやらをポケットから取り出し、ラキムに放った。ラキムは片手でそれを受け止め、ボリスに掌を見せてやる。


 それは白色の胸章だった。形はラキムのものと同じで、校章がデザインされている。


「これを制服のジャケットの左胸に着けたまえ。学内は常に制服でいて、そして制服でいるときは必ず胸章を着けなさい。つまり、片時も外すな」

「わ、わかりました」


 なんだかお守りみたいな役割なのだろうか。ボリスはおそるおそる胸章を手に取り、なくさないようにとぎゅっと握った。


「いいか、ボリス」

「は、はい」


 ラキムは腰を屈めて、わざわざボリスに視線の高さを合わせ、両肩に手を置いてきた。

 その眼差しはやはり青空のように奥行きのわからない広さを孕んでいる。


「ボリスは、なにも出来ない人間ではない」


 息を呑んだ。

 その言葉の意味を理解するのにも時間を要したし、その言葉を貰えるほどの資格はないとも思ったから、ボリスは視線を彷徨わせた。

 その心を見透かされたのか、ちゃんと目を見ろ、と言わんばかりにラキムはまたボリスの頬を包んだ。柔らかな力だった。


「私がいる。安心して、存分に学びなさい」

「は、はい」


(なにを?)


 とは言えない。とりあえず、自分はなにかを学ばなくてはならなくて、そのためにこのラキム王子は助けてくれるらしい。それはわかった。ならば、応えずにはいられまい。

 ボリスは最後までラキムの目を直視出来なかった。



◇◆◇◆◇◆



 それにしても丈が短い。

 2日後の朝。ボリスは真新しい制服に袖を通したものの、キュロットの丈の短さに辟易していた。靴下からキュロットまでの肌の露出が多過ぎる。


「せ、せめて黒のストッキングとかないのかな……」


 ラキムはどうやら多忙の身のようで、寮内の説明はほとんどジャバルによるものだった。

 購買部の場所や食堂、ランドリーやラウンジまで案内をして、利用方法をざっと教えてくれた。しかしボリスはどうもひとりで出歩くのが怖くて、ラウンジにも行かなかったし、食堂とランドリーには誰もいないのを見計らって独りで済ませた。人と会うのが怖いから。


 足を少しでも隠そうと無意味にキュロットを引っ張ってしまう。

 そのとき、ノックがされた。慌てて出迎えると、ラキムが立っていた。2日前と異なり、髪型が整っているのを見ると式典というのがわかる。


「行こう。入学式だ。皆が待ってる」

「は、はい」


(ん? ()()()()?)


 入学式とは新入生が全員並んで行うものではなかっただろうかと思いつつ、言葉のあやだろうと納得する。


 それにしても誰もいない。ラキムのあとをついて歩いているのだが、寮の誰にも会わない。時間帯を考えればひとり、ふたりと出くわしてもなんら不思議ではないのだけれど、妙にひっそりとしている。


 外に出て、あの広間の扉の前に立つ。ジャバルが柱のひとつに寄り掛かって待っていた。顎で広間の中を示す。


「お待ちかねだぜ」

「予定通りの時間だ。開けよう」

「あいよ」


 言って、ジャバルは観音扉の両方のドアノブを持って勢いよく開けた。どかーん、と音が鳴る。


 仰天したのは、ボリスだ。音に驚いたのではなく、広間に既に全校生徒と思しき人数が整列しているからだ。


「えっ……な、なんで……」


 自分も新入生のひとりではないのか。なぜ、既に整列が終わっているのだ。


 ボリスは人数の多さに圧倒されて、たじろいだ。そして向けられる人の目の多さ。


「ボリス、おいで」


 ラキムが手を差し伸べてくる。


 この手を取ったら、終わりだと思った。


 なにが終わりなのかわからないけれど、とにかく手に取ってはいけないと警鐘が鳴る。しかし、せっかちなジャバルがそんなボリスの弱さなど蹴散らしてしまった。


「早くしろよ!」


 ボリスの手を強引に掴んで、ほれ、とラキムの手に乗せてしまう。ラキムはその手を握り、歩き始めてしまう。

 ラキムと並んで歩き、ふたりの後ろからジャバルがのっそのっそと大股で付いてくる。


 ボリスは顔を上げられなかった。

 心底、混乱していた。

 茶色の絨毯を歩くたびに、突き刺すような視線が集まるのを感じる。


(だ、駄目だ無理だ歩けない怖い人の目が怖い無能がなんでこんなところにいるんだって思われる迷惑掛けちゃう無理無理無理無理帰りたい帰りたいなんでこんなことになったの。


 ああもう消えてなくなりたい死にたい)


 途端、視界が明るくなった。振り返ると宙に浮かんだ火炎が天井に向かって轟々と燃え盛っていた。


 熱い!

 なんで火が!?


 広間に集まった生徒達が、短く叫ぶ。

 ボリスも驚いて悲鳴を挙げようとしたけれど、ラキムの手が口を塞いでくれた。


 手を握られながら、口を塞がれる。


 それはさながら、背中から抱き締められているみたいだった。しかも強引ではない。無理に塞ぐのではなく、恐怖を包み込むような、そんな柔らかい仕草だった。



「大丈夫。落ち着くんだ」



 耳元で囁かれる。

 大丈夫。大丈夫だから、と。


 なにが、大丈夫なのか。

 けれど、そうか、そうとも、落ち着かなくてはいけない。ここでパニックになっても、解決しない。



「私に合わせて深呼吸して」



 背中にぴったりと重なるラキムの胸がゆっくりと膨張を繰り返している。膨らんで、萎んで、膨らんで、萎む。ボリスはその動きに合わせて息を吸っては吐いた。

 すると、次第に火炎は小さくなって消えていった。


「ったく」


 痺れを切らしたのか、後ろについていたジャバルが嘆息混じりに頭を掻き毟りながらボリスのもう片方の手を取った。結局、ボリスはふたりに支えられる形で最前列の位置に着いた。


 それから、なにがどう進んで式が終わったのかわからなかった。

 正面に入れ代わり立ち代わり誰かが立って、なにごとかを喋って、終わり。またボリスは他の生徒達の誰より先にジャバルとラキムに付き添われて、広間を後にする。




◇◆◇◆◇◆




 ふたりがボリスを連れてきてくれたのは中庭にあるガゼボだった。

 彩り豊かな花に囲まれた中にあるガゼボは白木で出来ていて、まるで絵画に描かれた世界のようだ。そこに座る自分が不釣り合いで、ボリスはさらに落ち込んでしまう。


「よく頑張った」


 ラキムはそう言ってくれるが、喜べない。他の人は、式典なんてどうという雰囲気はなかった。


 やはり自分だけが特別に弱いのだ。

 軟弱で、脆弱で、虚弱で、役に立たない。


「わ、わ、私、む、無理です。が、学校なんて……まともに、通えたことがないんです……」

「だー! もう! 苛々するなぁ!」


 立ったままのジャバルががしがしと爪を立てて頭を掻き毟る。ボリスはびくついた。苛ついているその坑道もすべて、自分のせいだと思ったのだ。


「ごごごごごごごごめんなさい」

「ジャバル、大声を出すな。ボリスが怖がる」

「だってコイツさぁ! 自分のこと全然わかってねえじゃん! なんで!? 目隠しでもされて生きてきたのかよ!? とっとと教えちまおうぜ!」

「私達が言葉で教えたとしても、今のボリスでは信じられない。実感していくしかないんだ。だから、私達は見守らなければならない。じっくり待て」

「あーーー!! 待つとか俺の苦手分野!」

「ごごごごごごごめんなさ──」

「うるせえ! 謝んな! うざってえな、苛々する!」

「あわわわわわわ」


 謝る以外になんて言ったらいいかわからないから、ボリスはただ慌てるしかなかった。

 しかし、隣に腰掛けているラキムが助けてくれた。ぎゅうぎゅうとキュロットを掴んでいた手に、そっと手を乗せてくれる。


「大丈夫。これからすぐに自分は特別だと知る」


 なぜ、この人は私に優しいのだろう。

 手を取り、歩かせてくれ、手を取り、座らせてくれ、手を取り、緊張を解いてくれる。


 なぜ、そんなことをするのか。

 なぜ、そんなことをしてくれるのか。


 聞きたくても、聞けなかった。お前を利用するためだと言われるのが関の山だ。それか、単なる遊びかもしれない。王子だからお金にも権力にも性にも困らないだろうし、充実し過ぎた毎日のちょっとした刺激のために自分がたまたま選ばれただけなのだろう。


 それは道端で死にかけている虫を拾って育てるような、そんな気紛れなのかもしれない。


 けれど本当にそうだと言われたら、ボリスは悲しくて打ちひしがれてしまう。飛べない虫。這うことも、土に潜ることも、蛹になって姿を豪奢に変身させることも出来ない価値のない虫。


 自分がそんなものであると、もう既に知っている。知っていることを言われると、心が荒む。


「教室まで送る。ボリスは新入生だから、私達とは校舎が異なるのだ。さあ、行こう」


 そう言って、ラキムは立ち上がってしまう。


「え、あ、い、いなくなっちゃうんですか。わ、私、ひ、ひとりに? ら、ラキムさんも、じ、ジャバルさんも?」


 必死だったのだろう。

 普段は臆病なボリスも、むしろ臆病だからこそ、ラキムの袖を引いた。


 その行為にラキムが驚いたように目を丸くした。


 その目を見て、我に返る。ぱっ、と手を放した。不敬罪という文字がちらつく。


「も、申し訳ありませんでした……ご、ごめんなさい……」

「……いや、気にすることはない。私達は共に学べないが、休み時間には会いに行く。──約束する」


 約束すると言う声は鳥肌が立つほど優しい。そして言いながら、ラキムは頭を撫でてくれた。片手だけでボリスの頭を包んでしまえるほどの、大きな手だった。不思議と落ち着いてしまう手だ。


「わ、わかりました……」


 視線を落とす。これから、ひとりにならなければならないのだ。


「話は終わりか? なら行くぞ! はいはい立つ立つ!」


 ジャバルに小脇を抱えられて立つと、あとはふたりに付いていくだけだった。

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