第16話
ラキムに促され、ふたりはソファに並んで腰を押し付けた。ふたりの間に隙間はなく、ぴったりと寄り添っている。ラキムは肩にボリスの頭を乗せてやり、肩を抱いた。
息を吐く。
腹の奥底にどっぷりと溜まった澱の瘴気が息と一緒になって吐き出されて、浄化されているみたいに体から力が抜ける。
そうすると、不思議と眠たくなって、なににも抗えなくなった。
「どんな夢を見るのだ?」
頭の上から注がれる優しい声で問われ、ボリスは見たままに伝えた。
「いつも、同じ夢なのです。なにをやっても皆が気にいってくれるような成果を出せなくて、見向きもされなくなって、周りにたくさん人がいるのに誰もいないみたいで、それで、ひとりで丸くなるんです……私がなにも出来ないから……役に立てなくて……」
尻すぼみになったのは、そんな内容の夢かと呆れられないか急に不安になったからだった。
「そうか。……ボリスに自信を持ってもらうにはどうするべきか」
独り言だ。問うでもなく、思考をそのまま言葉にしただけの会話にならない独り言。その声が脳や体にじんわりと浸透して、瞼を持ち上げているのさえ難しくなる。
「では、私がボリスを見付けたときの気持ちを教えよう。実はボリスを初めて見たのは、公園でぶつかったときではない。──古本屋にいただろう?」
古本屋。
ああ、そうそう。あの街はどこも新品の店だけで、ボリスの小遣いでは1冊を買うのも難しい。だから馬車を始点から終点まで乗って古本屋まで向かうのだ。ぼんやりする頭でその事実を頷いて肯定する。もしかすれば「はい」と答えていたかもしれないけれど、自分では聞こえなかった。
「実は私もあの店にいたのだ。以前から目当ての魔法書があると聞いて、従者ではなく私自身で購入に向かった。そこにボリスがいた。買いたい本が決まっている私と違って、ボリスは何冊かで迷っているみたいだった。真剣な眼差しで1冊1冊を手に取って。会計を済ませてまたボリスの横を通ると、2冊まで選択肢を絞っていた。どちらにしようかと、険しい顔をして。
可愛らしいと思ったのだ。
私の周りは、緊張している人が多い。社交場でも私を疎かに扱うものはおらず、常に張り詰めた空気や、仮面を貼り付けた薄ら笑いに囲まれる。その中で隙を見せまいと自分も肩に力を入れてしまう。
だから、ボリスの横顔が可愛いと思った。邪推のない、純粋な人なのだろうと。そしてそんなふうに育つのは、きっと恵まれた環境にいるのだろうと、そう思ってその場をあとにした」
本屋に、ラキムもいたのか。
はっきりとしない頭でそれだけを認識した。
そっかあ、と間抜けなことを思う。
「馬車で学校へ帰る途中、ふと不安定な魔力を感じた。大きな割に、どうにも揺らめいていて、危険だと思ったのだ。しかし、発生源が、この魔力を持つ人が誰なのかわからなかった。だから馬車を降りて、探し始めた。そうしたらボリスが公園から飛び出してきた。
驚いた。ついさっき本屋で見掛けたボリスが現れたのだから。
しかも、土下座をした。──いや、確かにジャバルは迫力のあるほうなのだが、それにしたって、早すぎた。私は立場上、土下座を何度も目にしてきた。しかし、その人達は皆、屈辱に顔を歪めるか、死にたくはないと懇願するか、どちらかだ。あんなふうに、なんていうのだろうか、なにも捨てるもののない土下座は初めて見た。
先までの想像ががらりと変わった。純粋だから良好な環境で育ったのだろうという誤った見方から、こんなふうに謝れてしまえるのは一体どんな人に囲まれているのかと。
さらには魔法の根源がボリス。しかも発動する魔法は属性も強さもバラバラで、無意識ときてる。これはもう、今まで生きてきた中で一番の驚きだった。話そうとしても、ボリスはただ謝って逃げてしまうし。ジャバルと追うのが大変だったぞ」
それからしばらく沈黙が続いた。ややあって、トーンの落ちた声でラキムが言う。
「よく、あの環境で美しい心のままでいてくれた。……ボリスの強さに感謝する」
感謝?
美しい?
殿下は、なんのことを言っているのかしら。
殿下ほどの方が感謝するほど美しいものって、一体、なにかしら。
ほとんど睡眠の湖に沈みかけていたボリスは、それでも疑問を抱いた。
肩を支えてくれていたラキムの大きな手が、ボリスの頭を撫でて、心なしかの抱き寄せた気がした。そして、ふ、と微笑んだ気配がある。
「眠れそうか──とは、愚問のようだな。よかった。このまま眠るといい」
頭を何度も撫でてくれる手がボリスを湖の奥底へと急速に沈ませた。どんどんと意識が遠のいて、思考が止まる。
ぷつん、と糸が切れたようだった。
◇◇◇
翌朝、ボリスはノックで飛び起きた。
混乱した。壁も天井も見覚えがない。あら、ここはどこだったかしら。けたたましいノックが鳴り響くなか、寝ぼけ眼で部屋を見回す。
「……おはよう」
声がして隣を見ると、ラキムがいた。
目をぱちくり。
混乱した。
なぜ、自分はラキムといるのだ?
どうして、この大きなベッドでふたり並んで眠っているのだ?
事情を思い出したところで、ボリスははっと悲鳴を呑み込んだ。
そうだ、私ったらあのまま眠ってしまったんだわ。
「す、すみません! なんて無礼を!」
「おや。昨日みたいに甘えてくれないのか?」
「あ、あ、甘え!?」
「あんなに密着した夜を過ごしたのに」
「み!?」
そこは覚えていない。自分がなにをしでかしたのか忘れてしまって、ボリスは頭を抱えた。
そんな中、とうとうノックをしていた人物は痺れを切らしたらしく、部屋に突入してきた。見知らぬ女性だった。ダークレッドのドレスを着て、薄い茶色の髪をひとつに結んだ上品な淑女だ。40代くらいだろうか、高いヒールの靴なのに大股で寝室に入ってくる。
目が合って、あっ、と指差された。
「お、おおおおおお女の子!?」
「……人を指差すのはモラルに反しますよ──お母様」
言いながら、体を起こしたラキム。
ボリスはラキムと女性を交互に見比べた。
お母様ということは──
「王妃様!?」




