第15話
ベッドの上で丸くなる。
座って、膝を抱えて、背中を丸めて体がなるべく小さくなるように丸くなる。
ぐっしょりと汗を掻いているのに、震えるほど寒い。
夜。
ボリスはまた夢を見た。いつもと同じ、ひとりの夢だ。
目が覚めて、また夢だと気付いた。そして、痛感する。
悪夢だ。
これは確かに悪夢だった。
ラキムやジャバル、ワレリーにフリオと出会ったボリスには、既に孤独が恐怖へと形を変えてしまった。背を向けられ、拒絶され、否定され、ひとりぼっちになって自分を嫌い続ける日常が悪夢だったと気が付いてしまった。
だからボリスはいつも以上に怖くなってしまった。
もう、ひとりになりたくない。
ラキムの笑顔を知ってしまったら、ジャバルの口調の裏にある優しさを知ってしまったら、ワレリーの思慮深さを知ってしまったら、背中だらけの世界には戻れそうになかった。
怖い。
また夢を見るのさえ、怖い。
けれど、どうしようというのか。
ふと、壁の向こうから物音が聞こえた。そうだ、隣にはラキムがいる。まだ窓の外は重苦しい漆黒の空に覆われているけれど、ラキムはどうやら起きているらしかった。
ひと目、顔を見に行こうか。
でももう眠る支度をしているかもしれないし、なにかほかの作業をしているのかもしれないし、それを邪魔したら迷惑がられてしまう。
ならば、声はどうだろう。
声を掛けて、応えてくれたなら少なくとも自分には返事をしてくれる人がいるのだと感じられる。そうしたら、長い夜を苦しみながら明かさなくて済むかもしれない。自分本位にすぎるだろうか。どうしようか。
ボリスは悩みながら、ラキムと繋がっている壁に手を置いた。
赤茶色の木の壁は冬の夜の外気をそのまま閉じ込めたように冷たかった。固くて、平らで、人の温もりは皆無だ。人の手によって作られたものなのに人を感じさせないとは、皮肉なものである。
「あ、あの……」
聞こえるはずもなかった。
自分の耳にも自分の声が届かなかったのだから。少し深い吐息程度だった。
勇気が出ない。
この壁に助けを求めて、なんの返事もしてくれなかったら、自分はまたあの小さな部屋で本の世界に閉じこもっているときと同じだった。本の世界だけが逃げられる場所だったのに、本のないこの場所でどこにも逃げられなかったらボリスはどうすればいいのかわからなくなってパニックになってしまいそうだ。
ひとりで耐えるしかない。
きっとすぐに朝がくる。ひとりでも大丈夫。きっと、きっと大丈夫。
そう言いながら、シーツを掴む指先が真っ白になっていた。
ボリスはいよいよ裸足で廊下に出た。反射的に立ち止まったラキムの部屋の扉の前でノックをしようとして、手が固まってしまう。
ああ、やっぱり駄目だ。
怒られて嫌われてしまうくらいなら、我慢するほうを選ぼう。
──そう、あっちに行けと拒否されるくらいなら。
ボリスはぶらん、と手を下ろした。月明かりに照らされた自分の影を見つめる。さぁ、戻ろう──そのとき。
がちゃり、とドアが開いた。
ラキムが立っていた。シャツを羽織っただけのラキムはボリスが待ち構えているとは思わなかったのか目を少しだけ見開いて息を呑んでいた。
「……あ──」
なんて誤魔化せばいいだろう。
なんの用事もないのにこうして廊下で立ち尽くしている自分をなんと取り繕えばラキムは納得してくれるのか。色んな案が浮かんでも、どれもラキムに通用するほどの合理性はなくて、結局、なにも言えずに終わる。
代わりに、ラキムが問うてくれた。
「どうした」
決して諌める声ではなかった。けれど言えないのは、ボリスが弱虫だから。ボリスはジャバルに窘められた手指をもじもじとさせて、俯く。
さらにラキムが問う。
「ボリスの部屋のドアが開く音がしたんだ。だから、こんな夜にどこに行くのだろうと思って探しに行こうと思っていたところだ。──どうしたんだ」
本当だろうか。
ボリスを探そうと立ち上がって歩いて、このドアを開けてくれたのか。
暗闇に沈んだ廊下に射し込むラキムの部屋のランタンの灯り。
そしてその灯りに包まれたボリスは、やっと言った。
「……ゆ……夢、を……」
けれど、やっぱりそれだけだった。
けれど、それだけで、ラキムは察してくれた。
「部屋を隣にしておいてよかった。──おいで」
おいでと言ってくれつつも、ラキムは手を広げて待つのではなく、自ら暗闇に一歩踏み出してボリスを抱き締めてくれた。
その力で、夢によって強張っていた体の緊張が解けていく。
どうしてなのだろう。
ラキムの腕に魔法でも掛かっているのだろうか。人を癒やす魔法が。
そして心の弛緩と同時に、堰き止められていた思いが吐き出される。
「……す、すみませ──こ、怖く、なってしまって」
「よく言ってくれた。私は、どうすればいい? どうすれば、ボリスを安心させてやれるだろうか」
なにもしてくれなくていい。
ラキムが傍にいてくれるだけで安心するのだ。ひとりではないと、そう実感出来る。
これまでは本だった。
今ではラキムに包まれて、ひとりから逃げてしまえる。それだけでいい。
「い、一緒に、いてください……」
「……それだけ? 他になにもしてやらなくて構わないのか」
「いいんです。ラキム殿下が、傍にいてくれさえすれば」
「嬉しいことを言う。なら、ずっと一緒にいよう」
そして部屋に招き入れられた。




