第13話
「なにもされていないか」
ワレリーが辞去するや、ラキムは真剣な声色で問うてきた。
「は、はい……」
ワレリーには注意を払う必要があるとラキムは昨日から言っているが、いったいどんな人柄なのだろうと思う。ボリスにしてみれば、優しさ以外になにも感じない。ワレリーとラキムは気のおけない仲のようだから、ふたりしか知らない過去があるのだろうけれど、どんなエピソードを聞いても俄には信じられなさそうだった。
しかし、こうしたラキムの反応を見るに、想像以上の過去がありそうではある。
そうだ、魔法の発動を伝えないと。
「あ、あの……!」
言うと、ラキムは瞬きをしてボリスから続く言葉を待ってくれた。
そういえば、自分から話すのは初めてではないだろうかと思う。
いつもなにかを問われて答えるといった受動的な会話が多い。ボリスが勇気を出して話すといえば、馬車で席を譲りましょうか、とか、同じ本を手に入れたい人とかち合って、どうぞ、と譲るときくらいだった。しかも、大半が流暢とはいえずに終わる。
ましてや今は、自分のことを語ろうとしている。
ラキムは、なんだ、そんなことか、つまらない、と呆れてしまわないだろうか。退屈な話だと嘆息つかないだろうか。
そんな話は聞きたくないと、背を向けられないだろうか。
やっぱり、黙っていようか。
自分ごときが、たったの一度、自分の意思による魔法で小さな炎を生み出せたからって、なんだというのだ。ラキムやジャバルはもっと先を行くのだし、こんな話、聞くに足らないだろうし──。
「……い、いえ、やっぱり──」
けれど、そっとボリスの頬に触れるラキムの指は優しかった。まるで、少しでも力を加えたら形を変えてしまう花弁を撫でるみたいに、そっと。
「聞かせて」
そう諭してくる声も、やはり風のように優しい。優しくて、包み込んでくれる温もりがある。僅かに細められた瞳に拒否や拒絶はなく、込められた感情は慈愛に見えた。厳かな王子が垣間見せる、彼の本来の表情の気がした。
ああ、話してみよう。
ラキムなら、聞いてくれる。
勇気を奮うには、十分だった。
「さ、さっき……炎の、魔法が、使えまして……」
ぱちくり。
ラキムとジャバルはふたり揃って瞬きを2度、3度とした。ジャバルは腕を組んでいるままで、なんの反応もない。
やっぱり、こんな報告いらなかったかしら。
途端に不安になったボリスは慌てて言い訳をした。
「あ、あの、使えたといっても、ほんの少し、その、ボッと、シュッと、出せた程度のものなのですけど……そ、それに授業では全然うまくいかなくて、あ、あの、で、でも、その、ラキム殿下に教えていただいた魔力の流れを意識して、教わったとおりに試してみて、そしたら、やっと、さっき上手く──」
言い訳なんか不要だったのだと、ボリスは遅れて気が付いた。
ラキムに抱きすくめられて、頭を撫でられて、ラキムの香りがして、ラキムの温もりを感じて、さらにジャバルのはちきれんばかりの笑顔を見て、
「よくやった!! ほら、ボリスはなにもできない奴なんかじゃないと言っただろ!」
ふたりの声が鼓膜を揺さぶって、ボリスは驚愕してしまった。
歓喜で抱き締められたことなど、初めてだった。
初めてがいっぱいで、なんて言ったらいいのかわからない。嬉しいと言ったら、魔法の発動への喜びだと思われてしまいそうだし、ありがとうと言ったら、入学や魔力の教えのお礼だと思われてしまいそうだった。
そうじゃない。
どれかひとつではなくて、丸ごと全部が嬉しいのだ。
ボリスはくしゃくしゃに泣きながら、笑った。
「あったかい……」
それがすべてだった。
今の感情をすべて伝える言葉があるのだとしたら、それ以外に言葉が見つからない。ラキムの体温だけでなく、自分のために示してくれる反応すべてが温かい。
そしてそう囁くと、ラキムの抱き締めてくれる腕の力がよりいっそう強まった気がした。
ジャバルも、にかっと歯を輝かせて笑って、わしゃわしゃと頭を撫でてくれる。
「あたたかいです、とても」
寒くて寒くて背を丸めて、ひとりで俯いていた昨日。
あたたかくて、あたたかくて、ラキムの身長に合わせて背伸びをして、支えられている今日。
どうしようもなく心があたたかくて、涙が止まらない。
どれほどそうしてくれていたのか、ややあってから、ラキムは抱き締めてくれたまま「ところで」と話題を変えた。
「昼食休憩はどうした? 迎えに来たときには、いなかったが」
そうだ、休み時間には必ず顔を出してくれると約束していたのだった。うっかり忘れていた。
「あ、す、すみません……! フリオさんが食堂に行こうと誘ってくださったので、フリオさんと昼食を頂きました」
「……フリオ? ……男か」
「は、はい……! 午後にペアで実施する授業がありまして……これからは、なにかをペアで実施するときは必ずパートナーになろうと言ってくださいましたので……それで……」
心なしか、ラキムの声音が落ちる。瞳だけですぐ横にあるラキムの顔を窺うが、あいにく髪しか見えない。不安になってジャバルを見ると、口元をおかしそうに歪めていた。だからまた詳細をさらに説明した。
「あ、あの、フリオさんも相手の気持ちを考えすぎてしまうみたいで、私と一緒だと気が楽だからと、あの、フリオさんも成績があまりよくないみたいなので、それで……その……」
言葉に詰まると、ジャバルがまた頭を撫でてくれた。
「なんだ、ダチも出来たのか!」
「だ、だち?」
「友達だよ! フリオって奴と友達になったってことだろ?」
「と、とも、だち……」
こんな私に、友達?
まさか、そんな。
平仮名を習ったあの学校でさえ、そんな尊い存在はなかった。誰とも関係を築けずに、息苦しさだけで終わったのだ。そんな自分に、友達?
信じられないでいると、がばっとラキムが体を離した。両肩を掴んで、うん、うん、と頷いてくる。瞳が燃えるように輝いている。
「そうだとも。その男は友人に違いない。他の何者でもない、友人だ、友人」
「……なんかそれ、言い聞かせてねえか?」
「下世話な勘繰りをするな。友人に過ぎないのだから。友人は友人だ。そうとなれば、早く帰ろう。仕立て屋が来るから、忙しくなる」
ボリスは思い出した。
そういえば、そうだった。
いったいいくらのお金が動こうとしているのか、気が遠くなりそうだった。




