30話「椅子もあります」
屋敷の中へパトリーを招き入れるのは、何というか、少々不思議な感じがする。
これまで私は、主に、招き入れられる側だった。パトリー側が迎えてくれるというのが普通だったから、こんなに違和感があるのだろう。
「どこで話をするんだ、リリエラ」
「希望の場所はありますか?」
「いや、特にない。どこでも構わん」
「分かりました」
屋敷内の一室へ、パトリーを案内する。
その道中、私は緊張のあまり、うっかり内臓を吐き出してしまいそうな心境だった。
いや、もちろん、内臓を吐き出すなんてできっこないのだけれど。でも、そんな妙なことを起こしてしまいそうなほどの緊張で、とても落ち着いてはいられなかったのだ。
「到着しました」
扉の前で立ち止まる。
そして、後ろを歩いてきているパトリーの方へ体を向ける。
「この部屋でも良いですか?」
「私はどこでも構わん」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
今回の一件のためにアナが準備してくれていた部屋。
きっと気に入ってもらえるはずだ。
私は扉を開け、先に部屋に入ってゆく。眼球だけを動かして斜め後ろを見ていたら、パトリーも私について入ってきていた。
「ここで……話をするのか」
室内に入るや否や、パトリーは言った。
決して広くはない部屋。しかし、窓辺には花の入った花瓶が飾られているし、ほどよい香りが漂っているしで、そこそこ快適な環境には仕上がっているはずだ。彼に気に入ってもらえるかどうかはともかく。
「はい。椅子もあります」
丸いテーブルを挟むようにして、椅子が二つ向き合っている。
もちろん、簡易的な椅子ではない。柔らかな触り心地の布が張られ、座る面のクッション性も高い、それなりに立派に見える椅子だ。どちらかといえばソファに近いかもしれない。
「座っていいのか」
「はい。そちらへどうぞ」
「では失礼する」
私とパトリーはそれぞれ椅子に腰掛けた。
改めて、向かい合う。
お互いの瞳に、お互いの姿が映り。距離は少し離れているけれど、視線と視線は重なって、離れるということを知らない。
広がるのは、二人だけの世界。
今、私と彼は、第三者が入ることのできない空気の中にいる。
「ここのところリリエラからよく手紙が来るようになり、驚いていたところだ」
「あ、すみません……何回も送ってしまって」
ひとまず謝っておく。
すると彼は、首をゆっくりと横に振った。
「いや、それはいい。気にするな」
五秒ほど間を空け、彼は続ける。
「で、話とは何だ?」
パトリーは静かな声で問いを放ちながら、じっとこちらを見つめてくる。凝視、と言っても過言ではないくらい、見つめ続けている。
言うんだ。
今こそ、言わなくちゃ。
私は心の中で自分に向かってそう告げる。
自分で自分の背中を押す——そんな妙な行動をしなくてはならないほど、今の私は緊張に圧倒されている。
だが、それでも、心を伝えることを諦めはしない。
一度決めたことだ。それも、誰かに言われて決めたことではなく、私自身が自ら決定したこと。だから、今さら逃げることなどできはしない。前に進む、私にはそれしかないのだ。
「パトリー……私の恋人になってはくれませんか」
——ついに、その言葉を発した。
向かい合うパトリーの瞳が、驚きにより、大きく開かれる。
彼は言葉を失っているようで、暫し黙っていた。
ただ、黙っていたのは彼だけではない。私も同じだった。
築いてきたものを壊してしまうかもしれない一言をついに口から出したが、言ってから反応が怖くなり、それ以上何かを続けることはできなくて。
彼の言葉を待つことしかできなかった。
元より静かであった室内が、今は、より一層静かになったように感じる。肌を刺すような、痛いほどの静寂。この部屋の中は、長時間過ごすことなどとてもできそうにない、そんな空間になってしまっている。
パトリーはまだ何も言わない。
一言で構わないから、良い返事でなくても構わないから、何か返してほしいのに、それすら叶わず。
戦場にいるかのような緊張状態が長く続く。そのストレスといったらかなりのもので、この場から走り去りたい衝動に駆られるほどの苦痛でもある。
それでも私が投げ出さないのは、自分の意思による行動だったから。
もしこれが、誰かにそそのかされたり強制されたりしての行動であったなら、とっくに逃げ出していたはずだ。
——そんな、ただ呼吸することさえままならぬ沈黙の果て。
「……そうか」
パトリーはついに口を開いた。
出てくるのは低い声。
「いきなりすみません……」
「いや、気にするな」
彼はまだ、何か考え事でもしているかのようだった。
答えは出ていないのかもしれない。
「……その言葉は、本気か?」
「はい」
「言わされているわけではない、と?」
「はい。自分で考えて伝えようと思いました」