1話「リリエラ・カルセドニー」
私、リリエラ・カルセドニーは、現代日本で暮らす平凡な女子高校生だった——あの日までは。
あれは、初夏のある夕方。部活を終えた私は、いつも通り、校門を通り過ぎた。家までは徒歩十分。一人での下校ではあったが、まだ暗くなりきってはいないから、私は何も考えず歩いていた。
無論、まったく何も考えていなかったわけではない。
英語の宿題多かったな、とか、今日の晩御飯は何だろう、とかは考えていた。
つまり、私が言おうとしているのは、その日が何の特別感もない平凡な日だったということだ。
そんな帰り道、信号が青に変わったことをきちんと確認して横断歩道を渡っていると、凄まじい速度を出した白い自家用車が迫ってきて。私は、その自家用車に跳ねられた。
突如として崩れた平穏。
暗闇の中、私は途方に暮れるしかなかった。
それから。
どのくらいの時間が経過したのかは分からないが、事故からだいぶ時間が経って。何か、得体の知れない声が、私に話しかけてきた。
『残りの人生を、生きたいですか』
いきなりこんなことを言われた私は、ただ戸惑うことしかできず。けれども、何がどうなったのかも分からぬまま死ぬというのは気に食わなかったから、私は「はい」と即答した。
すると、またしても、得体の知れない声が耳に入ってくる。
『では、ゲームをして下さい』
え、いや、何で?
この時ばかりは、つい、本心を漏らしてしまいそうになった。もっとも、ギリギリのところで言葉を飲み込んだため、言ってしまわずに済んだが。
『今から貴女には、仮の身体を与えます。貴女は誰かに恋をして下さい。想いが実れば、元の貴女に戻れます。では、これにて』
仮の身体? 恋? わけが分からない。
人は皆、命を落とすとこんなことに巻き込まれるのだろうか。ろくな事情説明もなく妙なゲームを持ち掛けられたりするものなのだろうか。そんな噂は聞いたことがないが。
そんなことを思考しているうちに、意識は途切れた。
謎の声も、もう聞こえなかった。
そして、今日も私は、リリエラ・カルセドニーとして生きている。
腰の近くまで伸びた、絹のように滑らかな黄金色の髪。鼻筋は通り、睫毛は長く、瞳は翡翠色。さらに、何も塗らずとも唇は桜色。リリエラ、つまり今の私は、そんな美貌を手にしている。肌には張りがあり、手足はすらりと伸びて。また、胸は大きいというほどではないが、貧しい胸元ではない。
現代日本の女子高校生だった時代、私に美貌はなかった。美しくはなく、かといって可愛い系でもなく。すべてにおいて中途半端、というような容姿だった。
だから、リリエラの容姿を手に入れられたことは嬉しい。
特に、鏡に映る自分を眺めるのが楽しいなんて感覚は、生まれて初めてだ。
……もっとも、鏡に映る十七八くらいの美しい少女が自分であるという実感は、まだいまいち湧かないのだが。
そんな昼下がり。
自室にこもり鏡とにらめっこしていると、一人の侍女がやって来た。
「リリエラ様!」
俗に言うメイド服のような服を身にまとっている侍女が、いきなり入室し、私の名を呼んでくる。
「……あ、あぁ。アナさん。何ですか」
つい普通に返してしまって、それから不安になる。こんな感じの喋り方で大丈夫なのだろうか、と。
その数秒後、私の不安は現実化する。
「リリエラ様ッ!? 何ですか、今の話され方は!?」
「え、えと……」
アナは私の両肩を掴む。
そして、豪快に揺さぶる。
彼女は、ふんわりしたキノコみたいな茶色いショートヘアが可愛らしい少女。だが、そのわりに力が強い。
「ご、ごめんなさい……?」
「しっかりなさって下さいよ! 今日は大切な日なのですからね!」
「は、はい……」
アナは、私がリリエラとなって最初に出会った人。つまり、こちらの世界で一番初めに知り合った人物だ。
私がリリエラとして目覚めた時、彼女はすぐ傍に控えてくれていて。状況が飲み込めていない私に、リリエラがカルセドニー家の一人娘であることや、数日前に屋敷の中で倒れているのが発見されているのが発見されそれ以来ずっと眠っていたことを、丁寧に教えてくれた。
善い人だ、彼女は。
こちらの世界のことがちっとも分からない私にとって、彼女は本当に尊い存在である。
「ところで、今日、何かあるんでしたっけ?」
「えぇ! まさか、お忘れになって!?」
「は、はい……」
そういえば、昨日一昨日辺り、アナが何か言っていたような気はする。しかし、それを明確に思い出すことはできない。自分でも驚くほどに、記憶が曖昧なのだ。
「パーティですよ! パーティ!」
「え。パーティ?」
「はい! 本日は夜会がございます。良き家のこれからを担う若い方々が集まる、素敵な会! 皆憧れていますよ」
えぇ……面倒臭そう……。
いや、だがしかし、これはチャンスかもしれない。
恋をしなくては元の私に戻れないのだから、まずは男性と遭遇することが第一歩だ。