第八章 「背を向けた希望。絶望の始まり」
深夜から明け方の境目と言うのは実に神秘的な世界を描き出す。それまで漆黒の闇で包まれていた空間から徐々に闇は姿を消し、朝靄と言う静かな一時を運んでくる。一般的に朝靄が発生する時刻は午前三時から五時までの二時間とされている。季節によってその濃度は異なるが、ポーランドの冬はそんな朝靄さえも凍らせてしまうほどの冷気に包まれていた。
時刻が四時ちょうどを示すと、バラックの天井に備え付けてある小さなスピーカーから鼓膜を突き破らんばかりのサイレンが鳴り響く。サイレンが鳴ったのと同時に囚人たちは起き上がり、即座に寝床を整える。そして一斉に洗面所へと向かい、蛇口から排出される濁り水で顔を洗う。この水は施設の屋上に溜まった雪が溶けた水だ。決して綺麗ではない。その水が管を通って蛇口へと繋がっている。雨水を浄化する設備など施されていないアウシュヴィッツでは、蛇口の水を飲むのも命懸けだ。何せ屋上には囚人たちが排泄した汚水や汚物が無造作に置かれているのだ。それに雨水が触れていないと言う証拠は何一つ無い。そのためアウシュヴィッツでは蛇口から出る水を飲む者など一人もいなかった。
ヴォルガもファビオもサイレンと同時に目が覚めた。「おはよう」の一言を言う暇など無く、すぐに寝床を整えると、大急ぎで洗面所へ向かった。洗面所は既に囚人たちで溢れ返っており、並ばなくてはならなかった。
だが集合時間は四時十分だ。囚人たちを監視するSSたちは十分ちょうどにやって来る。それまでにバラックの外にある廊下に整列しなければならない。時間的な面を考慮すると、もはや顔を洗っている時間は無かった。
「ダメだ。間に合わない。肌のお手入れは諦めた方が良さそうだね」
ファビオが言った。「肌のお手入れ」と言う言い方は皮肉を込めた言い方だろう。こんな朝早くでも所々にジョークを入れるファビオにヴォルガは感心した。
「そうだね。戻ろう」
バラックの前に戻ると、既に囚人たちが整列している。皆一様に綺麗な顔をしているところを見ると、起床の時間よりも早く起き、洗うのを済ませているのだろう。まだ眠気眼のヴォルガに対し、他の囚人たちの表情はすっかり起きていた。
ヴォルガとファビオも揃って列に加わった。
「遅くなったけどおはよう。昨日は眠れたかい?」
ファビオが聞いた。
「おはよう。何となく寝ていたような気がするけど、あんまりね」
両目を擦りながら苦笑いでヴォルガが答えた。
「僕なんか寒くて何度も目が覚めたよ。あんな藁の布団じゃ寒さを凌げやしない」
「そう言えば室内のトイレ凄い事になっていたよね。お腹を壊す人が多いんだろうね」
「冗談じゃないよ。あんな便器に座れなんてさ。他人の糞に塗れろって言っているのと同じだぜ。嫌だったから夜中に外に抜け出して済ませてきたよ」
バラック内にあるトイレはもはや衛生など似つかわしくないほど荒れ果てていた。そこら中に飛び散る汚物、そして汚水。大概の囚人たちはそれを嫌がりファビオのように外で済ませている。ヴォルガもここへ来て既に二回ほど外で済ませていた。とてもじゃないが、あんな便座に座ろうとは思えなかった。
四時十分になるとの同時に、二人のSSが姿を現した。囚人たちの間に緊張が走り、眠気も一気に吹き飛ぶ。
「整列!」
SSがそう言うと囚人たちは姿勢を正し胸を張る。その姿は他の囚人たちと寸分違わぬ動きで成り立ち、まるで奴隷のように見えた。
「点呼を行なう!」
この朝の点呼は夜中に収容所を抜け出した人間がいないかどうかをチェックする意味で行なわれる。万が一誰か一人でも抜けている場合、その人間がいたバラックの囚人たちは全員鞭打ちの刑に処される。そして抜け出した人間を捉えるため、即座にポーランド中に指名手配されるのだ。そしてその囚人が捕まった場合、そこにどんな理由があろうと銃殺によってその場で射殺される。これまで何人もの人間が脱獄を試みたが、これまでの脱獄の数が二千六百人に対し、成功し国外逃亡を果たしたのはわずか二名だけである。つまり脱獄しても九割は捕まり、射殺されているという事になる。最近では脱獄をする者は減ったが、確認事項である点呼はアウシュヴィッツでは欠かせないのだ。
約二十分掛けて点呼は終了した。全ての囚人が揃っている。
「これより朝食をとった後仕事に入る。全員大広場へ移動する。列を乱さんように着いて来い」
二名のSSが先頭になり囚人たちを外へ移動させた。
「こんな寒い中外に出るってのかよ。勘弁して欲しいな」
「じゃあお前だけ中にいるか?SSにたっぷり可愛がってもらえるぜ」
「それはもっと嫌だ」
ファビオの前にいたガルバドがそう言った。
「せめて屋内ならマシなんだけど・・・」
「これからは肉体の限界と寒さとの戦いだ。昨日言ったろ?希望なんて持つだけ無駄だって。ここじゃ望む事は無に等しいんだよ」
「分ってるけど、希望を捨てるのは良くない。それは揺るがない」
「へいへい。そのセリフ、いつまで持つか楽しみだぜ」
昨日に引き続き希望を捨てていないヴォルガにガルバドはそう言った。
施設の正面玄関から外に出ると、そこは極限の世界だった。雪は降ってなく、空の具合から晴れる事は伺えるが、まだ夜明け前ということもあって信じられないような寒さが襲い掛かってきた。突き刺さるような冷気。そしてチクチクと肌を刺激する冷たい大地。いくら木靴とは言え靴下の履いていない足は外に出た瞬間温度が一気に下がった。まるで冷え性のような足になってしまった。
「さ、寒い・・・」
「こんなの死んじまうよ」
「ま、お前ら新参者には地獄のような寒さだろうよ。俺なんかはすっかり慣れたもんだ」
ヴォルガとファビオが交互に言うと、ほとんど動じていないガルバドが言った。
「アンタ、寒くないのかよ」
二の腕を擦りながらファビオが聞いた。
「寒いさ。だけど人間ってのは慣れって言う嫌な習慣を持ってる。今じゃお手の物だな」
「免疫力ってヤツだね。僕たちもいずれ慣れるのかな」
「呑気な事言ってる場合じゃないぞ、ヴォルガ」
SSたちは前へと進み、とある建物の左側に回るとそこに囚人たちを集め、再び整列させた。
建物の裏と言う事もあり、若干寒さが和らいでいる大きな空間だった。
「全員座れ!」
SSがそう叫ぶと、囚人たちはまだ雪の残る地面に座った。
「これも拷問の一つかよ。こんなとこに座れってか」
ヴォルガとファビオの足元は雪の溶けた地面でほとんど水溜りだった。
「運が悪かったな。ホラ、さっさと座れよ」
「参ったな・・・」
ヴォルガとファビオは渋々腰を下ろした。囚人服のズボンが一気に濡れ、氷の冷たさが尻から全身に伝う。
「ううう・・・・」
耐え難い冷たさが全身に広がり、身体の芯が悲鳴を上げているようだった。
しばらくすると朝食とされているごった煮の「コーヒー」が配られた。無論、現代のコーヒーとはまったく別の飲み物だ。
「うげっ!なんだよこれ。凄い匂いだな」
ファビオはコーヒーに鼻を近づけ悲鳴を上げた。
「ここでのコーヒーはいわば薬草のごった煮だ。最高の飲み物だぜ、くそったれが」
言葉の九割が皮肉と言うセリフを吐き捨て、ガルバドが一気に飲み干した。
ファビオも鼻をつまみながら無理矢理口に押し込んだ。
ヴォルガも一口含んでみた。ジェノヴァで毎朝飲んでいた本家のコーヒーとはあまりにもかけ離れた飲み物だった。コーヒーと呼ぶには程遠いほど苦い。そして鼻を突くミントのような強烈な匂い。そして水分と共に含まれている小さな固形物。おそらく薬草の断片だろう。そこには薬草だけでなく、大根の切れ端やカブ、さつまいもなど味付けなどまったく無視した食材の断片がかなりの量で残っている。例えるなら茶色い「青汁」と言った所だろう。昨日の晩に飲んだ薬草のスープよりも遥かにまずい。
口の中に固形物を残ると、何とも言えない不快感を感じるため、ヴォルガはなるべく舌で固形物を感じないよう、一気に飲み干した。
「これより仕事に取り掛かる。各自振り分けられた場所へ速やかに移動しろ」
全員がコーヒーを飲み終わると、休む間もなく仕事が始まる。集められた囚人たちは数名のSSの手によっていくつかのグループに分けられる。ほとんどの場合は近くにいる囚人たちと同じ場所に配属される事が多い。その事をガルバドから聞いていたヴォルガとファビオはお互いに身を寄せ合うように立った。
「お前たちはこっちだ」
案の定、やって来たSSはヴォルガとファ部尾を同じグループに振り分けた。自分たちのすぐ後ろにいたガルバドも一緒だった。
「終業時刻は二十時だ。十二時間後、各自SSに従いこの場所へ戻って来い。解散!」
SSの上官がそう言うと各グループに数名のSSが着き、その案内で仕事場へと向かった。
「こっちだ、着いて来い」
ヴォルガとファビオ、そしてガルバドと他数名はSSを先頭に歩き出した。歩いている間も常にSSの監視の目が光っている。列を乱そうものなら容赦ない鞭の攻撃を受ける事になる。しかし履いている靴は木靴だ。既に歩くのも大変なほど足が痛んでいる。加えてこの寒さが足の感覚を麻痺させ、動かすのも一苦労だった。どうにかしてヴォルガたちは足を動かしたが、中にはそうも行かない囚人もいる。
「列を乱すな!」
そういう囚人たちは何度も鞭の痛みを味わう事になった。
大広場から歩く事十分、ヴォルガたちが連れて来られたのは製鉄工場だった。
「ここが貴様らの仕事場だ」
到着するなりSSは仕事の内容を説明した。
この製鉄工場では文字通り鉄を作り、その鉄で綺麗なスプーンを作る工場となっている。分厚い鋼を高温で溶かし、溶かした鉄でスプーンの形を造って行くと言う内容だ。スプーンの型を取るサンプルは既に設置されており、囚人たちは材料となる鉄を運び、その鉄を溶かし、スプーンのサンプル模型に流し込むという流れになる。現場はいくつかのレーンに別れており、一つのレーンを三人で分担する。鉄を運んでくる囚人。その鉄を高温で溶かす囚人。そして型を取るため流し込む囚人と言う形になる。ここで作られたスプーンはポーランド内のマーケットに並ぶ事になり、それなりの収益も入ってくるが、当然のように囚人たちに利益など回らない。全て幹部たちの懐に入ってしまう。その利益は全て収容所を養う英気となるのだ。
現場の分担はすぐに決った。鉄を運んでくる役をガルバドが、その鉄を溶かすのをファビオ。サンプルに流し込むのがヴォルガと言う事になった。
仕事は早速始まった。それぞれのレーンで囚人たちが忙しく動き回る。いくら簡単な作業とは言え、履いている靴が木靴のため、足がすぐに悲鳴を上げる。おまけに鉄を溶かす凄まじい熱が工場内に立ち込めているため、外で凍り付いた足の温度が元に戻る。そうなると極端な温度の差によって痛みが増してしまうのだ。これも攻撃無き拷問と言える。
「アチッ!くそ!何でこんな目に合うんだ」
ガルバドが運んできた鉄を摂氏数千℃という釜に流し込んでいるファビオが叫んだ。
「大丈夫かい?」
「大丈夫なもんか。熱くて死にそうだよ」
ヴォルガのいる場所も十分すぎるほど熱かったが、釜のすぐそばにいるファビオの感じる熱さはヴォルガの比ではなかった。
釜でドロドロに溶けた鉄がまるでマグマのように管を通り、ヴォルガの場所まで降りてくる。真っ赤に染まった鉄が自分の目の前に来た瞬間、砂漠にいるような熱がヴォルガを襲った。
「ぐう・・・」
呻き声を上げながらも、巨大な受け皿に溜まった鉄を熱の通さない特殊な棒でかき混ぜる。そして厚手の手袋を付け、自分のすぐ隣にあるサンプルの模型にそれを流し込んで行く。この時注意しなければならないのは、誤って液体と化した鉄をこぼさない事だ。万が一足の上にでもこぼしたらそれこそ一瞬で足に大きな穴が開き、その身はマグマの如き業火に包まれてしまう。この作業は細心の注意を払う必要があった。
ガルバドの運んでくる鉄を釜に放り込むファビオは、凄まじい熱さのせいで汗が止まらない。工場に来る前のあの極寒の寒さなど当に消え去ってしまっている。信じられないほどの寒さから、信じられないほどの熱さに変わってしまった。無論、それはヴォルガも同じだが、ロクな食べ物を与えられていないせいで、汗を掻くたびに体力が失われて行く。これでは夏場にとび職の仕事をする方がよっぽど楽だった。
しかしヴォルガもファビオもガルバドも途中でギブアップすることは許されない。工場の各場所で監視役のSSの目が光っているのだ。彼らは仕事が遅いと言う理由だけで鞭で攻撃を仕掛けてくる。手を止めればこの熱い場所で余計なダメージを与えられる事になるのだ。
このアウシュヴィッツで泣き言は通用しない。鬼さえも素直に従う鉄則があるのだ。それが例え同じ事の繰り返しで長時間続こうと、従うしかないのだ。人間は同じ作業を、ましてやそれが人間としての扱いでは無い場合、酷く惨めな気持ちになる。先ほどファビオが言ったように、どうしてこんな目に合うんだとどうしても思ってしまうのだ。これで何か得るものがあるならまだ許せる。だが得るものなど何一つ無い。むしろ体力を失うと言う手放す事しかないのだ。ここにいる間はずっと死ぬまで働かされる。まるで奴隷のように。そしてやがて死が訪れても、自分の亡骸は無惨に始末されるだけ。そう、父ヒューゴのように・・・。
仕事が始まって二時間もすると、気分が滅入って来た。同じ事を繰り返す作業。ロクに食事も与えられない極限の環境。死ぬまで働かされる屈辱。得るものなど何一つ無い無力感。その全てがマイナスへと動きそうになる。
だがそれでもファビオが居てくれるだけマシだった。同性で同い年と言う存在は他のどんな救いよりも大きな存在となる。この極限の状況でファビオの存在はそんな救いとなっていた。
そんな気の滅入るような作業も昼を迎えた。昼は朝とは違い、一箇所に集まる事はなく、SSたちが昼飯を現場まで運んでくる事になっている。昼休みはわずか四十分。昼飯の配給が済むと、ヴォルガはファビオの隣に腰を下ろした。ガルバドもそれとなく近くに寄ってきた。
配給された昼飯はスープのみ。これもやはり腐敗臭がわずかに漂う。具は味気の無い大根とカブだ。コンソメに近い味ではあるが、どうしても腐敗臭が鼻を突いた。この腐敗臭さえなければコンソメの味を堪能出来るのだが、見事にそれを台無しにしている。口が裂けても美味しいとは言えなかった。
「たったこれだけかよ」
一番最初に平らげたファビオが呻いた。
「とても美味しいとは言えないね。腹も全然満たされない」
不満げにヴォルガが言った。
「なんだかさ、仕事してて嫌になってきたよ。気分が暗くなって来るんだ」
「僕もだよ。嫌な記憶ばかりが浮かんでくるような感じで」
「ヴォルガもか。これで腹が満たされてりゃ若干違うんだけどな」
ファビオは腹を撫でながら言った。
「俺も最初の頃は辛かったが、終いにゃ慣れるぜ。飢えも気分の落ちもな」
配給されたスープを飲み干したガルバドが言った。
「こういう状況にガルバドはもう慣れたのかい?」
ヴォルガが聞いた。
「嫌でも慣れるぜ。そうしなきゃここじゃ生き延びられねぇからな。まあ勿論良い慣れとは思ってねぇよ。俺だって腹一杯食いたいし、自由が好きだからな」
「僕たちにそう思わせるのも拷問の一つだろうな。精神的に追い詰めてやろうって腹だろ。あーあ、ドイツ人は根暗だな」
もはや踏んだり蹴ったりの心境でファビオが叫んだ。幸い、SSには聞こえなかったらしい。
「これで分ったろ?ここじゃ希望なんて無用だ。決められた事を守り、従うしかねぇんだよ」
「そうかも知れないな」
「ファビオ!」
「いやいや、別に諦めてるわけじゃないぜ。だけどさ、気分の落ちだけは食い止められないって事だよ。諦めたくなる気持ちも分からなくもない」
何か反論をしようかと思ったが、ヴォルガは言葉に詰まった。現にファビオと同じように、気分は滅入っている。基本的には前向きで何一つ諦めたりしていないが、このアウシュヴィッツ全体がマイナスの塊のように思えてくる。希望を無くした囚人たちではなく、囚人たちの希望を吸収している施設と言う言葉が何となく適切に思えるくらいだ。施設そのものが負の存在であり、まるで希望を拒絶しているようだった。ヴォルガやファビオの気分が落ちるのも、ひょっとたらアウシュヴィッツの負の魔力に取り付かれているせいかもしれない。
希望の無い絶望の世界で先のことを考えるのはやはり間違っているのだろうか。常に死と隣り合わせの状況で未来を望む事は、逆に罪な事なのだろうか。そのうち考えると言う行為自体が馬鹿馬鹿しくなり、魂の抜けた身体が勝手に作業を繰り返すと言う惨めな姿になるのだろう。いささか気分がマイナスへと走りつつあるヴォルガはそう思った。
そしてそう思えば思うほどに、言葉に悔しさと恐怖が募って行った・・・。
2
夕暮れの日差しがアウシュヴィッツを照らすと、いよいよその日一日が終わりを告げる。地獄のような施設とは不釣合いの夕暮れが空を黄金色に染める。我が身が自由であれば、沈む夕日を見ながら感傷に浸ることも可能だが、地獄の、もっと言えば生き地獄の現場にいるヴォルガにとって、夕暮れは単なる時計代わりにしかならなかった。
夕日が地平線に沈み、夜になる。時刻が二十時を刻むと、今日一日の終焉を合図するサイレンが鳴り響く。囚人たちは手を止め、各部署ごとに整列し、バラックへと戻って行く。バラックへ戻る途中、朝方集まった大広場で夕食の配給が行なわれると、囚人たちは我を忘れたように食料に噛り付いた。朝はごった煮のコーヒー。昼はまずいスープのみ。そんな粗末な食事が故に、夜になるとその空腹は加速を増し、極限を向かえる。SSたちの手から夕食を受け取ると、脇目を振らず口へ運ぶ光景が目立った。
ヴォルガとファビオもむさぼるように夕食に噛り付き、あっと言う間に食べ終わった。当然ながら腹はほとんど満たされない。おそらく全体の一割も満たされぬまま夕食は胃の中に落ちてしまう。それがある程度の量であれば多少なりとも納得は行くが、ほとんど満たされない量だと余計に腹が空く。胃が自然と「もっと」と要求してくるのだ。だが勿論、そのもっとはあるはずも無い。それに加え、近くでまだ食べている囚人たちを見ると、胃の要求は更に加速する。どちらにしても腹は悲鳴を上げることになるのだ。
大広場に一同が戻ると、今度は朝と同じように、格バラックの囚人ごとに整列して歩き出す。だが仕事の疲れが重く圧し掛かり、思うように身体が動かない。更に木靴が足を痛め付けており、歩く格好がどうしても不自然になってしまう。ヴォルガの足は既に流血している。足の甲が木製の側面と擦れ、場違いな靴擦れを起こしているのだ。足の裏に柔らかいマットなど無く、情け容赦ない堅い感触が足を襲う。ファビオもかなり痛むらしく、歩く姿勢が歪んでいた。
「列を乱すなと言っているだろうがっ!」
囚人たちの横を歩くSSの叫びと、その後に続く鞭で叩く音が鳴り響く。そしてその後に聞こえる呻き声。ここでは人間の尊厳などない。何かを乱せば罰を与えられ、肉体的苦痛を強いられる。それに反する事、それ即ち死を意味している。
憔悴し切った身体で尚且つ空腹の満たされないヴォルガの思考能力は低下し、そんな刑罰の光景も極普通の光景のように見えた。
バラックに戻ると、改めてそこが凄まじい異臭で包まれている事を実感した。仕事中は外に出ているため、当然のように漂っていた異臭からも解放されるが、こうしてしばらく時間の経過した状態でバラックに戻ると、自分たちの寝床が信じられないほどの悪臭に包まれている事を改めて感じさせられた。この悪臭に比べたら、汗や人間の生活臭など可愛いものだ。まるで液体のアンモニアに鼻を近づけたような、直接鼻腔を刺激する臭いが漂っている。部屋に一つしかないトイレは既に汚物で溢れ返っており、異臭の根源となっている。バラック内には窓がなく、換気をすることも出来ない。最も、仮に窓があったとしてもこの極寒の中窓を開けようと思う囚人はいないだろう。空気の入れ替えとして出来る事と言えば、SSに見つからないように出入り口のドアを開けて置く事くらいだ。とは言え、施設そのものが異臭に包まれているため、あまり大きな効果は得られない。廊下に出ても他のバラックから排出される異臭がばい菌のように蔓延っており、不衛生極まりない。部屋には排水溝や溝がないため、汚水や汚物は手や足を使って外に出さねばならない。つまり他人の汚物に触れなければないないのだ。これを絶望、そして惨めと呼ばずして何と呼ぶ。こう言った小さな屈辱がヴォルガたち囚人の希望を木っ端微塵に打ち砕くのである。
こんな場所で大怪我でもしたら最後である。自然と回復するような小さい傷であれば、囚人服の切れ端を切り、巻き付ける事で応急処置が施せる。だがそれ以外の大きな傷となると処置を施すのは困難だ。万が一傷口に汚物が触れ、細菌が侵入し病に感染したらそれこそ残された道は死だ。アウシュヴィッツにはカー・ベーと呼ばれる医療室があるが、難病を抱えた囚人や、もはや死を待つだけの人間しか入室を許可されていない。病に感染したからといって入室できるという分けではないのだ。
ヴォルガは嫌々ながらバラックに入った。鼻を突く異臭は熾烈を極めたが、寝床はここしかないのだ。どこにも行く宛などない。逃げる事は死を意味する。そして自分たちの寝床は異臭塗れとくれば、もう不満を口にするゆとりなど無くなる。ヴォルガは何も言わず、極限の異臭に耐えながら藁で出来たベッドに横になった。
「どうしてユダヤの血を引いているだけでこんな目に合うんだろうな」
ヴォルガよりも先にベッドに横になっていたファビオが背を向けたまま言った。
その肩は若干震えている。泣いているのだろうか・・・。
「ユダヤの血を引いちまった俺たちが悪いんだ」
何も言えないヴォルガに代わり、ガルバドがそう答えた。
「そんな事ないさ。僕たちがどんな悪い事をしたって言うんだ?何も悪いことなんてしていない。間違っているのはドイツ軍だよ」
ヴォルガは出来る限り明るく振舞いながらそう言った。
「ドイツ軍というより、ドイツという国がおかしくなっちまってんだ。国民全員がヒトラーのしている事を悪だと思っていない。たまたま自分たちに不利な条件を叩きつけられ、それに待ったを掛けたのがヒトラーだったから、人間性というよりも絶望的な状況に救いの手を差し伸べた事に正義を見出し、尊敬しているだけだ。自分たちを救ってくれた、だから正しいんだって、そう思っているんだろう」
「ファビオ・・・・」
今にも消えそうな、そしてやつれ切った口調でファビオが言った。
「国全体が洗脳されてるんじゃ話しにならねぇ。どうやって立ち向かえって?特攻隊のように戦闘機に乗ってドイツに突っ込むか?冗談だろ。もう抵抗するだけ無駄なんだよ。自分たちの国で自由に過ごしていたあの日は、もう二度とやって来ねぇ。奴隷として扱われ、死体となってここを出る事しか俺たちに道はねぇのさ」
ガルバドは喋るのを終えるようにヴォルガに背を向け瞼を閉じた。
「ヴォルガも寝たほうが良いよ。明日も仕事だからね」
「うん・・・・そうだね・・・」
絶望・・・・その二文字がヴォルガの脳裏を過ぎった。喪失感溢れるファビオとガルバドの発言に、ヴォルガは反論する余地さえなかった。いくら希望を捨てていないとは言え、生き地獄のような世界に身を置くと、自然と希望は消えかかってしまう。どれだけ強靭な精神力を持っていたとしても、ほんのわずかな希望さえない状況で、どのように希望を見い出せと言うのだろうか。
「ヴォルガ、例えどんな状況になろうと、絶対に諦めてはいけない。希望はどんな人間でも持つことが許される唯一の望み。諦めたらそれで終わりだ。何も生まれない。何があっても希望は捨てるな」
ヴォルガの頭の中で、生前ヒューゴが言っていたセリフが繰り返し響いた。
「父さん・・・・」
父の言っていた事が間違っているとは思えない。だがしかし、この地獄のような状況でどうやって希望を持てば良い?どうやって望みを繋げれば良い?いつ果てるかも知れぬ精神的苦痛をどのようにして耐えれば良いと言うのだ。
計り知れない悔しさが溢れ、それが涙となって頬を流れた。今まで悲しくて涙を流す事はあったが、悔しさで泣く事など一度もなかった。それは今までどんなに悔しい事でも、最終的にはそれに立ち向かい勝利してきたから泣く事などなかったのだ。だが今は違う。悔しさに立ち向かおうとしても、自分の拳は空を切るばかり。実体の無い相手に翻弄され、目に見えない精神的ダメージを受けてしまう。
悔しさを受け入れる事しか出来ないのだ。ヴォルガはそれが悔しくて堪らなかった。
「おやすみ・・・・」
ヴォルガは手の甲で涙を拭うと、誰に言うでもなく静かにそう言うと、ベッドに横たわり、深い眠りへと落ちて行った・・・。