第六章 「正義と希望」
ポーランドの夜はまさに極寒の世界だった。これだけ寒い世界で生き物が生息しているとは考え難いが、外ではフクロウの鳴き声が続き、ちょっとした合唱を奏でている。それ以外の音は降り積もった雪によって掻き消され、また人気も無い。アウシュヴィッツの周囲には極普通の民家も存在するが、この極寒の中を出歩く人間などいるはずもなく、それが余計に不気味な雰囲気を醸し出していた。
バラックには時計が無いため、時刻が分らない。だが、日暮れの時間から現在までの間を計算すると、恐らく二十時ぐらいだろう。つい先ほど夕食を終えたバラックの中は、これから明日の早朝までの自由な時間を満喫するべく、それぞれのスタイルで時を過ごしていた。
ちょうど今から一時間ほど前、バラックにいる囚人たちに夕食が配給された。無論、そのメニューは昼間SSの上官から説明された通り、三百グラムの黒パン、三グラムのマーガリン、そして薬草の飲み物だった。
思春期は過ぎたとは言え、ヴォルガはまだ二十歳と言う育ち盛りだ。そんな粗末な食事を美味しいと思えるはずもない。何より量が少なすぎた。ほとんど空腹が満たされぬまま、配給された夕食は胃の中に落ちて行った。
黒パンとマーガリンは極有り触れた物で、その味に抵抗は無かったが、薬草の飲み物はそうは行かなかった。ヴォルガはあれほどまずいスープを飲んだことは無い。通常、薬草と言うのなら、独特の臭みと苦味が混同しているはずだが、出された代物は臭みと苦味と言うよりも、半ば腐敗臭に近い臭いを放っていた。例えひいき目に見ても、とてもじゃないが身体に良い物とは思えなかった。
それでも空腹を満たすには口に運ばなきゃならない。ヴォルガは鼻を摘まみ、一気にスープを飲み干し、バラックに戻ってきた。
夕食を味気ないものへとしていた最大の原因は、やはりヒューゴの死だった。例えどれだけの時間が過ぎても、受け入れがたい現実だった。まだどこか別の場所で生きているようにも思えてくる。今も瞼を閉じれば、父の威厳ある顔が浮かぶ。そんな映像を思い浮かべるたびに、父は死んだと言う現実を突き付けられるようで辛かった。
いくら家族とは言え、その死から逃れられるわけが無い。このアウシュヴィッツではいつ死の選別に合うか分らないのだ。父がどのような理由でガス室送りになったのかは分からないが、若かろうと老いていようと、選別から逃れる事は不可能だ。明日は自分かも知れない。今まで死の恐怖を感じた事の無いヴォルガにとって、これは想像を絶するストレスとなった。
そして気になる事がもう一つあった。それは昼間父の死に嘆き悲しんでいる最中、自分を庇ってくれたあの青年。青年はヴォルガのベッドの上に居る。時折ベッドの軋む音が聞こえるところを見ると、まだ眠ってはいないらしい。あの青年には迷惑を掛けた。何せ自分の変わりにSSから暴行を受けるはめになったのだから。そして何より、父が焼却炉で焼かれているときも、あの青年はずっとヴォルガの肩に手を添え、崩れ落ちそうなヴォルガを支えてくれたのだ。
いくらか落ち着きを取り戻した事を確認すると、ヴォルガはベッドから起き上がり、何気なく上の階へ顔を覗かせた。
するとベッドの上に座り込み、敷かれている藁を整えている青年の姿がそこにあった。
「や、やあ」
ヴォルガはどう声を掛けたら良いのか分からず、当たり障りの無い声を出してみた。するとヴォルガに気付いた青年は「よっ!」と子供のようなあどけない仕草で右手を挙げた。
「昼間はどうもありがとう。僕の変わりにSSから殴られてしまって・・・なんと言ったら良いのか・・・」
「気にするなよ。ああいう状況だったんだし、仕方ないさ。もう大丈夫なの?」
「うん・・・いくらか落ち着いた感じ」
「そうか、良かったとは言えないけど、とりあえず安心したよ」
「ありがとう」
どうにも話し難いポジションだった。青年が上の階に対し、ヴォルガはその下である。どうにかしてどちらかが移動できないものかと様子を伺うが、青年の隣にいる男は既に眠っている。青年もヴォルガと同じ事を思ったようで、居場所をどうするか決めかねている。
「席を代わってあげよう」
それまでヴォルガの隣にいた老人がそう言って立ち上がった。おそらくヴォルガたちのやり取りを見ていたのだろう。
「すいません、ありがとうございます」
「良かった。ラッキー!」
ヴォルガがその老人に礼を言うと、青年は上の階から下へと下がって来た。
「上のヤツすっかり眠りこけちまって、おまけにデブと来たもんだ。正直うんざりしていたんだ。それに同じ部屋になるならキミと一緒が良いなと思っていたんだ」
青年は嬉しそうにヴォルガの隣にやって来た。どうやら気の合いそうな青年である。思う事もヴォルガと似ていた。
「実は僕もそう思っていたんだ。歳が近そうに見えたし、同じ部屋に分けられたからね」
ヴォルガは少し照れながら言った。
「キミ、歳いくつ?」
「今年で二十歳になったよ」
「ホントかい!僕も今年で二十歳になったんだ!」
青年は嬉しそうだった。ただでさえ、「同い年」と言う存在は親近感が沸く。同じ時代に生まれ、同じ場所にいる事が硬い結束力を生むのだろう。自分にとってそこが不安定な場所であれば、その結束力は尚更硬いものになる。
「同い年か、奇遇だね。そう言えばまだ名前を聞いてなかったよね。僕はヴォルガ・クルーパス。イタリアから来たんだ」
「ウソッ!信じられない!こんな事があるなんて!」
青年は驚いたような顔で言った。
「どうかしたのかい?」
「僕の名前はファビオ・ダンドーラ。驚いたよ!実は僕もイタリア出身なんだ!」
「ええっ!そうなの?」
さすがのヴォルガも驚いた。
「驚きだろ?ヴォルガはイタリアのどこ?」
「ジェノヴァだよ」
「僕はヴェローナさ」
「ヴェローナって、ジェノヴァのすぐ隣じゃないか!」
「そうだよ!凄い!ビックリだ!」
「こんな事あるんだね」
ヴォルガとファビオは分けも無く舞い上がった。
ファビオの住むヴェローナは、イタリアの首都ジェノヴァに面しているアドリア海から流れるポー川という川を挟んだ向かい側にある。ジェノヴァ、ヴェネチアに続くイタリアの三大都市の一つで人口は二十五万人。アディジェ川やガルダ湖と言った世界的にも有名な観光地が存在している。イタリア国内では一番中世の街並みが残っており、街の中心部には古代ローマ時代に作られた円形競技場があり、街の象徴となっている
他にもヴェローナはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となった街で、映画や舞台でお馴染みのバルコニーは世界でも最大級の観光名所となっている。
「二十歳って事はもう働いてるのかい?」
ファビオが聞いた。
「うん。父親が漁師でね、その手伝いをしているんだ。ファビオは?」
「僕の家は雑貨屋でさ、幼い頃に父親を事故で亡くして、母親一人で店を経営していたんだけど、母親ももう良い歳だから僕が店を引き継ごうと思っているんだ。だから毎日毎日接客さ。おまけに朝は早いし大変だよ」
「店を継ぐなんて凄いね。経営の仕方とかあるんでしょ?」
「まあ、ほとんど形式に添った形だから、覚えてしまえばなんて事は無いよ。大変なのは接客かな。嫌なお客も居たりするからさ」
接客の大変さは母カロンから嫌と言うほど聞かされている。店を切り盛りするカロンもやはり中には嫌な客もいると言う事をヴォルガは聞かされていたのだ。
「それにしてもホント偶然と言うか奇遇と言うか。僕的には奇跡だよ!同い年で出身が同じなんてさ!」
「まさかこんな場所で出会うなんてね。ちょっと皮肉を感じるけど」
ヴォルガは苦笑いを浮かべながら言った。
「ヴォルガもやっぱり貨物列車でオシフェンチムまで来たのかい?」
「うん。ほとんど無理矢理拉致されたんだ。ユダヤの血を引く人々が、ある日忽然と姿を消す話は聞いていたけど、まさか自分が同じ目に合うとは正直思ってなかった」
「そうだよな。僕も同じさ。店を閉めようと思ったらいきなり羽交い絞めにされて、このザマってわけ」
「どうしてこんな事に・・・・」
それまでの明るい雰囲気を打ち砕くような、暗雲立ち込める空気が広がった。
「ファビオのお母さんはその・・やっぱりアウシュヴィッツに?」
「ああ、僕と一緒に連れて来られた。だけどオシフェンチムの駅で別々になってしまって。ヴォルガの家族は?」
「僕の家族は・・・」
そこでファビオはようやく思い出した。忘れていたのだ、ヴォルガの父がガスによって殺された事を。ファビオはハッとした。
「あっ!ご、ごめん。話に夢中ですっかり忘れてた。ヴォルガのお父さんは・・・そうだったね。ごめんよ、悪気は無かったんだ」
「いや、もう気にしないで良いよ。僕にはどうしようもなかったし・・・母と姉がいて、僕たちと一緒に来たんだけど、ファビオと同じように駅で別々になってしまって。それからはどうしているのか分らないんだ」
「そっか・・・でも同じ女同士なんだから、もしかしたら僕の母さんと一緒にいるかもしれないよ」
「そうだね、そうだと良いな」
ファビオの話し方には不思議な魅力が感じられた。話し好きで明るい性格のファビオと喋っていると、それまで曇っていた心が晴れる感覚を覚えた。それは単にこの絶望的な状況の中で、少しでも気を紛らわそうとするある種の「逃避」や「気晴らし」ではなく、本質的に人を元気付けるようなムードを持っている。父親を失ったヴォルガをいち早く立ち直らせたのも、ファビオの存在があったからこそのものだ。もしファビオが居なかったら、ヴォルガは今も泣いていただろう。その悲しみに耐え切れず、そしてこの壊滅的な現実から逃げようと、自害を撰んでいたかも知れない。その道を選ばず、前向きで居られるのは他ならぬファビオのおかげだった。彼がイエスと言えば、本当にイエスになりそうな気さえした。
「ファビオは明るいんだね。こんな状況で常に前向きな姿勢で居る。尊敬するよ」
ヴォルガがありのままの感想を言った。
「そうかな?僕はヴォルガの方が前向きだと思うよ。ヴォルガには強さを感じる。真っ直ぐな気持ちって言うのかな。だから僕は元気で居られるのさ。こんな地獄のような場所でも一人じゃないんだって思えるから。その強さはきっとお父さん譲りなんだろうね」
ファビオは精一杯の気遣いを払いながら言った。
「うん。父さんは強かった。あまり言葉にした事はなかったけど尊敬してたよ。常に死と背中合わせの漁師という仕事をしながら、家族を大切にしてたから」
「僕は幼い頃に父が死んでいないから、ちょっと羨ましいよ。ここを出たらジェノヴァに遊びに行きたいね」
「是非来てよ!いろいろ案内するから」
「おし!出たら必ず行くぞ」
会話の中はすっかり観光モードだったが、一度目線を外すと、そこにはどうにもならない現実がある。お互いにそれを口にする事は無かったが、言葉にせずとも分っていた。
「ドイツ軍は何のためにこんな事をするんだろう。何でユダヤが憎いんだろう」
小声でファビオが言った。
「分らない・・・こんな事をするなんて、もう何もかもがおかしな方向へと走り始めているような気がする・・・。虐殺なんて人間のする事じゃない」
周囲に沈黙が流れた。触れたくない現実だが、現実から目を背けるわけには行かない。どんなに逃げたくても、この現状は鋭い牙を剥き出しにし、どこまでも追い掛けて来る。
「ケッ!全部ヒトラーのせいだ!あのクソッタレがユダヤを迫害する人種法なんてもんを作ったからだ!クサレドイツ人がっ!」
突然ヴォルガたちの向かい側に寝そべっていた大柄の男が叫んだ。歳はヴォルガたちよりも上に見える。かなりガッチリとしており、筋肉質な男だった。その声はわざとドイツ軍のSSたちに聞こえるように叫んだようだった。
「俺の家族はどうなったんだろう・・・」
「いつかきっと殺されるんだ・・・」
まるで男の叫びが合図になったように、そこかしこで不安の声が上がった。
「ここに居る限りいつか殺されるだろうよ」
向かい側のベッドで寝そべっていた筋肉質の男が起き上がり、大きな声でそう言った。
「じゃあ俺たちは死を待っていると言うのか。冗談じゃないぜ。どうしてこんな事になるんだ」
一人の男がそう言った。ヴォルガもファビオもやるせない気分になった。いつか殺されると言う事は二人とも分っている。だがこの絶望的状況で気の合う友と出会い、少しでもその現実から離れようとしていたヴォルガたちにとって、例え分かっている事でも、言葉にされるとさすがに気分が滅入った。
「働ける者は死ぬまで働かされる。そして働けなくなればガス室で殺されるのさ」
ガス室・・・ヴォルガの身体に緊張が走った。もはやガスと言う言葉はトラウマになっている。その言葉を聞いた瞬間、昼間の惨劇が蘇る。ヴォルガにとっては耐え難い言葉だった。
「おい!そういう言い方はないだろ!」
ヴォルガの様子を悟ってか、ファビオが男に向かって叫んだ。
「ああん?ナンだよ」
「殺されると決ったわけじゃないだろ。ここに来たからってみんな死ぬとは限らない。現に僕たちが来る前からあんたたちは殺されずにここにいたんだろ」
ファビオの声は勇ましかった。生気に満ち溢れた、希望を持っている人間の声だ。
「それは単に選別が長引いているだけの事だ。要するにまだ働ける人材ってわけだ」
筋肉質の男はそう続けた。
「だったら余計希望はあるだろ!死んでもいないのに殺されるって決め付けるなよ!」
「馬鹿かお前。俺ら囚人たちの体力が延々と続くとでも思ってやがるのか?冗談だろ。あんなまずい飯に労働時間は十二時間と来たもんだ。いつか朽ち果てるに決ってらぁ」
「何とかしようって言う気持ちはないのかよ。男だろ!希望を失ったら何もかもおしまいなんだ」
「生きる希望だと!ケッ!お前はまだ若いからそんなことが言えるんだよ!ここじゃ希望なんて何の役にも立たねぇ。そんなもん持っているだけ無駄ってもんよ」
「なんだとっ!」
ファビオは今にも掴み掛かりそうなほどいきり立った。
「希望なんて持ってても無駄だ。現にそいつの親父はガスで殺されたんだろ?」
男は俯いているヴォルガを見ながら言った。
「お前!もう少し言葉考えろよ!」
ファビオが叫ぶ。
「考える?ここじゃ考えなんて希望と同じで持ってても何の役にも立たねぇんだよ!そいつの親父がどんな理由でガス室に送られたか知ってるのか?ガス室に送られる人間はな、働く事が出来ないほど弱った老人や、病を抱えてる連中なんだよ。要するに必要無しと判断されて始末されたんだ」
男がそういうとそこかしこで溜息がこぼれた。既にここで生活をしている人々は知っている事実だったが、今日から入ってきたヴォルガたちは男の話に驚愕した。
「ほ、本当にそうなのか?病に犯されたり、働けなくなるとガスで・・・」
「ああ、そうだ。生き延びるために必要なのは身体だよ。希望も考えもここじゃ意味がねぇんだ」
ファビオの問いに男は答えた。
「ついでに教えとくと、ここじゃSSの勝手な考えで死の選別に選ばれるときがある。そいつが健康だろうと不健康だろうと、SSとその上官の気分次第で殺される場合だってあるんだよ。ビックリするだろ?ここで一日に何人の人間が殺されていると思う?およそ四百人だぜ!四百人ものユダヤの人間がガスで殺されたり、拷問や刑罰によって死んで行くんだ。収容所全体を覆っているこの腐敗臭は
、単に不衛生に寄る匂いだけじゃない。今もこの施設のどこかで積み上げられている死体から発している死臭も含まれているのさ。俺たちの居るこのバラックは、大きな施設のほんの一角に過ぎねぇ。もし行く事があれば、このバラックを出て南側へ進んでみろ。何人もの人間が折り重なった死体の山が何箇所にも連なっているはずだ」
男の言うとおり、この腐敗臭とも死臭とも呼べる嫌な臭いは、常に南から臭って来ている。男の言ったように積み上げられた死体が発する死臭なのだろうか。
「どうしてそんな事を・・・・」
ファビオにはもはや反論する言葉など無かった。
「言っただろ。全てヒトラーのせいだ。あのクソッタレがユダヤの迫害を命じたんだ。ここでは必要の無い人間は皆殺される。そいつの親父がそうだったようにな」
ファビオは酷い事を言うこの男に深い憎しみを覚えた。そしてそれと同時に、大切な人を失った人間に対する気遣いなどここには存在しない事を改めて悟った。人を気にする余裕など無い。いつ自分が殺されるか分からない状況で人の心配などしているゆとりは無い。
それが人間を希望無き明日へと導いているのだろう。先ほどから続いている会話の中に光を感じる事はなかった。一人の人間がマイナスへ向かうと、絶望的な現状と共鳴し、周囲の人間までも巻き込んで行く。例え不本意な理由であっても、現状を打破する事ができない以上、自暴自棄の連鎖は止まらないのだ。
「この世の中にはな・・・」
するとそれまでずっと黙っていたヴォルガが急に立ち上がり、肩を振るわせ始めた。
「この世の中に必要の無い人間なんていないんだ!」
「おわあっ!」
「ヴォルガ!」
ヴォルガはそう叫ぶと、狂ったように男に掴みかかった。
「このガキッ!ぐわっ!」
ヴォルガの鋭い拳が男の頬に打ち込まれる。「おいなんだ!喧嘩か!」
「やめろ!」
「ヴォルガ、落ち着け!」
バラック内は騒然となった。数名の囚人たちがヴォルガと男を押さえつける。
「父さんはな、お前なんかと違っていつも前向きに生きていたんだ!人間は皆意味があって生まれて来た。死んで良い人間なんて居ないって、そう言っていたんだぞ!父さんが必要なかったとでも言うのか!」
ファビオを含めた数人の囚人に押さえつけられながらも、尚もヴォルガはそれを振り切り、叫びながら男に殴り掛かった。
「クソガキがっ!」
男も黙ってなかった。今度は男の拳がヴォルガの頬に叩きつけられる。だがヴォルガはビクともせず立ち向かって行く。
「父さんは病に犯されていたけど、少なくともお前なんかより立派だったんだ!一緒にするな!」
再びヴォルガの拳が男を捉えた瞬間、ヴォルガの腹に強烈な痛みが走った。男の鋭い蹴りが打ち込まれ、ヴォルガは後方へと吹っ飛ばされた。
「うわあっ!」
「ヴォルガ!」
吹き飛ばされ、壁に背中を強打したヴォルガにファビオが歩み寄る。この一撃で全てが収まった。男から引き離されたヴォルガは床に倒れ、男はベッドに戻った。
「まったく血の気の多いガキだぜ!」
そう言い放った男の鼻からは血が流れていた。
「やれやれ」
「五月蝿くて眠れやしない」
「まったく・・・」
それまで止めに入っていた他の囚人たちも、それぞれのベッドに戻って行った。
「ヴォルガ、大丈夫かい?」
「うう・・・父さん・・・父さん・・・」
「もう大丈夫。落ち着いて。大丈夫だから」
まるで結界が崩れたように再び泣き崩れるヴォルガの肩を、ファビオはしっかり掴み、いつもまでも支え続けていた・・・。
「チッ!」
男はそんな二人を見てバツが悪くなった。まだ少しでも罪悪感の感じる自分がいる事に腹を立てながらも。強引に目を閉じるしかなかった・・・。
2
騒動からどれだけの時間が過ぎただろう。ひとしきり泣いた後、ヴォルガはファビオに支えられながらベッドに戻った。ヴォルガが泣いている間、ファビオはずっと肩に手を置いてくれた。「また迷惑を掛けてしまった」その思いをファビオに伝えると
「あれだけ言われて何もしなかったら、それこそ男じゃないよ」
と、笑顔でそう言ってくれた。
とは言え入居早々問題を起こしてしまった事は事実だ。よくよく考えてみればヴォルガがこの施設の決まりを知らなかっただけで、あの男が間違った事を言ったわけじゃない。無論、希望を捨てている事は褒めたものじゃないが、自分に害を及ぼされたわけじゃなかった。
ところが自分はと言うとそうではない。自ら混乱を招き、人を殴った。ヴォルガは初めて人を殴った。
「そこにどんな理由があろうと、殴った方が悪い」
生前父が言っていたセリフが脳裏を過ぎった。手を出す必要はなかった。そんな自分をヴォルガは恥じた。
ファビオに話そうかと思い、隣に目を向けると、壁側を向いているファビオの姿があった。時折咳払いをしているが、身体に動きがないところを見ると、既に眠っているのかもしれない。起きているのか寝ているのか、その判断が付かなかったため、話し掛けるのを止めた。もし眠っていたら起こすのは悪い。ファビオだって疲れているはずだ。
通路を挟んで右側へと視線を移すと、あの男が横たわっている。男もヴォルガと同じように通路側に寝ているので、手を伸ばせば届く位置に居る。男は目を開き、上のベッドを見ながら頭を掻いていた。
「あの・・・」
「ああ?」
ヴォルガは思い切って男に切り出した。すると男は先ほどのように挑発的な声で返事をした。
「さっきはごめん。反省してる」
ヴォルガはありのままをそのまま伝えた。
「ケッ!誤るくらいなら最初からするなっての」
「ホント、ごめん。どうかしてたんだ」
ヴォルガはベッドから起き上がり、座り込んで頭を下げた。
それを見た男は「ふぅ」と大きな溜息を付いた。
「まあ良いや。お前みたいに生きた目をしたヤローも珍しいぜ。そっちのヤツもそうだけどよ」
男の視線がヴォルガから離れ、後ろへ回った。見るとそれまで壁側を向いていたファビオがこちらへ居直っていた。ヴォルガと目が合うと、ファビオはニカッと笑い、左手でピースサインをした。どんな状況でもファビオは実にお茶目な存在だ。
「生きた目って?」
ヴォルガが聞き返す。
「そう。大体見りゃ分るだろ?ここの連中は目が死んでる。生きてんだか死んでんだか分らねぇような連中ばかりだからよ。お前らみたいな連中は珍しいって事よ」
男の言う事は的を得ていた。ここでは全てが諦めと絶望へ進みつつある。誰一人希望を持つ者など存在しない。そんな状況が長く続く中に、突然ヴォルガたちのように希望を捨てていない人間たちが入ってくれば、珍しい珍獣のように見えてもおかしくはない。
「どうして希望を捨てるんだ?いつか解放されるときが来るかも知れないのに・・・」
ヴォルガがそう言った。ファビオは二人のやり取りを黙って見ている。
「人間ってのは窮地に追い込まれると、かも知れないだけじゃ満足できないのさ。俺たちはお前たちより長くここにいる。長い時間諦めと絶望を感じていりゃ、希望や光なんてそう簡単に持てるはずがねぇよ」
「そりゃそうだけどさ・・・」
男の言う事は正論だった。その通りである。現代における引きこもりと同じだ。ずっと闇の世界で生息していた人間が、いきなり光の世界へ出て行くことは不可能に近い。慣れと言うものがあるし、何より光に対する免疫が極端に低下している。そんな状況で希望を受け入れろという事は、もはや拷問に等しい。
「名前聞いても良いかな?何て呼べば良いか分からなくて」
「俺の名前は764532番。ここじゃ皆ナンバーで呼ばれている。名前なんて必要ねぇが・・・まあ一応ガルバドって名前がある。ガルバド・ヴェルサーヌだ」
「ガルバド・・・そっか。僕は・・・」
「知ってらぁ。ヴォルガに、そっちはファビオだろ?あれだけ派手に叫び合えば嫌でも覚えるぜ」
「そ、そうだよね」
ヴォルガは苦笑いを浮かべた。
その傍らではファビオがガルバドに向かってピースサインをした。「よろしく」と言う意味だろう。お茶目に歯止めは無いらしい。
「出身はどこなの?僕たちはイタリアなんだけど」
「ポーランドだ。つまりこのアウシュヴィッツはほとんど地元だな。ユダヤ系ポーランド人だ。こう見えてもここに来る前はポーランドの陸軍に所属していたんだぜ」
「へぇ、通りで筋肉隆々だと思った」
ヴォルガの後ろからファビオが言った。
「筋肉隆々なんて一言で済ませてもらっちゃ困るぜ。これでも軍人なんだからよ」
「でもどうして軍人が・・・それもドイツとは敵対国のポーランド軍がここに?」
ヴォルガが聞いた。
「簡単な話だ。捕まったのさ。捕虜だよ捕虜。ドイツ軍がまだアウシュヴィッツを支配する前、俺たちの部隊はポーランドの郊外で戦っていたんだが、ドイツ軍の兵は強烈でよ。呆気なく降伏せざるを得なくなったんだ。んで、俺はアウシュヴィッツに。他の兵士たちも別の収容所へ送り込まれたってわけだ。まったくやれやれだぜ。最初からドイツ軍の攻撃に備えて準備しておけばかなり違ったものを。それを別の国の動きが気になるとか言って、戦力を分割したのがそもそもの間違いだったのさ。挙句の果てがこのザマって事よ」
「そうだったんだ・・・やっぱりドイツ軍は強いんだね」
「まあな。お前らの母国イタリアもヒトラーに影響されてムッソリーニがファシストを掲げただろ?他の国はファシストとナチスが手を組むんじゃないかって怯えてんだ。唯一ナチスを落とせると言えばソ連軍くらいなもんだろ」
「ソ連軍、あの最強と言われる巨大な軍事組織か」
ファビオが言った。
「ああ。軍の数で言えば今現在最大級を誇る巨大な軍事国家さ。ソ連軍だけはナチスに抵抗出来るだけの武力を持っているからな」
「じゃあここを制圧しに来るとすれば、ソ連軍になるのかな」
ヴォルガが続いた。
「ソ連軍の可能性は高いな。まあ、そんな安易な希望は持たねぇ事だ。制圧しに来る前にミサイルで木っ端微塵ってな事も考えられるしよ」
「駄目だよ、希望を捨てちゃ」
ヴォルガの目は真剣だった。
「やれやれ甘ちゃんだな。お前はまだ何も分かってねぇよ。それにしても不思議なもんだぜ。これから死ぬ運命にあるってのに、身の上話をするなんてよ。俺らしくもねぇ」
「最後まで諦めちゃ駄目だ。どんな状況になったって、たった一つ希望を持つことは誰にでも許されているんだから」
「うんうん、僕も共感だな。生きて出てやるんだ」
「そうさ!」
ヴォルガとファビオが言った。
二人の目はまさに生きていた。これから輝かんとする生気に満ちた、人間らしい目をしている。
(これが人間の強さってヤツか・・・)
それが半端な眼差しだったらガルバドも適当にやり過ごしただろう。だが目の前に居る二人の眼差しは自分よりも年下の彼らの方が圧倒的に強く感じられた。圧倒される雰囲気さえ感じられる。
「澄んだ目しやがって。まあ良い、もう寝ようぜ。お前らにとって明日からは本格的な仕事の始まりだ。それを見れば希望を持つことがいかに馬鹿げているか分かるはずだ」
ガルバドはそう言うと大きなあくびをしながら壁側に身体を移動させた。
凍て付く深夜。それぞれの夜が更けて行っ