表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/17

第五章 「悲しみの始まり」

SSたちが部屋を後にしてどれくらいの時間が過ぎたのだろう。とても長い時間が過ぎたようにも思えるし、それほど経っていないようにも思える。それでも丸裸にされた身体に突き刺さる寒さは、既に寒いと思うその感触さえも麻痺させていた。

 全裸となったヴォルガたちには時間間隔を悟る事は出来なかったが、SSたちがこの部屋を出てまだ十分しか経過していなかった。身を守る衣類が無いため、凍て付いた寒さが直で身体の芯を凍らせる。加えて足首まで浸かった汚水が感覚と言う神経を狂わせた。ヴォルガたちは少しでも寒さを凌ごうと、部屋の隅に集まり、寄添うように立つが、そんな抵抗もこの極寒の前では無に等しい。外に出るよりマシとは言え、体温と言う言葉が完全に消される直前であった。

 集まったユダヤ人たちはあちこちで愚痴をこぼしている。何故自分たちが、何のために。様々な理由が飛び交うが、本来ならその明確な理由は分っているはずである。それにも関わらず口に出して表現すると言う行為は、少しでも恐怖を減らしたいと言う、言わばストレス発散に近いものがあった。

 それも全てこの寒さのせいである。もはや正常な思考さえ失わせる凍える寒さが、恐怖を寄り一層大きなものへと変化させ、同時に感覚が失われて行く。風邪を引いて不健康に陥ったとき、冷静な判断が出来なくなるのと同じだ。生きようとする執念は消え、寒さに凍えながら死んだ方がよっぽど楽なのではないかとさえ思えてくるのだった。

 襲い掛かる寒さと絶望感を必死で押し殺し、少しでも寒さを抑えようと、ヴォルガは歯を食い縛り、身体に力を入れた。勢い良く両手で二の腕を擦るが、もはや擦っている感触は感じられなかった。

 そんな折、一人のSSがようやく戻ってきた。ユダヤ人たちは皆虚ろな目でその姿を確認した。

「準備が整った。全員こちらへ来い」

 SSがそう言うと外で待機していた別のSSたちが入って来た。

「さっさと歩け!」

 既に身体の感触が無いユダヤ人たちを急かすように、SSの怒号が響く。

 先頭を歩くSSは部屋を出てその裏側に回った。それに続くヴォルガたちの身体に今まで感じなかった外の冷気が身体を包んだ。だがもはや寒い、冷たいなどと言う感覚は失われていたため、それほど苦に思うことは無かった。

 先ほどまで屋内に居たせいで気付かなかったが、部屋の裏にも同じような建物が建っていた。

「ここはシャワー室だ。収容所に入る前に身体を清め、囚人服に着替えてもらう。中に入れ」

 囚人服・・・自分たちは確かにユダヤ人ではあるが、法を犯すような事は何一つしていない。にも関わらず連中はヴォルガたちを囚人扱いした。最もそんな事に不満を抱いても無駄だ。収容所とは名ばかりで、やっている事は法を犯した囚人に対する行為と同じなのだ。ここは収容所という名の刑務所だ。ここへ来た以上、もはや選択の余地など無いのだ。

 まるで物を押し込めるように部屋に入れられたヴォルガたちは、壁に備え付けてあるシャワーの蛇口の前に立った。

「シャワーの時間は五分のみ。せいぜい綺麗に洗えよ」

 バタンと言う大きな音を立てて閉められたドアの向こうで、SSがそう叫ぶと、次の瞬間、シャワーの蛇口から熱湯とも呼べるマグマの如き熱いお湯が噴出した。

「ぐわあああっ!な、なんだこりゃ、熱!熱すぎる!」

「ぐうおお・・・ふざけやがって!」

「こんなのシャワーじゃない!これじゃ拷問と同じだ」

 ヴォルガも思わずそう叫んだ。

 だがそれは紛れも無く、ただのお湯だった。煉獄の如き熱さに感じたその理由は、ヴォルガたちの身体を支配していた冷気だった。要するにあまりにも身体が冷え切っていたため、通常の温度でも凄まじく熱く感じてしまう、一種の温度変化である。三十度ほどの温度でも、今のヴォルガたちの身体には倍の六十度くらいに感じられるくらい、身体の芯は凍えていた。

 それでも身体は正直な反応を示すもので、徐々にその熱さにも慣れて行った。まさに束の間の休息である。だが身体が温度に慣れたときには既に約束の五分を経過しようとしている頃だった。しばらくするとシャワーは止まり、扉が開け放たれると、数名のSSたちがヴォルガたちを更に奥の部屋へと押し込もうとする。しかし、暖かいお湯に慣れ、外の凍える寒さに遮断されたシャワー室は暖かく、囚人たちの足取りは非常に重かった。

「何をしている!さっさと出ろ!殺されたいか!」

「わ、分ったよ・・・・」

 SSの怒号に囚人たちはただ従うしかなかった。

 シャワー室の奥にある部屋は、まるで外に放り出されたように冷たかった。これでは何のためにシャワーを浴びたのか分らないほど、気温の差が激しい。再び肩を震わせる者、くしゃみをする者が相次ぎ、身体はあっと言う間に冷たくなって行く。

「これを着ろ」

 SSがヴォルガたちの前に囚人服を放り投げた。既に身体が凍え始めている人々は、すぐにその服を拾い上げ、身に纏った。

「この服がお前たちの唯一の服だ。代えは無いから大切にしろ。万が一無くしたり、壊したりした場合は以後裸で過ごしてもらう事になる。手入れは自分で十分行なえよ」

 ヴォルガも投げ渡された囚人服を着た。生地で出来ている囚人服には、とても寒さを凌げるほどの防寒は施されておらず、非常に薄い。まるで捨てられていた生地を縫い合わせ、適当に作った感さえあるほど、囚人服は粗末なものだった。

 囚人服の左胸には、「ダビデの星」と呼ばれる黄色い三角形のワッペンが縫い付けられている。これは着ている人間がユダヤ人であることを一目で判断できるように、ドイツ軍が独自で作り上げたユダヤの象徴である。

「それとこれがお前たちの靴だ。これも代えは無い。壊れたり盗まれないようにせいぜい注意するんだな」

 SSは全員が囚人服を着た事を確認すると木製の靴を囚人たちに配給した。

「こ、これが靴だと!」

「おいおい、こんなんで過ごせってのか?冗談だろ」

「これじゃ痛くてまともに歩けないじゃないか!」

 またもや不満の声が上がった。

 渡された靴は木製で出来ており、柔らかい部分など一つも無かった。通常靴と言うのは足の裏が当たる面には柔らかい下地が引かれ、足への負担を軽減させるように作られているが、この木靴にはそれが無い。無論紐も無ければマジックテープも無かった。今で言う下駄を靴に改良したような物が渡されたのだ。

これでは足に掛かる負担は尋常ではない。おまけに木製のため、酷く重い。柔らかな部分が無いために、足を上げるたびに、靴の重さで足の甲が刺激されてしまう。

「文句があるのか?あるならもう一度言ってみろ」

 銃を突きつけたSSがそう言った。銃口を向けられた囚人たちはもはや言い返す力を失っていた。逆らえば死あるのみである。

 嫌々ながらその木靴を履いた。だが履いた瞬間から痛みが走る。足の側面が慣れない木と擦れ、酷い靴擦れに見舞われる。それでもヴォルガたちは素直に従うしかなかった。

「全員その場に座れ。もう時期上官がいらっしゃる。上官から生活面の説明を受け、その後バラックへと移動する。着席しろ」

 ヴォルガたちは言われるがまま、その場に腰を下ろした。

 バラックと言うのは赤レンガで造られた収容所の施設の名前で、囚人たちが寝起きをする部屋の事を指す。何故バラックと呼ばれているのかは不明だが、ここではそのように呼ばれている。

 床は酷く冷たかった。尻から冷たい冷気が骨に浸透し、骨から全身へと寒さが伝達される。せっかく浴びたシャワーももはや意味が無かった。身体はすっかり元の冷たい感触に戻っている。

 時間が経過する事十分。囚人たちが集められた部屋に上官が入ってくると、SSたちは途端に姿勢を正し、敬礼のポーズを取った。

 入ってきた上官は明らかにSSたちとは雰囲気が違っていた。特に武器のようなものは持っていなかったが、全身から放つ人間性と言う名のオーラが、武器を持たずとも相手を威嚇する。SSたちとは顔つきそのものが違っていた。

「ここでは貴様らに権利、自由など無い。単なる囚人、奴隷だ。それが我が国の下した決断ゆえに、絶対である」

 この男は心からヒトラーを敬愛しているのだろう。ヴォルガはそう思った。〜故に〜であると言う独特の話し方はヒトラー独特の演説だったからだ。

「まず貴様らが収容されるバラックには木製の三段ベッドが置かれている。一段を二人で

使ってもらう。ベッド三つに対し、合計六人だ。起床は朝四時。起きたらすぐに寝床を整頓し、廊下に整列する。時間は絶対厳守だ。万が一遅れた者が出た場合、その者を含めた十人が鞭打ちの刑に処される。予め覚悟して置くように。仕事は季節によって変わるが、基本的には八時から始まり、十二時間後の夜の八時まで行なわれる。つまり十二時間労働だ。仕事中の私語は一切禁止。そして仕事内容と監視役のSSには絶対服従。違犯する者が出た場合、そのエリアで働く全員の責任となる。刑罰は鞭打ちや暴行。違反内容が酷ければガス室送りとなる場合もある」

 そこまで喋ると上官は一度言葉を切った。それと共に流れる囚人たちの落胆の溜息。まるで地獄の苦しみを背負ったような喪失感が一様に浮かんでいた。

「朝食は有り合わせの材料で煮込んだ水だ。ここでは別名コーヒーと呼ばれている。無論、本来のような甘い飲料水ではないがな」

 上官はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「昼食は野菜スープ。夕食は三百グラムの黒パンと三グラムのマーガリン。それと薬草のスープだ。それから食事のとき以外、水は与えられない。飲むことは禁止されている」

 上官の説明にヴォルガたちは絶句した。とてもじゃないが人間としての扱いとは思えない。労働時間が十二時間で、ロクな食事にも有りつけない。

「そ、そんな・・・それじゃ死んでしまう」

 部屋中にどよめきが巻き起こった。確かにアウシュヴィッツの悪名は脱獄に成功した人間から耳にしていたが、まさかここまで酷いとは思いもしなかったのだろう。

「トイレは格バラックに一つだけ着いている。だが勿論仕切りなど無い。おまけに水も流れない。用を足した者は自分の足で汚水供給所まで赴き、バケツに汲んで流すように」

 想像するに余りある不衛生な部屋がヴォルガの脳裏を過ぎった。アウシュヴィッツでは感染病が広まっていると言う話を聞いたことがある。おそらくこの不衛生な部屋と空気、そして環境のせいだろう。その感染症で死んでいく人間も少なくないはずだ。特に身体に傷を付け、そこから細菌が入り込み、感染した挙句に死と言う結末が一番多いケースだろう。ヴォルガは自分が感染したときの事を思い浮かべると背筋がゾッとした。

「せめて人間らしい扱いをして欲しい」

「なに?人間らしいだと・・・」

 愚痴のように言ったユダヤ人を睨み付けながら上官が続けた。

「貴様らまだ自分が助かるなどと考えているのか?だとしたらそれは大きな間違いだ。貴様らは既に人間ではない。迫害される虫ケラなのだ。ゴミ以下なのだ。そんな貴様らに人間らしい扱いなどおこがましいわ!」

 その発言はもはや人間に対する言葉ではなかった。目の前に居るSSたちの上官は、ヴォルガたちを人間として見ていない。人間と同じ姿をした虫ケラとして見ている。ここでは人間としての尊厳など皆無なのだ。ユダヤとして生まれた定めとも言うべき、奴隷としての役割を果たし、そして死んでいく。善悪など問題ではない。ユダヤは死と言う絶対的な差別がここにある。仮に逆らおうものなら、この場で銃弾の雨に見舞われ、今以上に惨たらしい姿となって出て行く事になるだろう。

 ヴォルガの心は憎しみで煮えたぎった。ヒトラーの命令が何故ここまで洗脳のように広がるのか、その見解はヴォルガの理解の範疇を大きく超えていた。

独裁、故の洗脳。国民に対し不条理な条件を突き付けられたワイマール憲法。ドイツ国民はその憲法に対し大きな不満を抱いていた。そこにこれまでの常識を覆すヒトラーと言う人間が現れたがために、人々はヒトラーを神として崇める結果となった。ドイツ中で聞かれる「ハイル、ヒトラー」と言う声。そして「ヒトラーこそドイツ」と言う狂った鋭才教育。自分たちの不満を隅に追いやってくれたヒトラーを人々は支持し、尊敬したのだ。

その結果がこれだ。「ヒトラーの命令は絶対。それは何故か?答えはヒトラーが我らの救世主だからだ。絶望の淵から解放してくれたヒトラーのため、我らはヒトラーの命令を忠実に守るのみ」

これを洗脳された狂った人々と呼ばずして何と呼ぼうか。

「以上だ。何か文句のあるヤツはいるか?いるなら遠慮なく言ってくれ。今すぐマシンガンの餌食にしてやるぞ」

 上官がそう言うと、周囲に居たSSたちが一斉に構えた。

 無論、異論を唱える者など誰一人居なかった。

「よろしい。ではバラックへと移動する」

 上官がそう言うと、数名のSSが部屋のドアを開けた。それに続き囚人たちが絶望的な表情で続く。もはや外の寒さなど感じなかった。あるのはこれから始まる、終わりの無い拷問のような日々。そして確実に訪れる死。囚人たちは皆下を向き、中には涙を流す者さえいた。

 赤レンガで造られたバラックの内部は、凄まじい異臭が立ち込めていた。生活臭に加え、肉の腐った臭い。汚水と汚物の臭い。そして何よりそんな異臭を身に纏っている人間が放つ、腐りかけた臭いが嗅覚を極限へと導く。

 集められた囚人全員が同じ部屋に入れるはずも無く、ヴォルガたちはSSの手によっていくつかのグループに分けられた。

 ヴォルガは棟の一番端にある部屋に割り振られた。既に選別された囚人たちが数名立っている。

「あれ?」

 その選別された数名の中に、ヴォルガは自分と同い年くらいの青年が含まれているのを見つけ、思わず声を洩らした。髪の毛を全て削がれ、スキンヘッドになっているため、正確な年齢までは読み取れないが、目鼻立ちや肌の張り具合から推測すると、ちょうどヴォルガと同じくらいの年齢に見える。ヴォルガがゆっくり歩いて行くと、相手もヴォルガに気付いたようで、しばらくの間目が合った。

ヴォルガは彼の隣に並んだ。バラックの中央では依然SSたちが囚人たちを部屋ごとに分けている。ヴォルガは隣にいる青年に声を掛けようと思ったが、何て言えば良いのか分からなかった。こんな状況で自己紹介をしても変な人間だと思われそうだったし、明るい声で「やあ」と挨拶するのも場違いな言葉だ。

「君みたいな若い人が一緒で良かったよ」

 すると突然その彼がヴォルガに話し掛けて来た。声を掛けようか迷っていただけに、ヴォルガは驚いた。

「そ、そうかい?僕と同い年くらいかな?」

 ヴォルガは思い切って返事を返した。

「僕は・・あっと、どうやら選別が終わるみたいだ。また後で・・・」

「あ、そうだね」

 前方を見ると、SSたちが選別した囚人たちの数を確認している。どうやら部屋の割り振りは終わったらしい。

「では各自部屋に入れ。次の命令は追って知らせる」

 上官がそう言うと、SSたちはバラックの外に出て行った。残された囚人たちは選別された部屋に入って行く。

 ヴォルガたちのグループも一人ずつ部屋の中へ入って行った。先ほど話し掛けて来た青年に続き、ヴォルガも中へと入った。

 部屋の中に入った瞬間、既にここで寝起きを共にしている囚人たちの視線がヴォルガたちに突き刺さった。このグループはヴォルガたちよりもかなり年上の人々が多く含まれている。そして偶然にも既に寝床としている囚人たちも年配の人々が多かった。

 ヴォルガたちがやって来る事は予め伝えられていたのだろう。ヴォルガたちの人数分のベッドが空けられていた。

「そこのベッドを使うと良い。出来るだけ綺麗に整頓しておいたんじゃが、まあ無いよりマシじゃて」

 もう七十は過ぎているであろう古株の老人が新参者たちを招き入れた。一人一人順番でベッドに身を納めていく。ヴォルガは出来るだけ先ほどの青年と同じベッドになる事を願ったが、やはりそう上手くは行かなかった。ヴォルガはベッドの一番下。そして青年はその上となった。

 ベッドと言ってもそこにあるのは布団ではなく、丈夫な藁を組み合わせて作られた御座だった。本来なら身体を横にするには相応しくない代物である。こういう粗末な物からも、いかに人間として扱われていないかが見て取れる。御座の下は木の床になっており、お世辞でも快適とは言えなかった。

 しばらくすると、先ほど出て行ったSSたちがヴォルガのバラックへ入って来た。SSたちが入ってくると、バラック内の空気は一気に張り詰める。ここに居る以上、自分たちがいつ死の選別に選ばれるか分ったものではない。つまりSSが身近に現れたときは、同時に死ぬ可能性もあるという事を意味している。

「先ほどこの部屋に入った新参者たち、前へ出ろ」

 ヴォルガたちに緊張が走った。それは自分たちの事を言っているせいもあるが、それ以上に「死の選別」が脳裏を過ぎったせいだ。

 今日からこのバラックに入った囚人はヴォルガを含めて五人。無論、あの青年も入っている。その全てがベッドの前に立ち、姿勢を正した。

「早速仕事だ。着いて来い」

 SSたちはそう言い残しバラックを出た。ヴォルガたちは死の選別に恐れながらも、遅れを取らぬよう、その後に続いた。

 SSたちと囚人たちの間には多少の距離が置かれており、少し離れる形で歩く事になった。

「嫌な感じだね。着いた早々何をするんだろう」

 ヴォルガは今の心境を、隣を歩く青年にぶつけてみた。

「まさか到着した早々殺されるって事は無いと思うんだけど・・・」

 青年は静かにそう言った。

 ヴォルガはそれ以上の言葉は出なかった。



 辿り着いた場所はとある建物の前だった。入り口のドアはとても厳重な扉になっており、周囲の建物とは明らかに雰囲気が違っている。

厳重に作られた扉は、まるで中から何かが洩れないように作られたような感じさえ伺えた。

「ここはガス室。初仕事は死体の始末だ」

「ガ、ガス室・・・・」

「死体の・・・始末だってっ!」

「そうだ。何か文句でもあるのか?」

「い、いえ・・・」

 SSは空恐ろしい事を当然のように言ったが、囚人たちは恐怖に慄いた。当然の事だが、今まで人間の死体など実際に目にした事などない。せいぜいテレビや映画の世界だけだ。この場所がガス室で、する仕事が死体の始末という事は、ガスで処刑された人間たちの死体が、この扉の向こう側にあるという事だ。ヴォルガも青年も思わず後ずさりした。激しい眩暈と吐き気が襲い掛かり、目の前が真っ暗になる。これから本当の死体を目にすると言う想像を絶する現実を受け止める事が出来ず、その拒絶反応が涙に変わり、顎がガタガタと震える。その度に歯がカチカチと音を立て、全身の力が抜けて行った。

 そんなヴォルガたちの恐怖を知る由も無いSSたちは、数人掛りで厳重な扉に手を掛け、そして開いた。

「こ、これは・・っ!」

「あああ・・・ああああ・・・」

 ヴォルガを含めた囚人たちは一様に呻き声を上げた。

 扉が開かれた瞬間、囚人たちの目に映った光景はまさに地獄絵図だった。ざっと数えただけでも数十名の人間が床に倒れている。その倒れ方がまさに異様な光景だった。

 空気よりも軽いガスは必然的に部屋の上へと溜まる。そのため部屋の下、つまり腹ばいなった床の部分はガスの密度が低くなる。おそらくその事を知っていたのだろう。殺された人々の死体は、折り重なるようにして積み上げられており、死体の山が部屋の至る場所に存在していたのだ。これは死んだ後に積み上げられたのではなく、ガスの密度が低い床スレスレの場所を求めた顕著な証拠だった。ほとんどの死体は目を大きく見開き、舌をダラリと垂らした状態だった。

「ああ、悪夢だ・・・こんなの人間がする事じゃない・・・」

「なんて事をしやがるんだ・・・」

 さすがの青年もこの現実を目の当たりにしたらSSへと恐怖など一気に吹き飛んだ。恐怖よりも憎しみが勝ったのだ。

 仕事だと言われ連れて来られた囚人たちに言葉は無かった。あるのは明確になったドイツ軍に対する憎しみだけ。他人とは言え同じユダヤの血を引く人種が、ガス処刑と言う残忍な方法で虐殺された。だがその現実が彼らを絶望の淵へと連れて行く。今回は免れたが、次は自分たちかも知れないのだ。「明日は我が身」とよく言ったものだが、まさにその言葉通りの世界がこのアウシュヴィッツなのである。

「この死体を全て焼却炉へ移動させる。二人一組になって死体を運べ」

 人情のカケラもない無慈悲な口調でSSがそう言った。焼却炉はこのガス室から北東の方角へ進んだ場所にある。死体の両手と両足を持って運ぶ事になる。

 SSたちの命令に逆らう事は死を意味する。その事を理解している囚人たちは即座に仕事に掛かった。一人ずつゆっくりとガス室に入り、その死体を二人で持ち上げ外に出した。

 ヴォルガは嫌な予感がした。胸を締め付けるような戦慄が走る。目を大きく見開きながら絶命しているが、死体の顔には見覚えがあったのだ。殺された人々はオシフェンチムの貨車駅で一緒に降ろされた人々だった。駅で選別され、ヴォルガとは別行動を取る事になったが、間違いなくヴォルガたちの一家と共にここへやって来た人々だ。

 オシフェンチムの駅でヴォルガだけが違うグループに分けられた。父と母、そして姉がどうなったのか分らない。ヴォルガは生きているが、他の家族はまさかここに・・・。

 ヴォルガは監視のSSを振り切り、強引にガス室へと入った。

「おい!どうしたんだよ」

 明らかに様子のおかしいヴォルガを見て、青年がその後に続いた。

「貴様ら何をしている!」

 後ろからSSの怒鳴り声が響く。だがその声はヴォルガの耳には届いていなかった。

 まさか・・・まさか・・・。

 激しい動悸が身体の鼓動を狂わす。心臓が破裂するほど膨張し、唸りを上げる。

 そしてヴォルガの嫌な予感は見事に的中した・・・。

「父さん・・・・・」

 まるでゴミを掻き分けるように人々を押しどけたその下に、父ヒューゴの変わり果てた姿があった。

「父さん・・・キミのお父さんなのか!」

 青年はヴォルガの後ろからそう言ったが、ヴォルガに返事をするだけのゆとりは無かった。

「父さん・・どうして・・・どうしてこんな事に・・・うわあああああああっ!」

 その瞬間、ヴォルガの中で何かが吹き飛んだ。ヴォルガは狂ったように床に拳を叩き付け、猛獣の雄叫びのような叫びを上げた。

「わああああっ!父さん!ぐうわあああ!」

 もし変わり果てた父の姿が穏やかなものであれば発狂もしなかっただろう。だが目の前にいるヒューゴの姿は見るに耐えない状態だった。

 まさに鬼の形相だった。この世に無念を残し、憎しみに煮えたぎりながら死んで行った苦悶の表情。見開かれた目に光は無く、何かを叫んで絶命したであろう口は大きく開いている。

「おい、しっかりしろ。落ち着くんだ」

 両手で頭を押さえながら狂ったように喚き散らすヴォルガに、青年は後ろから抱え込むように身体を擦った。

「貴様ら何をしている!さっさと仕事に移らんか!」

 数名のSSが駆けつけ、狂ったヴォルガに殴りかかろうとした。

「止めろ!」

「コイツ、何をする!」

 ヴォルガを殴るSSに青年が飛び掛った。

「彼の父親が死んだんだ。少しくらい待ってやっても良いだろ!」

 青年は叫んだ。

「誰が死のうと関係ない!時間厳守だ!守れないやつには罰が必要だぞ!」

「殴るなら僕を殴れ!」

「このガキがっ!」

「うわっ!」

 ヴォルガを庇った青年は逆にSSたちの集中攻撃に見舞われた。四方八方から手や足が飛んで来ては、身体の至る場所に痛みが走る。

 自分の後ろで、自分のせいで殴られている青年の存在はヴォルガにも分かっていた。凄惨な現実は目を向ければ目の前にある。父ヒューゴの絶命。それもガス殺しと言うあまりにも理不尽なやり方。発狂している自分の中に「このままで良い訳が無い」と強く思っている自分もまた存在した。父ヒューゴはもはや死んだ。殺されたのだ。その事実はどれだけ悲しんでも、発狂しても変わらない。

「止めろ!もう沢山だ!」

 ヴォルガは立ち上がり、青年を殴るSSたちを睨み付けた。もし今鏡があったら、そこには鬼よりも恐ろしい悪魔の顔が浮かんでいたに違いない。目から涙を流しながらも、全ての負の感情を宿したヴォルガの表情に、さすがのSSも黙るしかなかった。

 痛いほどの沈黙が流れる。殴られ続けていた青年は床でへばりながらヴォルガを見ている。身体に感じる痛みはあったが、それでもヴォルガが感じている家族の死と言う痛みに比べれば大したことは無いと、青年は静かに悟った。

「父さん・・・・」

 ヴォルガはゆっくりときびすを返し、父ヒューゴの頭を抱えた。そして大きく開かれた口を右手で閉じ、見開かれた両目をそっと閉じた。そこにあの優しく、そして厳しかった父の顔が蘇る。

 ヴォルガはヒューゴの腕を下から救い上げた。

「僕も手伝うよ」

 床に尻餅を着いていた青年が立ち上がり、ヒューゴの両足を持ち上げると、そのままヒューゴを焼却炉へと移動させた。

 この時、初めてドイツ軍のSSたちに疑問が生じた。本当にこんな事をする意味はあるのだろうか・・・。一体何のためにこんな事をする必要があるのだろう・・・。

 家族の死。その現実を目の当たりにした他の囚人たちの目にも、涙が浮かんでいた。



 ヒューゴとの別れはあっと言う間に訪れた。自分では時間を掛けたつもりだった。だが焼却炉は呆気ないほどすぐにその姿を現した。焼却炉は通常のサイズとは大きく異なり、人間一人が余裕で入れるほどの大きさを誇っている。全て鋼で出来ており、分厚い扉は可燃物の臭いを全て遮断した。

 処刑された囚人たちの焼却は三回に分けて行なわれた。一度に焼却できるのは八人まで。当然の事ながらヒューゴは最後の焼却で異国の地へと旅立った。

 焼却炉の扉が閉じると、もはや中の様子は見ることは出来ない。今この瞬間にも燃え盛る炎が父親を焼いていると思うと、ヴォルガは再び発狂しそうになった。目の前が真っ暗になる。ドス黒い闇が訪れる。視界が歪む。心が破裂する。ヴォルガの脳裏に父の勇ましい姿が鮮明に蘇った。父は常に笑顔だった。それほど口数の多い父ではなかったが、他の誰よりも家族を愛し、大切にしていた。仕事よりも家族を優先させるその優しさ。時に厳しく、時に暖かい態度で見守ってくれた父の強さ。ヴォルガがまだ幼かった頃、初めて船に乗ったとき「強くて、優しい男になるんだぞ」と言って、その大きな手で頭を撫でられた事があった。数年前にイタリアを襲った大地震のとき、逃げ遅れ、建物の中に閉じ込められたヴォルガを、自らの負傷も省みず、意の一番に助けに来てくれた父の姿。ヴォルガの心にいる父は常に強く、そして優しかった。何より父はヴォルガの憧れでもあった。

 そんな父が死んだ。殺されたのだ。たった一人の独裁政治のせいで、理不尽な死を遂げたのだ。かけがえの無い家族を、他の誰とも分らぬ輩に殺された。

 これ以上に無い強さで握られた拳から冷たい血が流れた。切り忘れた爪が手に平に突き刺さる。

 すると、いつの間にか隣に立っていた青年が、ヴォルガの拳を手に取り

「これ以上自分を痛めつけるな。あのお父さんから貰った身体だろ?大事にしなきゃ」

 と言ってヴォルガの手を優しく包んだ。

 その一言がヴォルガを救った。そして同時にせき止めていた涙が再び流れる。

 ヒューゴの身体を焼く煙が空に立ち込める頃、辺りは薄暗い闇に包まれ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ