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第三章 「有 罪」

ヴォルガが着ぐるみを剥がされ、寒さに耐え忍んでいる頃、オシフェンチムの貨物駅では更なる別れが待っていた。息子のヴォルガとは別のグループに分けられたヒューゴとカロン、そしてマレイはそこから更に男女別に分けられたのだ。

 別れ際にマレイが言った「愛している」と言う言葉がヒューゴの胸に響いた。娘のマレイは何が何だか分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 自分がどうなるのか、それも心配の種であったが、それ以上にヴォルガとカロンたちが気になった。ヴォルガと別れて既に一時間近くになる。駅の外では複数の車がアウシュヴィッツに向けて出て行く様子を、ヒューゴは駅の窓から偶然目撃した。その中にヴォルガの姿があった事を、しっかりと記憶している。それが今から一時間前だ。恐らくヴォルガは既にアウシュヴィッツに到着しているだろう。先ほど別れたカロンとマレイにしても、いずれ収容所へ向かう事になる。そして自分も。

だからと言って収容所で再会できるという保証は無い。脱走したユダヤ人の話に寄れば、収容所では数名のグループに分けられ、朝から晩まで過酷な労働をする事になると言う噂を耳にした事がある。寝床にしても非常に粗末な造りで、血縁同士の同室はSSの手によって避けられると言う話もある。そうなれば収容所内で同じ部屋になる可能性は限りなくゼロに近いし、ましてや同じ職場に着く可能性も極めて低いと言える。つまり家族の安否を確認する事は不可能と言う事だ。

 ヒューゴは強い憤りを感じた。一人の人間として、いや父親として家族の状況を把握する事が出来ないこの歯がゆさは親にしか分り得ないだろう。男の子一人、女の子一人の子供に恵まれ、暖かい家庭を築いてきた。ヴォルガにしてもマレイにしても、ヒューゴは分け隔ての無い愛情を持って育ててきた。家族内で問題が発生すると、危険で厄介な役は全てヒューゴが引き受けてきた。それも「我が子を守る」と言う強い親心から来ているもので、他の誰よりもヒューゴは家族を大切にしていたのだ。寂しい思いや不憫はさせたくないと言う確固たる思いは、全てヒューゴの生い立ちから来ているものだった。

 ヒューゴは内乱が激化するベトナムの戦時中に生まれると言う、類稀な過去を持っている。ベトナム戦線に赴いていたユダヤ人の父親と、介護婦として養護施設で働いていた母親との間に生まれた。ベトナムに戦火の火花が散ったのは、異なる民族同士の争いがその発端とされているが、ヒューゴの父もまさにその民族戦争の渦中にいたのだ。ヒューゴの生まれた場所も病院ではなく酒場の二階にあるベッドルームで、母親を介護したのも医師ではなく当時の友人たちだったと言う。

 ベトナムの内乱は日々激化して行った。外に出れば砲弾が飛び交い、道を歩けば地雷に吹き飛ばされる。食料も底を着く限界の状態が続き、その場での生活はもはや極限とされていた。

 ヒューゴが物心付いた頃には、生まれた場所はミサイルによって吹き飛ばされ、気付けば父親と母親を亡くしていたのだ。そのためヒューゴは自分の親の顔をまったく覚えていなかった。

 それからが地獄だった。奇跡的に生き延びた幼き日のヒューゴは、生まれ故郷にただ一人取り残されてしまった。何故なら他の人間は全てミサイルによって死んでしまったのだ。万が一の事があったら国境を目指せと村の村長が言っていた事を覚えていたヒューゴは、残骸と化した村から出来うる限りの食料をかき集め、隣のカンボジアを目指し歩き始めた。

だがそれはまだ幼いヒューゴには気の遠くなるような道程だった。

 村で調達した食料はわずか四日で底を着いた。幸いな事にジャングルには川が流れていたため水だけは何とか確保する事が出来たが、歩くために必要な体力は徐々に削られて行く。どうにかして食べるものを得る必要があった。まだ幼いとは言え、生に対する執着心は異常だったと言えよう。ジャングルには沢山の生き物が生息する。とりわけ一番遭遇し易いのが虫と蛇である。飢えに耐え切れなくなったヒューゴは木を這っていたムカデを素手で掴み、それを口の中へ押し込んだ。今ではもうあの時の感触は覚えていないが、お世辞でも美味しいとは言えなかった事だけは覚えている。

 ベトナムとカンボジアの国境付近に辿り着くまでの間、ムカデだけではなく、ゴキブリ、ネズミ、カエルなどを食べてどうにか生き延びた。だが、そんな虫たちの体の組織が人間の身体に合うはずも無く、ヒューゴは激しい腹痛で倒れ、やがて意識を失ったのだ。

 気が付くとそこは病室のベッドの上だった。

幼いヒューゴを診断した医師は、優しい笑みを浮かべながら「大丈夫かね?」と尋ねた。ヒューゴが「ここはどこだ?」と聞くと、医師はカンボジアの郊外にある病院だと答えた。

 医師の話に寄れば、国境付近にあるジャングルの中で倒れていたヒューゴを、カンボジアの陸軍が発見し、一番近かったこの病院へ搬送したと言う事だった。発見された事自体、奇跡に近かったらしい。

 医師はヒューゴが虫を食べていた事を診断によって見抜いていた。ヒューゴが意識を失っている間に体内に残っていた虫の残骸を全て取り出したと言われた。そして医師は暖かいおかゆとコーンスープを作ってくれ、ヒューゴに食べるようにと進めた。

 気付けばヒューゴは泣いていた。そしてこれまでの経緯を医師に全て吐き出し、その辛かった旨の内を語った。親を失って悲しかった事。とてつもなく寂しかった事を泣きじゃくりながら告白したのである。

 医師はそんなヒューゴの頭を撫でながら、ずっと話しに耳を傾けてくれた。

「元気になるまでここに居ると良い。これからの事はその後に考えれば良いさ」

 医師はそう言ってくれた。

 その日から医師との生活が始まった。医師の名前はトム・ファリール。ヒューゴは彼のことを「トム爺」と呼んで彼を慕った。

 トム爺との生活はその後十年ほど続いた。十八になったヒューゴは就職先の関係もあってイタリアのジェノヴァに渡ることになった。ヒューゴにとってトム爺は実の親も同然。それが故に別れの日は涙が止まらなかった。

「いつでも帰っておいで。待ってるから」

 あの時のトム爺の言葉は忘れる事が出来ない。

 ジェノヴァに移ったヒューゴが現在の妻カロンと結婚し、マレイとヴォルガが生まれると、ヒューゴはすぐにトム爺の元へ家族を連れて行った。トム爺はこれ以上に無いほどの笑顔を浮かべ「良かったな。良かったな」と何度もヒューゴを祝福してくれた。

 だがそんなトム爺も肉体を蝕む病には勝てなかった。今から四年前、親も同然だったトム爺はこの世を去った。

 幼い頃の苛烈な過去が、家族に対する愛情を増殖させた。小さい頃の自分が味わった悲しみや孤独を、自分の家族に味合わせたくない。笑顔の耐えない、幸せな家庭を作るんだという思いが、ヒューゴにとっての家族愛をより大きなものにさせていたのだ。

「これからアウシュヴィッツへと移動する。列を乱さず付いて来い」

 目の前に居たSSがヒューゴのグループに向かったそう言った。

 ヒューゴのグループは老人の姿が目立った。それに顔色の優れない者たちも大勢居る。ヒューゴ自身も心臓の病を抱えている事を考え合わせると、どうやらこのグループは何らかの病を持っている人々で構成されているようだった。

 駅の外は雪で埋め尽くされていた。どこを見渡しても一面雪景色。これが観光であればこの景色に感動さえしそうだが、今はそんな気分にはなれなかった。身体を貫くような寒さは尋常ではない。冷たい風が吹いており、老人ばかりで構成されているこのグループには、自然の拷問とも言える環境だ。

「時間が無いんだ。さっさと歩け!」

 脇を歩いていたSSがそう叫ぶ。だが、ただでさえ雪で足場が悪い上に、歩いているのが老人と来ればスムーズに移動出来るはずも無い。当然のように遅れを取る人々が数名いた。

「何してやがる。さっさと歩け。このユダ公がっ!」

「や、病に犯されているんです・・・どうか、もう少しゆっくり歩いてくだされ・・・」

「そんな余裕ねぇんだよ!早く立てや!このジジイ!」

「ぐうう・・・」

 SSの持っていた鞭がしなり、ユダヤ人の老人にぶち当てられた。

「俺らはお前らみたいなクズを扱うためにこうして寒い思いまでして働いてやってんだ。光栄に思え、このゴミヤロー!」

「う、うわ!」

 鞭は情け容赦なく老人に打ちつけられる。

 そんな光景を見て、ヒューゴは現場に近づき、倒れている老人に手を差し伸べた。

「なんだ、お前はっ!」

「大丈夫ですか?」

「あ、ありがとう・・・」

 ヒューゴはSSの声を無視して老人を立たせた。

「なんだなんだ?邪魔しやがったな、コノヤロー!」

 まるで喧嘩を売っているようにSSが近づいた。

「老人にまで暴力を振るう事はないだろう。見ての通り老人と病を患っている者ばかりだ。もう少し気を使ったらどうだ?」

 ヒューゴは毅然とした態度で言った。

「お前、俺らドイツ軍に楯突こうってのか」

 騒ぎを聞きつけた数名のSSが寄ってくる。このままでは自分が殴られる事は分っていたが、ヒューゴはそれを恐れてはいなかった。

「常に人間らしく素直に、真っ直ぐでいろ」

 この言葉は子育ての上でヒューゴが最も重点を置いた言葉だった。特に息子のヴォルガには五月蝿いほどそう言いながら今日まで育ててきた。決して集団に負けず、一人で戦えるだけの強さを持つこと。そして何より、悪い事は悪いとハッキリ伝える事を、ヒューゴは生きる上での心情としている。いくら自分が殴られる事になろうと、その恐怖や痛みに屈するヒューゴではなかった。

「別に楯突くつもりはない。ただ、老人を労われと言っている」

「どうせお前らは死ぬんだよ。労わる事なんて必要ねぇんだ!」

「ぐっ!」

 案の定SSの鞭と警棒がヒューゴの脇腹を捕らえた。

「生意気なヤローだ」

 そこに集まったSSは四名。その四名全員が次々とヒューゴに殴り掛かる。

「ぐうう・・・・」

「偉そうな事言ってた割には何もしねぇのかよ。おら、どうした?痛くて言葉も出ないのか?」

 嘲笑いながらも容赦ない攻撃が続く。身体の至る所から血が流れ出した。

 だがヒューゴは倒れなかった。膝を地面に着くことはあっても、すぐに立ち上がり、目の前に居るSSの目を睨み付けた。

「な、なんなんだ、コイツは・・・」

 さすがのSSたちも決して倒れないヒューゴのタフさ加減に驚いたのだろう。SSたちは殴り疲れたのか、四人全員が肩で息をしている。

「お、おい、もう行こうぜ。あまり遅れると所長が黙ってねぇ・・・」

「そ、そうだな・・・」

 所長・・・恐らくアウシュヴィッツの総督だろうとヒューゴは思った。

「ケッ!命拾いしたな」

 SSの一人がヒューゴに唾を吐きかけ、その足で最前列へと戻って行った。だがその足はもう関わり合いたくないと言う足取りが感じられる。

「うう・・・」

 SSが去ると、ヒューゴは心臓を右手で押さえながら嗚咽を漏らした。心臓の鼓動は早いが、どうやら発作だけは免れたらしい。

「大丈夫かい?すまなかったね、わしらが遅いばかりに・・・」

 先ほどの老人と、同じように歩みの遅いユダヤ人たちが自分たちを助けてくれたヒューゴの元に歩み寄る。

「大丈夫です。伊達に漁業はやってませんから。あんな連中の力よりも、息子の方が全然たくましい」

 ヒューゴは笑顔を浮かべながらそう言った。

「ありがとう・・ありがとう・・」

 老人たちはヒューゴの手を握り、何度もそう言った。

 これは最後まで決して屈せず、立ち上がったヒューゴの暗黙の勝利を意味していた。


 だがそんな勝利も無に返る運命にある事を、ヒューゴはまだ知らない・・・。



 歩く事約一時間半、ヒューゴたちはようやくアウシュヴィッツ強制収容所の入り口へと到着した。ARBEIT MACHT EFREI(働けば自由になる)の文字で作られたアーチが、嫌な雰囲気に拍車を掛けている。

 しばらくすると施設の中から明らかに上位に位置している人間と思わしき人物がこちらへ向かってきた。その姿を見たSSたちは一斉に姿勢を正し、敬礼のポーズを取った。どうやら下級SS隊員の上官のようである。

「そこで待機しろ」

 SSの一人がそう言うと、やって来た上官の元へ駆け足で歩み寄った。何かを話し合っている様子だった。

「ここがアウシュヴィッツ・・・こんなところで最後を迎えるのか・・・」

「こんなところで死ぬくらいなら、病でそのまま死んだ方がマシじゃ」

「せめて苦しむのだけは勘弁してもらいたいのだが・・・」

 取り残されたユダヤ人たちが口々にそう言った。

「まだそうと決ったわけじゃありません。最後まで諦めてはいけない」

 ヒューゴが諭すように言った。

「貴方はまだ若いからそう言えるが、わしらはそんなに長くない。この残された余生、死に様だけは自分で決めたいものだよ」

「病院にいるほうが良かったよ」

 ヒューゴは何も言えなかった。五十を過ぎているとは言え、ここに集まった老人や病を患っている人々からすればヒューゴはまだ若い。そんな自分が何故このグループにいるのか、その真意は分からなかったが心臓に病を抱えているのは確かだ。老人が言うように自分の最後は自分の望む場所でと言う思いは痛いほど良く分った。ヒューゴも人生の最後は家族の下で迎えたかった。

 ARBEIT MACHT EFREIのアーチを見ながらヒューゴは他の家族たちの事を考えた。ヴォルガやカロンたちは既にこのアーチを潜ったのだろうか。駅で軍事車両に乗せられたヴォルガを見ている以上、ヴォルガだけは既に辿り着いている可能性は高い。だが妻のカロンと娘のマレイだけはその消息が分らなかった。

 上官の下に集まったSSたちは依然話し合いをしている。時折聞こえてくる驚きのような声がヒューゴたちの不安を煽った。少々気になったヒューゴは、何気なく連中に近づき、耳を済ませた。するとわすかだが連中のやり取りが耳を捉えた。

「・・・と言うわけだ」

「それは所長の命令ですか?」

「いやそうではない。国の命令だ」

「そうですか」

「まあ妥当な判断だろう。予定は変更された。連中を例の場所へ連れて行け」

「はっ!」

 例の場所?ヒューゴは首を捻った。どうやら当初の予定は変更され、自分たちは別の場所へ移動させられるようである。

 しばらくするとSSたちが戻って来た。

「これより移動する。列に戻れ」

 SSがそう言うと、それまで列を崩し、話し合っていたユダヤ人たちが一目散に列を作り直し、整列した。無論、ヒューゴも列に戻った。

 ヒューゴはどこに行くんだ?と思わず声が出そうになったが、それを押し殺した。例え尋ねたところで素直に答えてくれるとは思えない。仕方なくSSの後に続き、歩き始めた。

 連行される場所が奇妙な場所である事を悟ったのは、それから三分も経たない頃だった。SSたちは赤レンガで出来た施設には入らず、それを通り抜けて施設内の端へと移動している。誰がどう見ても赤レンガの建物が収容されるべき場所だと思うのだが、当のSSたちは明後日の方角へ移動して行った。そして厳重な扉の目の前に来ると、先頭を歩いていたSSたちがきびすを返し、ヒューゴたちのほうへと居直った。

「到着だ。服を脱げ」

 SSの言葉で一気に動揺が広がった。

「服を脱げとはどう言う事だ?」

 勇敢にもヒューゴが聞いた。

「身体の消毒をするためにシャワーを浴びてもらう。そのために服を脱げと言っているんだ」

「さっさと言われた通りにしろ。死にたいのか!」

 SSがそう叫ぶと、もはや脱ぐ意外に手立ては無かった。拒絶したところで殺されるだけである。それなら言うとおりにするべきだった。

 だがヒューゴはシャワーと言う言葉に疑問を抱いた。消毒のためにシャワーを浴びるのであれば、赤レンガの施設内にだってシャワー室はあるはずである。こんな施設の端にシャワー室だけがあるとは思えない。それにここまで厳重な扉が施されているシャワー室など見たことも聞いたことも無い。頑丈さから察するに、これは外に何かが漏れないために作られた扉である事は一目瞭然だった。

「おい、お前」

 一人のSSがヒューゴの目の前に警棒を差し出した。

「何ボケッとしてんだ。さっさと脱ぐんだよ。それともこの警棒で殺されたいか?」

 我に返ったヒューゴが見ると、自分以外の人間は全員服を脱ぎ終わっていた。この極寒お気温の中、老人や病を患った人々が今にも凍えそうな体制で中に入るのは今かと待ち構えていた。

 ヒューゴも言われたとおり服を脱いだ。身を削るような凍て付く風が突き刺さる。

「よし、中に入れ」

 二人のSSが厳重な扉を開け、全員を中へ押し込んだ。

 部屋の中には確かに水やお湯が出てくるシャワーの噴射口が並んでおり、外に比べるとかなり暖かい。壁は白く、所々にひび割れがあるものの作りそのものはしっかりしていた。

「もっと奥へ進めっ!」

 背後から押されるように、人々は無理矢理奥へと押し込まれた。部屋の広さに対し、そこに入れられた人々は明らかに定員オーバーになっており、満員電車さながらのすし詰め状態になると、さすがに立っているのが辛くなった。

 もうこれ以上は入らないと言う状況になったとき、扉がドカンと言う鈍い音を立てて閉まった。

「おい、これでどうやってシャワーを浴びろと言うんだ」

「身動きが取れないじゃないか」

 その通りだった。こんな状態で噴射口からシャワーが出ても、どうやって身体を綺麗にしろと言うのだろう。それほどまでにぎゅうぎゅうに押し込められ、空気が薄くなっていた。

 ヒューゴは嫌な予感がした。それは天井に四角く縁取られた開く穴を目をにして、以前脱獄したユダヤ人が言っていた話を思い出したからだ。

 脱獄したユダヤ人の話によると、アウシュヴィッツには働けない人間を始末する焼却炉の他に、大勢の人間を瞬時に始末するガス室が存在すると言う。そのガス室では消毒のためにシャワーを浴びろと言われ、裸にされ無理矢理部屋に押し込められると言う話を、ヒューゴは完全に思い出したのだ!

「逃げろっ!この部屋から出るんだ。ガスが充満するぞ!」

「な、なにっ!」

 ヒューゴがそう叫んだ時だった。

 天井の四角い扉が一気に開き、その穴から有毒ガスが込められているガス管が四つ投げ込まれた。それと同時にガス管から白いガスが噴射され、部屋の中は一瞬で真っ白に染まった。

 これが後に語り継がれる、悪名高き有毒ガス、「チクロンB」またの名を「ザイクロンB」である。

「うわあああっ!た、助けてくれぇ!」

「し、死にたくねぇ・・・死にたくねぇ」

「誰か!誰かいないのか!ゴホッ!ゴホッ」

 閉じ込められていた人々が一斉にドアへと詰め寄る。しかし、ただでさえ人が多すぎる上にすし詰め状態である事が災いし、中々前へ進む事が出来ない。

 そうしている間にも生命力の低い老人たちがあちこちでバッタバッタと倒れて行く。有毒ガスに含まれる毒性物質のせいで、白目を剥き出し、舌をダラリと垂らしながら絶命して行く。

「くそっ!」

 ヒューゴは右手で口元を押さえ、すぐ隣で倒れて行く人々を押し退け、体制を低くした。だが、低くするにも収容されている人間の数があまりにも多すぎるため、床に這い蹲う事が出来ない。仮に伏せる事が出来ても、真上から倒れてくる人間たちの重さであっと言う間に圧死してしまうだろう。

 一人、また一人と床に倒れ死んで行く。ガスが部屋の上に溜まる事を知っている人々は、皆下の方へと体制を低くする余り、途中で力尽きた人々が折り重なり、まるで座布団のように死体が重なって行った。

 ヒューゴはそれでも力を振り絞り、ドアへと進んだ。だが時間と共に上に溜まっていたガスも下へと降りてくる。ヒューゴは自分の身体が痺れて来るのを感じ取った。

 無念・・・まさにそれだった。言葉に出来ないほどの怒りと憤り。そしてあまりにも理不尽な現状にヒューゴの目から涙が零れた。


「何故だ・・・何故自分たちが、ユダヤの血を引いているだけで殺されなくてはならないんだっ!うおおおおっ!」



 ヒューゴの最後の叫びが途絶え、部屋に静寂が訪れるまで、二十分と掛からなかった。


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