第二章「地獄の入り口」
「何をするんだ!止めろ!」
「五月蝿い!これ以上騒ぐと殺すぞ」
「くっ・・・・」
SSが持っていたバリカンが今にも壊れそうな鈍い音を立てて、ユダヤ人の髪の毛を刈って行く。ヴォルガの前にいたユダヤ人の青年は抵抗したが、凶器の前では従うしかなかった。
「そおら、完成だ。なかなか似合ってるぜ。クソユダヤ人がっ!」
スキンヘッドになった青年を見て、SSは嘲笑いながら彼の頭を叩いた。すると、周囲にいた他のSSたちもゲラゲラと腹を抱えながら笑い始めた。
「・・・いつか殺してやる・・・」
「ああん?今なんか言ったか?」
恐らく青年の声は聞こえなかっただろう。SSは小ばかにするような口調で顔を覗き込んだ。
「ガタガタ抜かすんじゃねぇよ、このゴミヤローがっ!」
「ぐわあっ!」
SSは青年の腹に強烈な蹴りを打ち込んだ。青年は痛みで蹲った。
「お前らユダヤは生きてる価値もねぇんだよ。それをこうして生きさせてやってんだ、ぶつくさ言ってんじゃねぇよ!」
SSがそう言うと先ほどと同じように他のSSたちが「そう言う事だ」と、さも言いたげな表情でユダヤ人たちを見下した。
だが当のユダヤ人たちはそれについて反論しようとはしなかった。したところで殺されるだけである。そうであればやり過ごし、少しでも生き延びる選択を選ぶ。自分一人で抵抗したところで何の意味もない事を、ここにいる全員が分かっていた。自分たちは今、アウシュヴィッツ強制収容所のすぐそばまで来ている。アウシュヴィッツが何を意味するのか、それをこの場に居る全てのユダヤ人が知っているのだ。そうであればもはや抵抗する事自体、無意味だった。
「次、お前だよ。さっさとこっちへ来い」
「あ、はい・・・・」
そばで蹲る青年に気を取られ、次が自分の番であることをヴォルガはすっかり忘れていた。少々緊張しながらSSの前に中腰になった。
「ヘヘ、さっきのヤツとは違って大人しいじゃねぇか。偉いぞ、抵抗しても無駄なんだからよ」
「・・・・・」
SSのバリカンによって刈り取られた髪の毛が地面に落ちていく。ヴォルガはやりきれない思いを感じた。自らの意思で散髪屋に行くならともかく、何処の誰だか分からない人間に頭を触られ、髪の毛を刈られると言うのはかなり不快だった。ユダヤ人と言うだけで軽蔑するSSよりも、こうして地面に落ちていく自分の髪の毛の方がよっぽど尊く、高価なものであるような気がしたのだ。
そう思うと泣けてきた。自分の恥ずかしい部分を凝視されているような劣等感がヴォルガを襲った。膝の上に置かれた両手に自然と力が入る。
「何だか説教されてる坊主みたいだぜ」
「ぐははははっ!」
「ママ、ちゃんと宿題やるから怒らないで」
SSの一人が皮肉った。
「アハハハ、上手いジョークだ」
SSたちの高笑いが響く。
ヴォルガは今すぐにでもこのSSを殴ってやりたい衝動に駆られた。強く握られた拳がワナワナと震える。かつてこれほどの屈辱は味わったことが無かった。
「おら、完成だぜ。お坊ちゃん!」
ヴォルガの頭を刈ったSSはヴォルガの頭をペンペンと叩いた。ヴォルガは何も言わず列に戻った。
「ちゃんと宿題やれよ」
「ギャハハハ」
SSたちの嫌味な皮肉が背中に突き刺さった。
そしてヴォルガも先ほどの青年と同じ感情が込み上げてきた。
「この連中をいつか八つ裂きにしたい」
だがその思いも、このアウシュヴィッツでは無惨にかき消されるだけだと言う事を、ヴォルガ自身も分かっていた・・・。
ヴォルガたちのグループ全員の頭を刈るのに一時間と掛からなかった。この寒い中、スキンヘッドにされたヴォルガたちの身体に、頭を伝い、冷たい空気が浸透する。
ヴォルガは駅の柱にある温度計に目をやった。温度計は零度ジャストを示している。まだ昼間だというのにこの寒さだ。夜になったらマイナスにまで下がる事は言うまでも無いだろう。おまけに東から吹く風がより一層の寒さを運んできた。いくらコートを着ているとは言っても、外に出ている以上、耐えられる寒さにも限界があった。
「これよりアウシュヴィッツ強制収容所へと移動する。各自指定された軍事用の貨物車に乗り込め」
駅の外ではユダヤ人たちを連行するのに必要な軍事用の貨物車が待機していた。SSの引率によって車に乗せられると、ベルトも何もしないまま車は走り出した。
遥か前方に巨大な収容所が見える。収容所はいくつかの棟に分かれており、その数は見渡すだけでも有に三十は超えている。周囲は高い塀で囲まれており、その上には有刺鉄線が張り巡らされている。塀の高さは四メートルくらいはあるだろう。とても人間が飛び越えられるような高さではない。
ほとんど舗装されていない道を走行しながら、ヴォルガは駅で別れた家族の事が気になって仕方が無かった。ドイツ軍は何かを基準にして人々を選別した事は確かだが、一体何を基準に分けたのだろう。今頃三人は何をしているのだろうか。自分と同じように収容所へ向かっていれば良いが・・・。
不穏な思考は尚も続いた。自分だけが他の三人とは別のグループに分けられた事が、死と言う最悪の結末を連想させる。父は心臓に病を患っている。普通に生活するのであれば何の問題も無いが、無理をすれば発作を起こし、寿命を縮める事になってしまう。女である母親のカロンとマレイはどうなる。死ぬのであればせめて家族と一緒に居たい。そんな思いがふつふつと湧き上がると、ヴォルガの心にいかんともしがたい怒りが込み上げてきた。
母のカロンは「罪を憎み、人を憎まず」と言う言葉を好んで使った。争いは悲しみを生むだけで、何の特にもならない。例え自分が嫌な思いをしても、それと同じ事を人にしてはならない。どんな人間も自分たちと同じ人間。常に優しく親切に接する事。カロンはヴォルガが幼い頃からそう言っていた。ヴォルガ自身もそう言うものなんだと思い、それを信じて止まなかったが、今の現状はまるでその教えを根底から裏切るような現実だった。ユダヤと言うだけで差別し、罵るドイツ軍。人種が違うだけで、同じ人間である事に変わりは無いのに連中はユダヤを憎んでいる。そんな人々に対し「人を憎まず」なんて道理は通用しない。自分は今、とても人間の扱いとは思えない仕打ちを受けている。これに対し不平を述べることすら出来ない現状に、負の感情を抱くなと言う方が酷だった。
出来る事なら家族の下へ戻りたい。そう思っているうちに強制収容所はその姿を露にし始めた。
「到着だ。さっさと降りろ」
貨物車は収容所の前で停車した。SSの命令通り、一人ずつ静かに降りて行く。凹凸の激しかった道を走っていたため、ヴォルガの腰は酷く痛んだ。
駅で感じた寒さはここに来てより一層酷いものとなった。東からの風は止んだが、明らかに駅周辺よりもこの場所の方が気温は低かった。曇っているせいで太陽は姿を消し、凄まじい寒さが漂っている。
「寒い・・・こんなコートじゃ役に立たないくらいだ」
「こんな場所で生活するのかよ・・・」
「凍え死んでしまう・・・」
それまでほとんど黙っていた人々も、この過酷な環境に早くも根を上げ始めている。強制収容所と言うくらいだ、施設の中に暖房があるとは思えない。ここに来たからには囚人と同じ扱いを受ける。防寒の行き届いた服があるとは思えないし、暖かい食事が待っているとも思えない。自分たちを待っているのは地獄絵図にも似た熾烈な生活だ。まさに生きるか死ぬかの環境であろう事は容易に想像が付く。
「付いて来い」
一人のSSがそう言い、施設に向かって歩き出した。ヴォルガたちは二列に並び、その後を歩いた。自分たちの前後左右には護衛のSSが数名おり、常に銃を構えながら注意を促している。歩くのが遅いと容赦なく蹴り上げ、「素早く歩くように」と叫ぶ。少しでも列を乱すと、鞭で叩かれる。もはやヴォルガたちには歩く自由すら拘束されていた。
地面が見えないほど積もった雪の上を普通の靴で歩く事は実に困難だった。水分を多く含んだこの地域の雪は固まり易く、おまけに通常の雪よりも硬い。さらに気温が低い事も手伝って、雪はなかなか溶けないのだ。踏みしめる場所全てが雪であり、シャーベット上になっている場所は一つも無かった。雪に足を取られ、それを見たSSから蹴り上げられる。ただ歩いているだけなのに・・・。
どうして?と言う疑問が浮かぶたびに、ヴォルガはこの場から逃げ出したくなった。
しばらくすると、それまで彼方にあった強制収容所の全貌が明らかになってきた。それは高い塀に囲まれた施設であり、同時に地獄の入り口のようにも見えた。
収容所の入り口には、ARBEIT MACHT EFREI(働けば自由になる)と書かれたアーチがそびえ立っている。満面の笑顔で「ようこそ」と言っているつもりなのだろうか。だとすれば洒落にならないジョークだ。ここまで来ると皮肉と言うより嫌味に近い。ヴォルガにはこのアーチが自分たちを馬鹿にしているように思えた。
嫌味なアーチの奥には赤レンガで作られた三十を超える棟の群れが待ち構えていた。ヴォルガを始め、連行されたユダヤ人たちは、物珍しさと言うより、アウシュヴィッツの悪名における禍々しさを肌で感じ取っていた。塀の上にはやはり有刺鉄線が設置されており、時折風に揺られてバチバチと火花を散らしている。恐らく高圧電流が流れているのだろう。万が一触れたら一瞬で黒こげだ。
先頭を歩くSSは施設の中へと進んで行った。歩行が困難な雪と、身を切るような寒さが体力を徐々に奪って行く。通常なら大した距離ではないが、この大雪のせいでヴォルガは既に疲れ切っていた。
やがて先頭のSSが一つの棟の中に入った。ヴォルガたちもそれに続き、施設の中へと入って行く。
「ここで止まれ」
部屋の中央でSSが立ち止まり、後ろへきびすを返すと、全員が部屋の中に入るのを確認した。
「うわ、部屋が水浸しじゃないか」
「冷たい・・・足が凍りそうだ」
足首が水に浸ってしまうほど、この部屋は水浸しになっていた。何故水浸しなのかは分からないが、その水がマイナスの気温によって急激に冷たくなり、足に伝う冷たさはもはや拷問のような冷たさだった。
「全員服を脱げ」
「な、なにっ!」
突然SSが信じられない事を言い出した。
「冗談じゃない。こんな気温の中で裸になれと言うのか」
「それこそ本当に凍え死んでしまうじゃないか」
他のユダヤ人が口々に不満を漏らした。
「人間する事じゃない・・・狂ってる」
ヴォルガもSSに聞こえないように小声で呟いた。
「凍え死にだろうと何だろうと、最終的にお前らは死ぬんだ。遅いか早いかの違いだが、今すぐ死にたくなかったら言うとおりにしやがれ」
「くっ!・・・」
SSの情け容赦ない発言が耳を突く。
だがここで抵抗しても銃の餌食になるだけだった。一人、また一人と渋々服を脱いでいく。
「寒い・・・・」
「本当に死んでしまう・・・」
丸裸になったヴォルガたちには、陰部を隠せるような物は持っていない。それどころか少しでも寒さを凌げるような場所も無く、出来る事と言えば、せいぜい両腕を擦る事だけだった。
衣類を全て脱いだヴォルガの肌にも、強烈な寒さが突き刺さる。床に浸っている水の冷たさが足の感覚を完全に麻痺させ、凍傷になりそうな寒さが襲い掛かった。
「ここでしばらく待機しろ。無断で外へ出るなよ」
SSはそう言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
「一体何のつもりなんだ」
「寒い・・・早くしてくれ・・・」
素肌をさらけ出したユダヤ人を包む寒さはもはや尋常ではなかった。この部屋にはドアが付いておらず、開け放たれた入り口から冷たい風が吹き込んでくる。だが、部屋がレンガで囲まれている分、外に出るよりもいくらかマシだった。
「水・・・飲みてぇな・・・」
一人のユダヤ人がそう言った。
寒さと恐怖ですっかり忘れていたが、ここ三日間、ヴォルガたちは水を飲んでいなかった。軍用列車に押し込められ、食べるものなど与えられずに過ごしてきたのだ。今は寒さで空腹は紛れているが、渇きだけはどうにもならなかった。
「この水は飲めないかな・・・」
痺れを切らした一人のユダヤ人が身を屈め、足元の水へ顔を近づけた。ヴォルガも同じように身を屈め、水の様子を確かめた。
だが床に浸っている水はどう見ても純粋な水とは思えなかった。水にしてはずいぶん濁っているし、心なしか異臭がする。恐らく汚水であろう。とても飲めるような水ではなかった。
「これじゃまるで拷問だぜ。俺たちが水を飲んでいない事は連中だって分かっているはずだ。それなのに、この仕打ちかよ」
一人の男が怒りで水を蹴り上げた。
しかしその男の言った事は的を得ている。自分たちが渇きに苦しんでいる事を知りながら、あえて汚水の浸る部屋に連行したとしか考えられなかった。小さい事のように思えるが、こうした精神的なやり方は人を狂わすのに十分な殺傷能力を持っている。これもドイツ軍のやり方だと判断して良いだろう。
「水をくれ・・・・渇きで死にそうだ」
部屋を出る事も出来なければ、水を飲むことも出来ない。更に丸裸の身体に凍て付く寒さが突き刺さるこの状況に、ヴォルガたちは待つことしか出来なかった・・・・。