最終章 「希望と救いの銃声」
あれからどれくらいの時間が過ぎただろうと思いを馳せてみる。激戦と化していた戦場からはもはや何の音も聞こえない。あれだけの爆音が全て止み、今は不気味なほどの静けさが漂っていた。
外の静けさはバラックの中にも浸透している。自らが音を発しない限り、聞こえてくるのは五月蝿いほどの静寂。金属音にも似た静寂が、全ての悲しみを洗い流してくれるようだった。
夜が明けた。バラックの通路にある窓から眩いばかりの光が煌々と差し込み、今日も太陽が空に存在する事を示している。きっとバラックの中も明るいだろう。瞼を閉じているヴォルガはそう思った。
まるで夢のような感触から目覚めるように、ヴォルガは静かに目を開いた。そして何度か瞬きを繰り返す。視界を遮る瞼の動き。そして目の前で横たわる親友の姿。ヴォルガは自分の手を見つめた。酷く汚れているが自分の意思で動く。自分が生きている事を確認するように何度も指を動かした。
ヴォルガは生きていた。いや、生き残ることに成功した。今自分がいるバラックにどれだけの生存者が残っているかは分らないが、少なくともヴォルガは生きていた。だが、生き延びた事に対する嬉しさは無かった。
例えヴォルガは生き延びても、目の前で横たわる親友の事を思うと、計り知れない悲しみが押し寄せてくる。友が絶命する瞬間は今でも脳裏に刻み込まれている。つい先ほどまで続いていたであろう爆撃の嵐も、瞼を閉じれば鮮明に蘇るのだ。
ヴォルガはずっと友の手を握っていた。どれだけ彼の名を叫ぼうと、帰ってくる返事は無いと分っていた。だがそれでも彼の手を離すことは無かった。時間が経つごとに硬直していく友の身体。その手を、まるで雨のように降り注ぐ銃撃やミサイルの爆撃の中、ずっと握り締め離さなかった。出来れば爆撃で自分も死んでしまいたかった。そうすれば天国でファビオに会えるような気がしたのだ。ヴォルガは自らの死を完全に覚悟し、ずっとその場を離れなかった。だがその潔さにも似た覚悟が奇跡を生み出し、ヴォルガは最後まで生き残った。今思えばファビオが自分を守ってくれたのかも知れない。そう考えると、一時とは言え死を考えた自分が恥ずかしかった。
いろいろな場面が浮かんだ。ファビオの笑顔、仲間たちの言葉。あの後ガルバドとクアーリがどうなったのか分らないが、あの激戦を考慮し、彼らを追って行ったSSの事を考えると、脱獄に成功したとは思えない。無論、その死を確認したわけではないが、生存している確率は極めて低いだろう。脱獄を試みた人間に死が訪れ、そこから戻ったヴォルガが生き残るとは、何と皮肉な話だろう。
「ファビオ・・・・・」
無情な現実は目の前にある。
もう目を開かない事は分っている。だがヴォルガはファビオの名を呼ばずには居られなかった。木製のベッドでファビオは静かに眠っている。先ほどは気付かなかったが、ファビオの顔はとても安らかな表情だった。まるでヴォルガが生き延びた事を喜んでいるように・・・。
バラックの通路で誰かが走り回る足音が響いた。それは一人ではなく、複数の足音だ。その音は徐々に大きくなり、ヴォルガの居る部屋の前で止まった。そしてガチャッという音を響かせ、迷彩服で身を包んだ一人の軍人が入って来た。
「おい!生存者が居たぞ!」
男は通路にいる仲間たちに声を掛けると、持っていたマシンガンを後ろへ回し、ヴォルガに近寄って来た。
身形や迷彩服から察するに、それはソ連軍の兵士だった。
「大丈夫かい?僕はソ連軍の兵士だ。この強制収容所は我々によって解放された。君たちももう自由だ」
男はそう言ってヴォルガの肩に手を置いた。
「何故・・・・」
ヴォルガは静かに呟いた。
「えっ?」
「何故・・・何故なんの罪もない人間が殺されなきゃいけないのですか」
「それは・・・・」
突然の質問に男は言葉を失った。彼もまたしたくてした戦争ではないのだ。
「僕たちがユダヤの血を引いているから悪いんですか・・・。ユダヤ人はそんなに醜いんですか・・・。ユダヤ人は悲しみを背負うために生まれて来たんじゃない。他の人々と同じように、平和に、幸せになるために生まれて来たと言うのに・・・どうしてこんな酷い事が起こるんですか・・・」
男は何も言えなかった。手を置いたヴォルガの肩が激しく揺れている。真後ろに居てもヴォルガが涙を流している事が分かったからだ。
ヴォルガは大粒の涙を流しながら尚も続けた。
「僕たちユダヤだって他の人々同じ人間です。それなのにどうしてこんな目に合うんですか。悪い事なんて何もしていないのに・・・」
「もうそんな時代はやって来ない」
ようやく男が口を開いた。
「ドイツ軍は我々ソ連軍によって制圧された。ヒトラーが仕立て上げたナチスドイツも、人種法も、全て終わったんだ。これからは平和な時代がやってくるはずだ」
男は諭すように落ち着いた口調でそう言った。
「そう願います・・・でなきゃあまりにも酷すぎる・・・」
ヴォルガはファビオを見ながら言った。
「さあ行こう。君はもう自由なんだ」
男はヴォルガの肩から手を離し立ち上がった。
「彼と・・・友達と一緒に出ます・・・」
ヴォルガはベッドで横たわるファビオを抱き上げた。それを見ていた男はバラックの扉を開け、ヴォルガとファビオが出るのを見送った。
バラックの外には大勢のソ連軍兵士がヴォルガたちを手厚く保護した。既に死んでいるファビオをソ連軍は引き取ろうとしたが、ヴォルガはそれを断固として拒絶し「二人で行きますから」と言って、ファビオを抱き上げたまま出口へ向かった。
ソ連軍の兵士は誰一人ヴォルガを止めなかった。皆ヴォルガに道を譲り、その後姿を静かに眺め、改めてこの戦争が終わった事の意味を知った。
バラックの外は太陽の光が眩しく照らしていた。
「ファビオ、出られたね」
そう言うと、ヴォルガはソ連軍が用意した車両に乗り込み、朝日の眩しい自由な世界へと戻って行った・・・・・。
2
「と、言うお話じゃ。おとぎ話のようにめでたしとは言えないけど、こういう歴史があった事を皆忘れちゃいけないよ」
今年で八十九歳になったヴォルガは、それまで朗読していた本を閉じ、孫のクリスティとアンディにそう言った。
「ねえねえ、この本に出てくる男の子ってオジジの事なんでしょ?」
オジジとは孫から呼ばれているヴォルガの呼び名だった。あまり良い呼ばれ方ではないが、孫が言う分には問題なく、むしろヴォルガ自身も気に入っていた。
「そうだよ。オジジは数少ない生き残りだからね」
「ふーん。この本を書いたのもオジジなんだよね?」
「そう。自分が体験した事を、そしてあの時代アウシュヴィッツで何が起こったのかを残そうと思ったんじゃ」
「なんていう本なの?」
今度はアンディが聞いた。アンディは父親のマイクに似て口数は少ない。
「希望と救いの銃声。今度は自分で読んでみるかい?」
「やだよ!」
「イヤ!」
クリスティとアンディは同時に首を振った。
「一人で読んだら怖いもの。私夜眠れなくなっちゃう」
「フフフ、そうかそうか。今はもうそういう時代じゃないからね。だけどね、アンディ、クリスティ」
ヴォルガは椅子から立ち上がり、本を机に置くと、中腰になり、アンディとクリスティの頭を撫でた。
「アウシュヴィッツの歴史だけは繰り返してはならないんだ。戦争と言うのはとても悪くて酷い事なんだよ。だから絶対にしちゃいけない。人を虐げるような事は、そこにどんな理由があろうと許される事じゃないんだ。二人ともそれだけは忘れないでおくれ」
すっかりシワだらけになった優しい笑顔でヴォルガがそう言った。
「分った!私そんなことしないよ!皆と仲良くするの」
「人を殴るようなヤツは僕が許さないさ」
クリスティとアンディは幼いながらも小さな正義感を持ってそう言った。
「うんうん。それが一番じゃ。さあ、もう寝ようか。あまり起きているとお父さんとお母さんに叱られてしまうからね。二人ともベッドに戻ろうか」
「はーい!」
とても今から寝るとは思えないほどの元気な声で二人はそう言うと、寄り添い合う様にベッドに入った。
「じゃ、ゆっくり寝るんだよ」
「うん!ねえオジジ」
アンディが聞いた。
「なんだい」
「オジジは辛くない?大切な人を失って辛くないの?」
「うーん、あの当時は辛かったけど、仕方ない事だからね。失った命は決して戻らないから。今はアンディとクリスティがいるんだ。悲しいわけないさ」
ヴォルガは二人の頭を優しく撫でた。
「また本読んでね」
「ああ、良いとも。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
ヴォルガは部屋の電気を消し、部屋を後にした・・・。
明かりの消えた部屋で机に置かれた一冊の本、「希望と救いの銃声」は何も言わず、ただただ平和な一時が続く事を祈るようにその役目を終えた。
そして夜が明けると共に、太陽の日差しが部屋を明るく照らした・・・・。
了