第十五章 「消えた蝋燭」
「クソッ!このままじゃ死んじまう」
ガルバドの前方ではクアーリを攻撃するSSの姿が徐々に迫りつつあった。このままではクアーリは射殺され、間違いなく自分たちの方へやって来るだろう。そうなったら脱獄も何もない。絶対的な死だけである。
そんな状況はヴォルガも分かっていた。だがそれでも身体が動こうする行為を拒絶していた。それは死の恐怖ではなく、友の死に対する深い悲しみだった。自分の目の前でたった一人の友が、戦友が苦しんでいる。今にも消えてしまいそうな蝋燭の炎が、精一杯の力でその炎を燃え滾らせている。そんな痛々しい姿を見て、ヴォルガの身体は酷い無力感に包まれていた。
「ヴォルガ・・・・」
声を出さず、ただただ大粒の涙を流しているヴォルガを見て、ガルバドは意を決した。
「ヴォルガ・・・ファビオを連れてバラックに戻れ」
「ガルバド・・・・」
「俺たちがSSの注意を引き付けるから、その間に戻るんだ!」
「だけどそれじゃガルバドたちは・・・」
ヴォルガは動揺した。今まで何とかやってこれたのはガルバドの貢献が大きい。そのガルバドと離れるのはリーダーを失うに等しかった。
「俺がこう言うのもなんだが・・・・・」
ガルバドは少々照れ臭そうに続けた。
「お前たちのおかげで俺は最後まで人間らしくいる事が出来た。ありがとよ。良いか?絶対に死ぬな!絶対に諦めるな!生きてここを出るんだ。そして外でまた会おう」
「ガルバド!」
それは別れの言葉のようにも聞こえた。
ガルバドは何も恐れず立ち上がると、前方にいるSSを睨み付けた。
「ヴォルガ、ファビオ」
自分たちの名を呼ばれ、二人はガルバドを見上げた。
「短かったが楽しかったぜ。死ぬんじゃねぇぞ!」
そう言うとガルバドは丸腰のまま前方へ走り出した。
「ガルバド!無茶だ、よせ!」
「ガルバド!」
ファビオも渾身の力を込めて叫んだ。しかし、容態は更に悪化の一途を辿っている。もはや表情に血の気がない。
「ヴォルガ・・・君まで残る事は無い。行くんだ。ここを出て・・・自由を掴むんだ」
ファビオの声は今にも消えそうなほどか細いものだった。
ファビオはヴォルガにそう言った。しかし、ファビオを置いていく事など出来るわけがない。二人一緒に出なきゃ意味が無いのだ。ガルバドが決心したように、ファビオが動けなくなった時点でヴォルガの決心もまた決っていた。
「君を置いて自分だけ行こうなんて、僕には出来ないよ」
そう言うとヴォルガは右手の甲で涙を拭うと、襲い来る死の恐怖を超越したような顔付きになり、静かにファビオの身体を抱き上げた。
「ヴォルガ、何を・・・・」
「しっかり掴まってて。行くよ」
「ヴォルガ!」
「うおおおおっ!」
ヴォルガは両腕でファビオを持ち上げたまま、猛然と走り出した。その方角は排気口ではなくバラックだ。まるで最後の力を振り絞るように、叫びながら猛然と疾駆した。
「ヴォルガ・・・・どうして」
「君を置いていくなんて僕には出来ない。友達じゃないか!」
「ヴォルガ」
今まで悲しくて泣いた事は何度もあった。だが嬉しくて泣いた事はファビオにとってこれが初めてだった。
「友達」この一言こそが生きる希望ではないか。
後方でかつてない銃声が木霊した。方角から察するにガルバドとクアーリが向かった方角だ。二人の事が気になったが、今はファビオを連れてバラックに戻るのがやっとだった。
途中、走るヴォルガの足元で周囲の土が何かに弾かれ舞い上がった。最初は自分の駆ける足によって土が浮いているのだと思ったが、そうではなく、自分が銃によって狙われ、迫撃を受けている事に気づいた。振り返るゆとりが無かったため、誰が撃っているのか分からないが、ドイツ軍だろうとソ連軍だろうと、自分の命が狙われているという事に何ら変わりは無い。ヴォルガは無我夢中で走った。銃弾が足の甲をかすり、血を流している事にも気付かずに。痛みなど感じなかった。自分よりもチフスで苦しんでいるファビオのほうがよっぽど痛いのだ。少しでも早く、出来るだけその痛みを和らげて上げたい。友達として、いや、親友として・・・・。
気が付くとヴォルガはアウシュヴィッツの最北端まで来ていた。ここも戦火の炎で包まれており、攻防は激しかったが、目の前にあるバラックは周辺に立っているバラックよりも外傷は小さなものだった。最も、飛行する戦闘機のミサイルによって攻撃される事を考えれば、どのバラックに居ても状況は同じだったが、それでもヴォルガは周囲を見渡し、一番ダメージの少ない目の前のバラックに入った。
バラック内は騒然としていた。ソ連軍の侵略に怯える者。狂ったように祈りを捧げる者。ベッドの下に隠れ実を小さくする者。生き延びるためにバラックの外へ出て行く者などで溢れ返り、通路は囚人でごった返していた。
「待ってて、今ベッドの空いている部屋を探すから」
「気をつけて・・・外から・・・銃弾が飛んでくるかも知れない・・・から」
「ああ」
ファビオの指摘通り、窓の外には既に肉眼で確認できる距離にソ連軍が迫っていた。
ヴォルガは溢れ返る囚人たちを掻き分け、ベッドの空いている部屋を求めて奥へと進んだ。座り込んでいる囚人が邪魔で思うように歩けない。加えてソ連軍の攻撃によって地鳴りが激しくなり、小さな地震が小刻みに巻き起こる。痛みは感じないものの、ファビオを抱きかかえる腕はそろそろ限界に近かった。
激しい爆発音と共に大地が揺れる。その揺れの中を必至で進むヴォルガの目に、誰もいない部屋が飛び込んできた。
「ここなら大丈夫だ」
藁にも縋る思いで部屋に飛び込むと、ヴォルガは割と綺麗に整っているベッドを選んでファビオを寝かせた。ファビオを下ろした瞬間、腕や足に凄まじい脱力感が生じた。とてつもない疲労感が身体を包む。
ソ連軍は確実に迫っている。飛び交う銃声、鳴り止まない悲鳴と断末魔。爆発音が人間の死ぬ音に聞こえてならなかった。こうして部屋に居てもいつ流れ弾が飛んでくるか分らない。もはや安全な場所など皆無だ。いつ死ぬか分らない。
「ヴォルガ・・・今からでも遅くない・・行くんだ・・・」
ファビオの声は酷く擦れていた。まるで老人のように弱い声だった。
ファビオの寝るベッドの脇で跪き看護をする体勢になったヴォルガは、ファビオを見ながら何も言わず首を振った。
「君は人が良過ぎる・・・・」
ファビオの目にうっすらと涙が浮かんだ。こんな自分のために命を投げ出す友の事を考えたのだろう。ファビオは自分が情けなかった。
「僕の父親は正義感の強い人だった。困った人が居たら助けなきゃ。小さい頃からそう言われて育ったんだ」
ヴォルガが言った。
「そのせいで自分が死ぬ事になってもかい?生き延びる保証なんて何も無いのに」
「今外に出たらそれこそどうなるか分らない。ここにいれば少なくとも時間は稼げる。それに・・・」
「それに?・・」
「やっぱり君を置いて行くなんて、僕には出来ないよ」
「ヴォルガ・・・」
もう言葉は必要なかった。分っている。自分がどうなるのか。そして友がどうなるのかも・・・。
「うう・・ううう・・・・」
「ファビオ・・?・・ファビオ!」
突然、ファビオの苦しみ方が変わった。
「ごほっ!ごほっ!がはあっ!」
「ファビオ!」
ファビオの着ていた囚人服が真っ赤に染まった。吐血だった。
「ファビオ!ファビオ!」
ファビオの顔は能面のように真っ白になり、身体は氷のように冷たくなって行った。
とうとう最後のときが来たようだ・・。
ヴォルガはファビオの手を握った。もう自分に出来る事はこれくらいしかない。ファビオを連れてバラックに戻ったが、結局出来る事はそれだけ。自分は医者でもなければ神でもない。苦しむファビオを救ってやる術はなかった。
再びヴォルガの目に涙が浮かんだ。
「はあ・・はあ・・生きて・・・戻ったら、二人で風呂に入ろう・・・」
「そうだね、大きな銭湯に行こう。体中綺麗にして、それから・・・それから・・」
「それから・・・美味しい物を食べるんだ。お洒落な・・・服を着て・・・女の子も一緒だと・・・・良いよね・・・」
「ああ。ファビオはモテるだろうから、彼女もすぐに出来るよ」
ヴォルガは自分が泣きながら喋っている事に気付かなかった。出てくる言葉も半分は嗚咽交じり。こんな現実認めたくなかった。だが例え現実逃避をしてもファビオが元気になるわけではない。
ヴォルガは必至で「これは夢なんだ」と思うようにした。
しかし、目の前の現実は無情な幕を下ろした・・・。
「こんな場所で・・・友達が出来る・・・なんて・・・思わなかった・・・よ・・・」
「うん、僕もだよ」
「今度・・・僕の生まれたヴェローナを案内するよ・・・是非・・・連れて行きたい場所が・・・あるんだ・・・」
「ファビオ・・・死ぬな・・・死ぬな!生きて・・生きて一緒に・・・」
もはや涙と嗚咽に塗れ、冷たくなって行くファビオの手を握る力さえ失われていくようだった。
「ヴォルガ・・・ありがとう・・・・」
それが最後の言葉だった・・・。
「ファビオ・・・ファビオォ!」
外は銃声の嵐。決して消えることの無い断末魔は、バラックでファビオの名を叫ぶヴォルガの声によってかき消されていた・・・。
2
外は深い闇で覆われているはずなのに、何故か部屋の中は明るかった。電気を着けているわけではない。外が明るいのだ。そして鼓膜を突き破ろうとする激しい銃声と爆発音。それだけは何とか理解する事ができた。
しかし、それだけだった。銃声に爆発音。本来なら狂ったように逃げ出すだろう。だが今のカロンとマレイにとって、「逃げる」と言う行為そのものが思考回路に存在しなかった。
連日連夜、カロンとマレイは複数の兵士たちによって強姦され続けた。最初の犠牲になったマレイに続き、魔の手はカロンにも向けられ、今はもう服を着ると言う行動さえ起こさなかった。例え服を着たとしても、夜になればまた剥がされる。そして純白の身体に汚れた欲望が滴るだけ。その欲望は二人の身体を汚し、身体の中にまで注がれた。そんな状況が数ヶ月も続けば、思考回路はおろか、精神が崩壊してもおかしく無かった。
鉄格子の中にはもはやカロンとマレイしかいない。他の女たちは獣たちの行為に耐えられなくなり、皆舌を噛み切って自らの命を絶った。カロンとマレイもそれを考えた。だが、次々と自害していく女たちを見て、兵士たちはカロンとマレイが死なないよう、猿轡を二人の口に巻きつけた。これによって舌を噛み切る事は不可能となり、今までずっと地獄の強姦に耐え続けてきたのだ。
床の上で死んだような目をしながらカロンは隣に横たわるマレイを見た。マレイも同じように生気を失い、欲望の奴隷と化している。母親の精神が崩壊したのだ、子供のマレイが壊れても無理は無い。
カロンは脱力感と虚無感を抱きながら視線を窓に移した。先ほどから断続的に聞こえる悲鳴は一体何なんだろう・・・。この大地を揺らす地震は自然の地震なのだろうか・・。そもそも自分は何故ここにいるのだろう。そして自分は誰なのだろう・・・。
獣たちの行為によって破壊された精神はもはや正常ではなかった。「傷ついた」と言うレベルではない。繰り返される淫らな行為によって思考能力は快楽へ変わり、恍惚だけが余韻となって身体を支配する。その恍惚は延々と続き、夜になると疼き出す。いつしか拒絶する事の意味さえ分らなくなり、抵抗する意識を失う。何もかもがどうでも良くなり、諦めにも似た感情が、現実で起こった行為を受け入れようとする思想を完全に破壊してしまう。そのため人格は大きく変化し、主軸が傷つかぬよう、その行為の最中は別の自分と入れ替わる。本来の自分が傷付かないように。真実を受け入れないように・・・。
鉄格子の向こうには男が一人、マシンガンを持って窓から外を見ている。その表情にはもはやゆとりは無く、絶望さえ感じられる切迫した顔をしていた。
「大佐!」
突然入り口の扉が開き、SSと思しき人物が数名入って来た。
大佐と呼ばれた男は何も言わず、顔を引き攣らせたまま顔だけSSたちに向けた。
「も、もはや抵抗の余地がありません!ソ連軍の攻撃は想像以上に激しく、ここも時間の問題です」
「そうか・・・」
恐らく分っていた事実なのだろう。大佐はさして驚きもしなかった。
「我々は・・・不本意ながら撤退します」
SSたちはそれだけ言うと、その場から一目散に逃げて行った。大佐だけが部屋に残る。
大佐は胸のポケットから煙草を取り出し、それに火をつけた。これが最後の煙草か?と思うほど美味そうに吸っている。二、三吸うと灰皿に煙草を収め、持っていたマシンガンの安全装置を解除した。そして静かに歩き出し、カロンたちが横たわっている鉄格子の中へと入って来る。
カロンにはその大佐が神に見えた。それは直感だったが、この人は苦しみから解放してくれる。そう思ったのだ。何故なら大佐の顔には光が無く、全てを諦め、最後には自らの手で人生を終わらせる覚悟が漂っていたからだ。
「今までご苦労だったな・・・悪く思わないでくれ。我々はあくまで命令に従っただけなんだ・・・・証拠が残ると後で厄介な事になる。せめて一発で眠れるように・・・」
大佐はマシンガンをカロンとマレイに向けた。
心の奥底ではこの現実が何を意味するのか分っていた。このままでは二人とも殺される。それが突きつけられた現実だ。だがカロンもマレイも逃げようなどと思わなかった。これで長かった苦しみも終わる。また元の女に戻れる。汚れてしまったこの身体を自らの血で洗い流し、再び女として転生するだろう。そう思えば死ぬ事は悪い事じゃない。何もかも
終わらせて欲しい。これ以上苦しみたくない。
様々な思いが脳裏を過ぎると、そんな解放とは裏腹に涙が頬を伝った。決して女として扱われる事の無かった屈辱の日々。性の奴隷にされ、見も知らぬ男たちに汚された以上、今更夫や息子に合わす顔など無い。女として最悪の辱めを受けた以上、もはや生きることなど不可能だ。それであれば今ここで死を受け入れよう・・・。
カロンとマレイはお互いに手を繋ぎ、目を閉じてその時を待った。
意を決した大佐がマシンガンの引き金を引いた瞬間、そこにあった全ての存在が炎に包まれた。そしてかつて聞いた事のない爆発音が耳元で響くと、カロンとマレイ、そして大佐の身体はあっと言う間に粉々になった。
大佐がマシンガンの引き金を引いた瞬間、バラックの頭上を旋回していたソ連軍の戦闘機がミサイルを投下。カロンたちのいた二十九棟は跡形も無く吹き飛ばされ、全ての存在を消し去った・・・・。
1945年1月27日。
この日、ポーランド内に侵入したソ連軍は、全てのドイツ軍を制圧。並びにアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を解放へと導いた・・・・。