第十四章 「脱獄の夜」
ヴォルガたちが脱獄を決意してから一ヶ月余りの月日が過ぎた。決意を固めて以来、ずっとその時を待ち、タイミングを見計らっていたのだが、ドイツ軍の抵抗も相当なものなのだろう。ソ連軍のドイツ軍侵略は想像以上の時間を要し、戦火の炎が激化するのに一ヶ月近く掛かった。
あれから一ヶ月。侵略の遅れを取ったソ連軍の攻防はかなりの勢いで加速し、アウシュヴィッツ周辺はいよいよ戦場の最中に巻き込まれようとしていた。
アウシュヴィッツ上空には夥しい数の戦闘機が昼夜問わず飛び交い、ミサイルや爆弾を投下してくる。その矛先は施設のすぐそばに向けられ外壁の向こう側で激しい銃撃戦が繰り広げられるようになった。仕事中に流れ弾に撃たれ、命を落とす囚人たちが目立つようになると、労働時間は短く切り上げられ、それまで十二時間労働だった仕事も、現在では半分の六時間にまで減っていた。これは囚人たちの身の安全を考慮した結果ではなく、昼間よりも夜のほうが攻撃が激しくなるため、少しでも早い時間にSSたちを戦前に向かわせようと言う、ドイツ軍の勝手な配慮だった。
労働時間が半分になった事は囚人たちにとって願っても無い事であったが、戦闘が激化したことで、囚人たちの間にかつてないほどの不安が走った。SSたちやその上官たちはもはや囚人のことなど構っていられなくなり、時折ドイツ語で「数百メートル先の結界が破られた」と言う怒涛が響いた。ソ連軍はアウシュヴィッツのすぐそばまで迫りつつあった。
ソ連軍の侵略によって自分たちが解放されるとあれほど喜んでいた雰囲気は一気に絶望へと変化した。囚人たちが思っていた以上にソ連軍の攻撃は激しく、そして見境が無い。外壁のすぐ向こう側で激しい爆発音が起こると、地響きが起こり、施設に居る囚人たちは怯えながら頭を抱えた。「死にたくない」、「助けてくれ」そんな言葉が鳴き声と共に巻き起こる。解放とは想像だけの幸福で、現実は想像以上に冷酷なものへと変わって行った。
いよいよ迫りつつある死の恐怖。その死は自分たちの目の前に忍び寄り、じわじわとその実感を与えて行く。囚人の中には必至で神に祈りを捧げる人間も少なくなかった。「もう終わりだ」、「助かりっこない」と、呻き声にも似た悲痛な叫びを繰り返す囚人も居る。いざ最後のときを迎えると、こんなにも人間は弱くなるという物的証拠を見ているようで、気分が滅入ってしまう。それでもどうにか絶望を跳ね除けられたのは、「脱獄」と言う二文字の希望があるおかげだった。
そしてそのチャンスはとうとうやって来た。ソ連軍の猛攻は留まる事を知らず、攻撃の矢先がアウシュヴィッツの施設にまで及ぶようになると、労働中に囚人たちを監視していたSSたちまでもが戦前に狩り出されるようになったのだ。それだけではない。ソ連軍の投下するミサイルや爆弾はアウシュヴィッツの施設内を射程距離に収め、情け容赦ない砲撃が始まったのだ。そのためもはや労働をする事は不可能となり、どうやって爆撃から逃れるかが大きな問題となった。既にアウシュヴィッツの三つの棟が爆撃によって破壊され、多くの死者を出している。バラックの外に出ればソ連軍の物なのか、あるいはドイツ軍の物なのかどちらとも判断の付かない流れ弾に打ち抜かれてしまう。施設の外壁はまだ辛うじて原形を留めているが、銃撃音や爆撃の規模から察するに、ソ連軍はアウシュヴィッツのすぐ向こう側まで迫っている事が容易に伺えた。
夜になっても攻撃が止む事はなかった。夜の闇に紛れ、ソ連軍の兵士たちが忍び寄ってくる。激しい銃撃と悲鳴は途切れる事は無かった。ソ連軍の攻撃は北西の方角から行なわれており、SSたちの配置も自然と北西に偏り、脱獄ルートである東側は日に日に警備が手薄になってきている。それでも夜は監視のSSが交代で付いているが、交代せずに一人が監視に当たっているポイントがあり、脱獄を実行に移すのなら今が絶好のチャンスだった。無論、ソ連軍の攻撃は夜の方が活発が故に細心の注意が必要だ。脱獄する以前に爆撃を受け死んでしまっては意味が無い。脱獄する事は生きることを証明する最後の手段なのだ。
「よし、今日の夜実行に移すぞ」
もはや仕事をせずバラック内でソ連軍の動きを伺っているガルバドがヴォルガたちに言った。
「いよいよだね」
「なんか、緊張するな」
「おいおい、気張りすぎてミスるなよ。死んだら元も子もねぇからな」
脱獄の話で生きる希望を見つけたヴォルガたちを余所に、他の囚人たちは少しでも安全な場所を求めてバラックを後にしていた。残っている囚人たちはヴォルガたちを除けば指折り数える程度で、もはや生きる気力を失っていた。近くで爆発が起こり、地響きが起こっても動じず、ただベッドの上で祈りながら時間を過ごしている。ヴォルガは自分たちと同じように脱獄を考えないのだろうか?と疑問を抱いたが、以前ガルバドが言ったように、ここでは考えるという行為そのものが無に等しい。最初から希望を失っている人々しか居ない以上、その疑問に対する返答は一つだけだという事に気が付いた。それ即ち「諦め」であり、逃げようという思想すら持ち合わせていないのだ。自分は何もせずに、運良く助かれば儲けもの。その程度にしか思っていないのだろう。
薄闇から夜の漆黒へと変化すると、ヴォルガたちはガルバドを先頭にバラックを出た。昼間と同じようにバラックの外にある通路にはもはやSSたちの姿は無い。バラック内は異様な静けさに包まれていたが、外からは激しい銃声が轟き、窓の外を数名のSSたちが走りながら通過していく。その度にヴォルガたちは立ち止まり様子を伺うが、通り過ぎていくSSたちは誰一人としてヴォルガたちに気付かなかった。いや、正確に言えば気付く余裕が無いと言った方が正しいだろう。通過していくSSたちの表情は絶望と焦りが入り混じった困惑の表情へと変貌していた。
バラックの外に出ると、西側の空が輝いていた。それはパレードなどの煌びやかな光ではない。その光の下で多くの人々が死んでいるであろう、爆撃と言う名の地獄のパレードである。至る場所で火の手が上がり、空は煙で覆われている。もし地獄に空と言うのが存在するのならこのような空だろう。全てを焼き尽くす炎と、その炎から聞こえる断末魔。
想像上の地獄を遥かに凌駕する死の宴がそこにあった。
脱獄ルートである東側に変化は無く、不気味な闇が支配していた。だがそれも時間の問題だろう。ソ連軍の攻撃から推測するに、アウシュヴィッツがソ連軍の手に落ちるのは明白。東側が地獄と化す日が近いことは察しが付いた。
「よし行くぞ。周囲に気をつけろよ」
先頭に居たガルバドが身を低くし、ゆっくりと歩き出した。その後ろにクアーリ、更にヴォルガとファビオが続いた。
だが最後尾のファビオが何故か遅れを取っている。
「ファビオ、大丈夫?」
「あ、ああ・・・大丈夫・・・」
ヴォルガはファビオが追い付くまでその場で立ち止まった。追い付いたファビオの顔は真っ青になっており、わずかしか歩いていないにも関わらず息が上がっていた。
「辛そうだけど具合悪いの?」
ヴォルガが小声で聞いた。
「ちょっとね・・・・だけど大丈夫。気にしないでくれ」
「気にしないなんて無理だよ。もし何かの病気とかだったら・・・・」
「ハハ、もうなってるけどね」
ファビオは苦笑いを浮かべながら意味深な事を言った。
「えっ、それってどういう・・・」
「何やってんだヴォルガ。早く来い」
ヴォルガの声を遮るように、自分たちよりもかなり前へと進んでいたガルバドが、声を押し殺しながら叫んだ。
「ほら、行こう。急がないと迷惑が掛かる」
「そうだけど・・・」
「気にするなって。なんでもないよ」
ファビオの笑顔はどう見ても強がりだった。
当初の予定通り、SSの監視ポイントに辿り着いたヴォルガたちは、監視ポイントに目を凝らした。ポイントは全部で三つだが、それらしいSSは一人しか見当たらなかった。その一人も自分とは反対の方向で続いている戦闘に気を取られ、本来とはまったく別の方角を見ている。手にはマシンガンが握られているが、脱獄場所の排気口まで障害となる存在はそのSSただ一人だった。
「どうやら監視どころじゃなさそうだぜ」
「チャンスだな、監視が一人で明後日の方角を見てる。これなら腹ばいになって進めるだろう」
ガルバドとクアーリが交互に言った。
ソ連軍の攻撃が悪化した事も原因だとは思うが、監視役のSSが一人しか居ない理由として、まさかこんな状況で脱獄をする者などいないと、SSたちは高をくくったのだろう。そんなSSたちの配慮はヴォルガたちに絶好のチャンスを与える結果となった。
「二人とも遅れるなよ」
「うん」
ガルバドはそう言うと腹ばいになり、SSに注意を払いながら前へ進んだ。
「ファビオ、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって・・・さあ、行こう」
ファビオは流れ落ちるほどの汗を掻いていた。それだけでも尋常ではない事の表れだったがファビオは急ぐようにヴォルガを促す。
ヴォルガとファビオも腹ばいになり、ガルバドとクアーリの後を追った。先に進んだ二人のおかげで雑草は押し倒され、思っていた以上にスムーズに進む事ができた。
最初の監視ポイントにSSの姿は無い。それを確認したガルバドは止まらずに、そのまま前へと進んだ。そして二つ目のポイント。ここに明後日の方角を見ているSSの姿がある。だが、自分たちに背を向けており、尚且つ周囲は銃声が鳴り響いているため、後ろを腹ばいになって通過するヴォルガたちに気付く術は無かった。
それでもガルバドはポイントで立ち止まり、しばらく様子を伺った。後ろにいるヴォルガたちも草木の間からSSの様子を見つめる。自分たちに気付く様子はまるで無い。例えここで咳払いをしても、周囲を飛び交う銃声によってかき消されるだろう。
ガルバドがこのまま通過出来る事を確信し、一歩前に踏み出したその時だった。
突然、自分たちの周囲に強烈なライトが浴びせ掛けられヴォルガたちの真上で大きな音がした。「見つかった」ヴォルガは瞬時にそう思い、恐怖に怯えながらも自分の真上を見上げた。
ヴォルガたちの真上には大きな音を響かせながらソ連軍の戦闘機がいくつも通過して行った。熱いほどのライトはSSのではなく、ソ連軍の戦闘機に備え付けてあるライトだったのだ。
「ソ連軍めっ!」
ソ連軍の飛行部隊に気付いた監視のSSは、狂ったようにマシンガンの引き金を引いた。けたたましい音を響かせ、マシンガンの銃口が火を噴く。発射された銃弾はヴォルガたちの真上を飛んで行く。もはや生きた心地などしなかった。ヴォルガたちは頭を両手で押さえ、銃弾が身体に当たらない事を願った。
「うおおおおおっ!」
叫びとも雄叫びとも分らぬSSの怒号が響く。マシンガンは連続で銃弾を発射するが、相手は戦闘機だ。その凄まじいスピードに銃弾は付いていけず、致命的なダメージを与える事ができない。そうしている間にも戦闘機は二機、三機、四機と次々と通過し、上空に舞い上がる。
そして最初の一機が上空を旋回し始めた時だった。ちょうど戦闘機の腹の部分がゆっくりと開き、ミサイルが姿を現した。
「まずい!撃ってくるぞ!」
思わずガルバドが叫んだが、SSには聞こえなかった。そのSSも戦闘機がミサイルを装填した事に驚き、その場を離れ奥へと消えて行った。
「逃げろ!早く逃げろ!」
ガルバドとクアーリが立ち上がり、避難しようとした瞬間、ミサイルは投下され、アウシュヴィッツの施設に命中した。鼓膜を突き破らんとする爆音が、激しい爆撃と共に地面を伝う。
「うわあああっ!」
その場を離れる事が出来なかったヴォルガとファビオは腹ばいになったまま身体を小さくし、爆撃の恐怖に怯えた。命中した施設は木っ端微塵となり、爆風で巻き上がった土がヴォルガたちに降り注ぐ。
爆撃の轟音が収まると、今度はヴォルガたちの前方で何かが崩れる音が聞こえた。ヴォルガは恐る恐る顔を上げると、その視界にアウシュヴィッツの塀を破壊し、中へと侵入してくるソ連軍の姿が映った。ソ連軍はとうとう最後の結界である施設の塀を打ち砕き、侵略を始めたのだ。かつてないほどの大きな銃声が響き、四方八方から火の手が上がった。誤算だった。どうやらソ連軍はヴォルガたちが思っていた以上に速いスピードで迫っているようだった。
だがそれがチャンスである事に違いは無い。もはや監視のSSはこの場を離れた。
今しかない!このチャンスを逃したらもはや死あるのみである。
「今しかねぇ、行くぞ!」
ガルバドはそう叫ぶと、自分たちの前方で激しい銃撃戦が行なわれているにも関わらず、クアーリと共に排気口を目指し一気に走り出した。
もはや脱獄など頭に無かった。あるのは生に対する執着心と、今ここで死にたくないという恐怖だった。脱獄だろうと、それでなかろうと生き延びたい。ただそれだけの思いが湧き上がり、震える身体を立ち上がらせた。
上空には未だソ連軍の戦闘機が旋回している。いつまたミサイルを撃ってくるか分からない状況だ。爆撃で死ぬくらいなら、イチかバチかガルバドたちを追ったほうが懸命だ。
「ファビオ!僕たちも行こう!」
「・・・・・・」
ヴォルガは銃声の轟音が響く中、大声でそう言ったが、ファビオは何故か返事をしなかった。
ヴォルガは周囲に向けていた視線を下に落とすと、そこに地面で蹲っているファビオが映った。顔は真っ青になり、身体が小刻みに痙攣している。
「ファビオ!」
「ごめん・・・・ヴォルガ・・・僕は行けない」
「ファビオ・・・これは一体・・・」
ファビオの身体に触れたヴォルガはあまりの冷たさに思わず手を引っ込めた。額に手を当てると凄まじい熱が手の平に伝わる。
「ヴォルガ!どうしたんだ、急げ!」
激しい銃撃の中、自分たちの前方でガルバドが大声で叫んだ。
「ガルバド!ファビオが・・・・」
「ファビオがどうした!」
それ以上、ヴォルガは答えられなかった。四方八方から銃弾が飛び交う中、ガルバドは腹ばいになってヴォルガたちの下へ戻ろうとしている。ヴォルガは跪き、蹲っているファビオの身体を抱きかかえた。
「ファビオ、一体どうしたんだ・・・」
抱きかかえたファビオの身体は額の熱に反して冷え切っていた。
「僕に構わず行ってくれ・・・僕は足手まといになるから・・・・」
「そんな事出来るわけ無いだろ!どうしちゃったんだよ!」
何故か涙が溢れた。最悪の結末が脳裏を過ぎる。そんなことは無い、あるはずがない。そう思うたびに何故か今までに無い悲しみが溢れた。
「僕の身体は・・・腸チフスに感染しているんだ・・・・」
「チ、チフス!」
あまりの驚きにヴォルガの声が裏返る。
「ああ。この間カー・ベーで診てもらったんだ。そしたら・・・もう長くないだろうって言われて・・・・」
ヴォルガはかつてない衝撃に襲われた。ファビオの身体は時間の経過と共にその冷たさが増し、痙攣が激しくなって行く。
腸チフスとは、サルモネラの一種であるチフス菌によって引き起こされる感染症の一種である。感染原は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は七〜十四日間ほど。衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病。無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で節食活動を行ったときに病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。
感染後、七〜十四日すると症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こす。三〜四日経つと症状が重くなり、四十度近い高熱を出し、下痢、または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状をだす。さらには体力の消耗を起こし、無気力表情になるチフス顔貌がある。二週間ほど経つと、腸内出血から始まって、穴が出来る。腸穿孔を起こし、肺炎や意識障害、胆嚢炎、肝機能障害を伴い、病原体に対する免疫力が極端に低下している場合(栄養失調など)死亡する可能性が非常に高い。
ファビオがチフスに感染した主な理由と原因は粗末な食事と汚物の不処理が原因と思われる。
「そ、そんな・・・冗談だろ・・・なんで言ってくれなかったんだよ!」
ヴォルガは大粒の涙を流しながら叫んだ。
「ごめんよ・・・どうしても言えなかったんだ・・・」
「ファビオ・・・・」
もはやどうでも良かった。脱獄もアウシュヴィッツも、ナチスドイツも、ソ連軍も。ファビオの言う「もう長くない」という言葉は、自分の置かれている現状を覆すほどの重みを持っている。生きる希望も、輝く未来も、全てが粉々に打ち砕かれたようだった。
「どうしたんだよ、ファビオは!」
そこへ腹ばいになったガルバドが戻ってきた。そしてファビオの青ざめた顔を見て、それが何を意味するか分ったらしい。ガルバドはしばし言葉を失い、黙り込んだ。
「ガルバド!」
その時、前方に居たクアーリが叫んだ。
「どうした!」
「ヤバい。ドイツ軍に見つかった!こっちに撃って来やがる!」
「なんだとっ!」
見ると、明らかに銃弾と分る砲撃がクアーリの周辺に撃ち込まれている。銃弾の先を辿ると、そこには先ほどまで監視に当たっていたSSが居た。どうやらソ連軍と戦いながらも、脱獄したクアーリを見つけたようだった。
「チキショー!どうにもならねぇ・・・」
漆黒の闇に紛れ、絶望の二文字が見え隠れしていた・・・。