第十一章 「途方も無い戦略」
翌日、目が覚めると外は激しい雨が降り注ぎ、いつも以上に気温が下がっていた。連日のように振り続けていた雪が降りしきる雨によって溶け、雪はシャーベットのように砕かれる。水分の増したシャーベット上の雪は、木靴で歩く囚人たちの足を凍て付かせる。何せ歩くたびに氷水が木靴に浸入し、足の感覚を徐々に奪って行く。仕事が始まり忙しなく動くまで、奪われた足の感触は戻らなかった。
その日、ガルバドはいつものようにスプーンの材料となる鉄の塊を担ぎ、それを中間地点にいるファビオの元に届けながら、途方も無い考えを思い付いていた。
それは「脱獄」と言う反逆行為。この二文字が脳裏を過ぎると、脱獄に成功した人数が浮かぶ。その数はたったの二名。これまで数え切れないほどの囚人たちが脱獄を試みたが、その策略は尽く打ち砕かれ、脱獄に失敗し、殺された囚人は数知れず。脱獄に成功した二名についても、あくまでアウシュヴィッツの脱獄に成功しただけであって、この二名は脱獄してから二年後、逃亡中にドイツ兵に捕らえられ、パレスチナの収容所で銃殺されている。つまりアウシュヴィッツから逃れ、今でも生き延びている人間は誰一人いないのだ。その事実を知っている囚人たちはにとって、脱獄と言う言葉は死と同じ意味を持っていると考えている。そのため最近では脱獄する囚人はほとんど居なくなっており、その生涯を収容所で終えるケースがほとんどだった。
しかし、そんな現実と「脱獄に成功し、生き延びられれば自由」と言う希望が心の中で葛藤を呼んでいるのも事実。鉄の塊を運びながら考えるガルバドの概念は、明らかにヴォルガとファビオの存在によって大きく覆されつつあった。
「まさかこの俺があいつらにね・・・」
何だか急に可笑しくなってしまい、ガルバドはニヤリと笑みを浮かべた。
軍人だった父親と街の役所で働いていた母親の間に生まれたガルバドは、子供頃からガキ大将として、近所では「札付きのワル」と影で噂されていた。そのワルさは中学、高校と続き、歳を重ねるごとに、その行為もエスカレートして行った。毎日のように喧嘩に明け暮れ、来る日も来る日も人を傷つけ、嘲笑っていた。
だが軍人だった父親が戦死すると、ガルバドの心境にも変化が訪れた。よほど父の死が大きかったのだろう。ガルバドは改心し、自ら軍人になる決意を決めたのだ。当時から身体だけは丈夫な事もあって、軍の中でもとりわけ早く一目置かれる存在となった。その成長は留まる事を知らず、二十六歳の頃、当時では「異例の出世」と囁かれる最年少で、大佐まで昇格。並びにポーランド軍の陸軍司令官に抜擢され、それ以後戦争の最前線に立っていた。
その後、三十二歳を迎えるまでの六年間、ガルバドは自らの軍を率いて数々の戦いに勝利を収めた。だが、三十三歳の誕生日を迎える直前、ヒトラー率いるナチスドイツの猛攻に合い、拘束され、このアウシュヴィッツに連行されてしまったのだ。
突然の猛攻とアウシュヴィッツへの連行はガルバドの母親には知らされなかった。ポーランド軍はガルバドを戦死したと勘違いし、まさかアウシュヴィッツに連行されたことなど知る由も無い。そのため、母親には息子さんが戦死したと告げられている。それを思うとやはり脱獄の二文字に希望が重なる。息子が戦死したと告げられた母の心情を考えると、一刻も早くここを出て、自分が生きている事を知らせてやりたい。これまで何度も迷惑を掛けた母に悲しい思いなどさせたくなかった。
それに同じ死を迎えるのであれば、何か生きるための抵抗をしてみようかと言う変化がガルバドを大きく揺さぶった。いつの間にか消えかけていた希望は、ヴォルガとファビオの手によって再びガルバドの心に宿ろうとしていた。無駄な抵抗に終わるかもしれない。だが、このまま何もせずに、抵抗せずに死を迎えて何の意味がある。そこに生きた証など残るはずが無い。死ぬまで働かされ、死体は焼却炉で焼かれ、骨も残らないのだ。墓標も無ければ記憶や記録にも残らない死に様。それがアウシュヴィッツで迎える死の姿だった。同じ死ぬのであればヴォルガの言うように、やれるだけの事をやって諦めるべきではないか。軍人だった父を失い、自らも軍人となる決意を決めたあの強さは何処に行ってしまったのだ。例え途方もない事でも、やってみるだけの価値はある。自分はまだ生きているのだから・・・。
ガルバドの目に歓喜の涙が浮かんだ。その涙は歓喜でもあるが、同時に「覚悟」でもあった。
今日一日の終わりを告げるサイレンが響くと、ガルバドは仕事で使っている釘を一本盗み、それを見つからないように履いている木靴の中に忍ばせた。一同は一箇所に集まり、大広場を目指して歩き出すが、隠した釘が足の側面と擦れあい、耐え難い痛みが走った。
「怪我でもしたの?」
痛みを抑えながら歩くガルバドを不審に思ったのか、ヴォルガが聞いた。
「いや、ちょっとな。大した事はねぇよ」
「バラックに戻ったらちゃんと手当てした方が良い。ばい菌が入って来ない様に」
「ああ、そうするぜ」
痛みを堪えてそう言ったが、痛みはかなりのものだった。無理もない、素足の靴の中に凶器が入っているのだから。
それでもガルバドは必至で堪え、どうにかバラックへ戻った。
バラックに戻るとガルバドは自分と一緒にこのアウシュヴィッツに入ってきた同期のクアーリに目を留めた。今となって同期はクアーリしかいない。話を持ちかけるとしたらヤツが適任だろう。ガルバドはそう判断した。
「よう、クアーリ。ちょっと良いか?」
「あん?ああ、ガルバドか。何か用か?」
「ああ、良い話があるぜ」
「お前の話に今まで良い話なんて一つも無かったぞ」
「そう言うなよ。今回はとびっきりのネタさ。心して聞けよ。実は・・・」
わずかな希望が大きな行動へと繋がろうとしていた・・・。