第十章 「湧き上がる疑惑の恐怖」
早朝四時になるとその日一日を知らせを告げるサイレンが鳴る。大急ぎで身支度を済ませ、SSの先導によって大広場に集まって朝食を取る。そしてそれから約十二時間の労働が始まり、夜になって仕事が終わる。粗末な夕食を取ってバラックに戻り就寝。ヴォルガたちがアウシュヴィッツに来てから、幾度となく同じ日々が繰り返された。その繰り返しの中で、やはり同じように繰り返し絶望を感じ、繰り返し希望を失って行く。事態が悪くなる事はあっても、良くなる事は決してない。悪化する事はあっても、改善される事は無い。その全ての「無い」と言う言葉が、惨めな身なりと生活に悲壮感を与える。そして改善のない日々が繰り返し起こる事で、その悲壮感はより一層加速し、一切の希望を持たなくなってしまう。その顕著な例が囚人たちの目だった。入所当時はそれなりに目の輝きがあった囚人たちも、進歩の無い絶望の繰り返しによって色を失っている。「死んだ魚のような目」と形容する事があるが、まさにその通りだった。生きているのか死んでいるのかさえ分らないような、無力な目に変わっていく。仕事をしたことで何か一つでも得る事があれば多少なりとも違うのだが、得るものなど一つも無い。体力ばかりが失われ、肉体は日々疲労していく。その疲労は粗末な食事のせいで留まる事を知らず、疲労は過労へと変わっていく。肉体が生気を失えば、もはや気持ちで打ち勝つ方法など見い出せない。精神を保つためには、まず健康な身体を維持する必要があるのだ。その基本が成立しない以上、希望を持つことはやはり不可能だった。
ヴォルガたちがアウシュヴィッツに来て四ヶ月が経った。入所当時は二百人もの囚人がいたヴォルガたちの棟には、現在では九十名ほどしか残っていない。この四ヶ月の間に百十人もの囚人たちが様々な形で死を遂げた。栄養失調によって餓死する者。仕事中に大怪我をし、その傷口からばい菌が侵入。カイセン病やチフスに感染し力尽きた者。収容所の規則に背き、ガス室に送られた者。同じユダヤの血を引く囚人たちが殺されるたびに、ヴォルガたちはその亡骸を焼却炉に放り込んだ。父の死後、そんな行為はしたくないと思っていたのだが、それも仕事の範疇だったため、逆らう事が出来なかった。
不本意な死を遂げた囚人たちは、既に一年近くここで生活するガルバドとほとんど同じ時期に連れて来られた囚人ばかりだった。ガルバドからすればもはや馴染みとなっている仲間たちが死んで行ったと言うことだ。さすがにそんな光景が堪えたのか、ここ数日ガルバドも元気が無かった。
その日もガルバドは元気が無く、仕事でもミスを連発した。明らかに何かを考えているように見える。頭の中で別のことを考えているせいで、肉体の動きが鈍くなっているのだろう。仕事のスピードもいつもより遅くなっていた。
ミスを起こせば刑罰が下る。この日一日でガルバドは四回もSSの鞭打ち刑を受けていた。アウシュヴィッツに来てから一度もミスをしたことのないガルバドにとって、このミスは周囲の仲間たちにも大きな影響を及ぼし、案の定、ミスは連鎖した。ヴォルガとファビオはガルバドの様子を伺うたびにどうしても手が止まってしまう。そのため規定の製造数に届かず、やはり鞭打ちの刑を受けた。背中の痛みを堪えながらの仕事は辛い。それでも時間は止まることなく時を刻む。気付けば夜になり、その日の仕事が終わりを告げた。
夜になり夕食を終えたヴォルガたちは各自バラックに戻った。当然の事だが、粗末な夕食のせいで空腹はほとんど満たされていない。
「鞭で打たれた背中がまだ痛むよ。それにしても、ガルバドはどうしたんだろう」
右手で背中を擦りながらバラックへと向かうファビオが言った。
「分らないけど、多分自分の同期たちが居なくなって行く事に何か思うことがあるんじゃないかな」
「そうだよな。何だかこんな場所に居ると人間が死ぬなんて言葉に重みを感じなくなるけど、皆死んじまったんだよな。僕たちがここに来たときはあんなに沢山居たって言うのに。今じゃもう指折り数える程度しか居ない」
「僕たちは後から入って来たから肉体に溜まる疲労もまだ浅いけど、ガルバドたちは一年もいるわけだからね」
「疲労が過労に変わってもおかしくないってか。それにしても元気のないガルバドってのも、何だかしっくり来ないな」
ファビオの言葉にヴォルガは苦笑いで返した。
そして改めて自分たちがまだ希望を失っていない事を実感した。この地獄のような環境でまともな会話の出来る相手が居る。自分はまだ笑顔で話が出来るという事実が、何一つ諦めていない事を証明している。絶望的なほど辛い労働でも、ファビオと言う友が居る限り、希望はまだあるんだと、ヴォルガは実感した。今のようなやり取りをする囚人たちは、ヴォルガとファビオを除けば誰一人いない。ヴォルガもファビオも万が一一人だったらこうは行かなかっただろう。
自分たちはまだ希望を失っていない。それがわずかな救いだった。
バラックに戻ると、ガルバドは既にベッドの上で寝転がっていた。寝転がっていると言っても、その目は開かれており、眠そうな雰囲気も感じられなかった。
「大丈夫?」
ヴォルガが話し掛けた。
「えっ?何が?」
「背中。四回も鞭打ちになったでしょ。大丈夫かなと思って」
「人の心配とは相変わらず甘ちゃんだな、お前は」
ガルバドはそのままの体制で答えた。
「甘いとか辛いとか言う問題じゃないよ。気になっていたから」
「あの程度でくたばるようなヤワな身体はしてねぇよ。お前らの背中はどうなんだ?お前らも打たれてたろ?」
「どっかの誰かさんのせいでね」
「ああ?」
「まあまあ、そう言わずに」
皮肉ったファビオにガルバドが返したが、ヴォルガがそれをなだめた。
「ケッ!勝手にミスっただけだろ。人のせいにすんじゃねぇよ」
ガルバドがヴォルガたちに背を向けた。
「ガルバドらしくないじゃん。ミスるなんてさ」
今度はファビオが言った。
「そういうときもあらぁ」
「やっぱり気になるの?同期の人たちが死んで行くのが」
思い切ってヴォルガが切り出した。
「別にそんなんじゃねぇよ」
「じゃあどんなん?」
すかさずファビオが言った。
だがガルバドは答えなかった。やはり何か思うことがあるのだろう。しばらく沈黙が流れた。
「・・・・そろそろ潮時かと思ってよ」
「潮時?」
「ああ。俺はもう一年もここに居る。与えられる食料や仕事の時間を考えると、肉体が持つのもそろそろ限界かも知れねぇ。現に最近は日増しに疲労が溜まって行くしよ。俺はたまたま軍にいて、他の連中より体力があるせいでまだ持っているが、他の連中を見渡すと、どうやら来るべきときが来るって感じだし」
「・・・・・・」
ヴォルガとファビオは何も言えなかった。
ガルバドと同期の囚人たちが次々と死んで行く以上、その理由はやはり体力の問題と言わざるを得ない。まともな食料を与えられていれば話は別だが、与えられる食事に栄養などほとんど皆無だ。そんな生活が一年も続けば、どんなに健康な人間だったとしても異常を来たすのは当然だ。
「別にお前らに影響されたわけじゃねぇが、そうなる前にどうにかして・・・って考えても無駄なんだけどよ」
ガルバドは溜息交じりでそう言った。「どうにかして」と言うのは、つまりアウシュヴィッツを出ると言う事の現れである。少なからずガルバドも希望を持っているという証拠だった。
「無駄な事なんてないよ。どんな事があっても諦めちゃいけないんだ。諦めるのは最後の最後だよ。やれるだけの事をやって、それでも駄目だったら諦める。だけどまだ諦める段階じゃない」
ヴォルガは素直に言った。
「そうだぜ。ここに諦めてない人間が少なくとも二人は居るんだから。僕もヴォルガのように前向きで絶対に諦めない人がいるから、自分も希望を失わずに居られるんだけどさ」
少々照れた仕草でファビオが言った。
「ったく、安っぽい青春ドラマじゃあるまいし、やれやれ。俺はもう寝るぜ」
「相変わらず素直じゃないな」
ファビオが呆れたように言った。
「大きなお世話だ」
ガルバドはそう言いながら目を瞑った。
「僕ももう寝るよ。何だか身体が・・・・」
「身体が、どうしたんだい?」
微妙なところで言葉を切ったファビオにヴォルガが聞いた。
「いや、なんかこうだるいって言うかさ。まあ、疲れて当然か。あれだけ仕事すりゃ。じゃ、おやすみ」
ファビオもそう言うと目を閉じ、すぐに眠ってしまった。
「僕も寝よう」
ヴォルガが眠りに着いたときには既にほとんどの囚人たちが眠りに着いていた。
大きなお世話だ、と跳ね除けたガルバドだったが、ヴォルガとファビオの言葉は、後のガルバドの運命を大きく左右するほどの影響を与えていた。
そして、微妙なところで言葉を切ったファビオの運命までも、大きく変わる事になる。