屋敷
少女は屋敷の門を開けた。
この屋敷はあの祠を囲んで建っているのだが、不思議な事に内側に正門があった。少女にその事を質問すると、みんな初めて来た時はこっちから入るからそういうものなの、と簡単に説明された。
屋敷の中は中世欧州的で、あちこちにシャンデリアやアンティーク風の家具が鎮座していた。しかし、内装にもファンタジー世界の色は残っている。燭台の紫色の炎が物珍しそうにこちらを見ていたり、うたた寝している石像のガーゴイルがいたが、それらは見事にこの屋敷の雰囲気に溶け込んでいた。
赤褐色の豪奢な絨毯の上を手を取られたまま歩く。
「この辺りはみんなこういう感じの家に住んでるの?」
少女は困ったように笑って言った。
「ううん。ここに住んでる娘の趣味なの。あなたも住みたい家に住めるのよ。どんな家でも」
どんな家でも、か。それは凄い。流石ファンタジー世界だ。きっと魔法か何かで作るのだろう。
「そしてどんなものでも置けるの。こんな風に」
少女は手近にあった古めかしい本棚を開け、中から一冊の雑誌を抜き出した。受け取って見ると、およそアンティーク家具の中からは出てきそうも無い、コスプレ雑誌だった。表紙のセクシー過ぎるメイド服が目に毒だ。これは見なかった方が良かったのではないか。
「何してるんですのっ!?」
雑誌から顔を上げると紅いドラゴンと目が合った。
ドラゴンは素早く雑誌を奪い取り、紅い顔を更に赤くした。そしてふうっと息を吐き身体を震わせると、大きな身体はみるみる縮んで僕の身長ほどになった。翼と二股に分かれた角、紅い鱗を少し残したまま人型になり、本を抱えてもじもじしている。
「か、勝手に他人の家の本棚を開けないで欲しいのですわ……」
衣類は先程の雑誌で見たような露出の高いものではない。ロング丈のドレスで、どちらかといえば中世の服装に近い感じだ。
「ごめんなさい。ところで君は?」
「わたくしはエリザベス。この移住管理施設のマスターですの。あら、貴方はじめましてかしら?」
エリザベスは不思議そうに僕を見る。龍の裂けた瞳の視線が上から下へと舐め回す。
「そんな……まだ新規の移住者がいたなんて。そんなはずは……500年ぶりですわよ……?」
しばらくブツブツと独り言を呟いていたが、やがてこちらに向き直った。
「まあいいですわ。貴方がここに初めて来たなら移住者ということでしょう。付いて来なさい。この世界の事を教えましょう」
スタスタと歩き出したエリザベスを追おうとして、猫獣人の彼女が居なくなっている事に気付いたが、どうすることも出来ずにその場を後にした。
真っ直ぐな廊下を歩きながらエリザベスは説明を始める。
「ここは楽園と呼ばれる世界ですわ。見た通り魔法もあり、空想生物もいるファンタジーの様な世界。ここには200人近くの人が暮らしているのですわ。人、と数えるのは語弊があるかもしれませんけれども」
200人。とても少なく感じた。この広い土地にたったそれだけ?
疑問そうな顔をしていたのだろう。エリザベスは更に言葉を続ける。
「200人、というのは『魂持ち』の数ですわ。わたくしのように会話の成り立つ自立した存在をそう呼ぶのです。あの子達とは意思疎通出来ませんもの」
彼女が指差す先にはどこから入ってきたのか、外で見た妖精がいた。燭台の縁に腰掛け、足をぶらぶらしている。試しに近寄って挨拶してみると、言葉がわからないようだった。
2階に上がる。廊下に窓は無く、吹きっさらしになっていた。外に小さな建物が見える。
「あれは何?」
「教会ですわ。この世界は女神様が見守って下さっている。そういう信仰があるのです」
教会の外にキマイラの様な異形の像がある。訊きにくいが訊いてみる。
「あれが女神様?」
「そうですわ。姿形は一定にあらず。見る者によって姿を変えるそうです。だからああいった色んな姿を象っているのですわ」
「へぇ……」
会えるものなのか。もし僕と対面する日が来たならば、せめて見るに耐える姿でいて欲しい。
「この世界にはなんでもある。そして好きな事をしていいのですわ。でも、他者を傷付けたりすると女神様に祟られちゃいますわよ」
と、エリザベスは舌を出して笑った。
大きなドアの前で立ち止まる。
エリザベスが手を掲ると、魔法陣が描かれてドアがゆっくりと開いた。
そこは書斎だった。本棚にずらりと並ぶ様々な本達。遺伝学の本から魔法の本まで、なんでもある。
先を歩くエリザベスに呼ばれて、書斎の奥まで行く。
「貴方の事を登録するのですわ。この世界に移住する者には記憶が無い。それを今から作るのですわ。まず、名前を」
エリザベスは真っ白な本を片手に、魔法陣を描いた。本のページがぱらぱらとめくれ、光り始める。
「き、記憶を作るって……」
「そのままの意味ですわ。ここに来る者は過去の記憶を捨てて来る。新しく幸せな生活を送るために。名前を、姿を、その歴史を新たにするのですわ。ここはそのための施設なのです」
記憶が無い理由が判明した。しかし、異世界に移住するほど嫌な過去が、僕にあった? 僕は戸惑ったまま、エリザベスを見つめる。
彼女は僕の気持ちを読み取ったように言う。
「貴方はもう過去を捨てる選択をした後なのですわ。ここにあるのは未来だけ。さあ、新たな名を!」
口を開きかけたその瞬間、轟音が響いた。