始まり
朝。
いつもの住宅街が立ち並ぶ通学路をオレは学校鞄を肩に担いで歩く。
オレと同じ学生たちは皆、月曜日特有の憂鬱に顔を俯かせている。
「げ、翼だ」「あれが噂の」「アンタッチャブル翼」「笑いながら不良を殴ってたって」
学生たちがおれの顔を見て更に顔色を悪くした。
相変わらず煩わしい。
面と向かって言ってくれたほうが気が楽だ。
好奇と嫌悪の視線。
それでも、オレはこの時間があまり嫌いではない。
なぜならー―。
「よっす。翼」
誰かがオレの肩を気安げに叩く。
振り向くとやや気だるげそうな男子高校生がいた。
「よぉ、康則」
幼馴染の宮部康則がいた。
顔だけなら結構イケメンだと思う。
「『おっと、忘れ物だ。そう、君の心を、ね』ってモテセリフを徹夜で考えたんだけどいけるか?」
「意味がわからねぇよ」
そんなんでモテると思ってるのだろうか。
口を開けばアホなことばっかりだ。
だからモテない。
「心を財布にすればいいんじゃない?」
「さすが翼だ! 『おっと、忘れ物だ。そう、君の財布を、ね』」
言い終わってから康則が考え込む。
「これ、ただの盗人じゃんか!」
すぐわかるだろ。
本当にアホだ。
「くく、ばーか」
アホすぎて笑えてくる。
「くそ! こうなったら最高のモテセリフを考えるまで今日は付き合えよ!」
康則がオレの手を無造作に掴んだ。
「お、おい」
なんでこいつはこんな簡単に手を握るんだ。
思わず頬が赤くなってしまう。
「男同士の付き合いだ! 一緒にアイアンメイデンでも頬を染めるセリフを考えようぜ!」
「あのなぁ」
ため息がこぼれ出た。
薄々気づいてはいたが、いつまで勘違いしているつもりだろうか。
「オレは女だ」
二階堂翼はれっきとした女だ。
多少男っぽくはあるが、スカートは履いている。
というか、ボサボサだが長い赤髪を見て一目でわかるはずだ。
「お、おう」
なぜかよくわかっていない顔だ。
幼い頃から虫取りしたり、冒険ごっこしたりしてきたせいだろう。
義則にとってオレは男のカテゴリーに入ってしまっているらしい。
「義則、本当にわかってんのか? あぁ?」
義則の顔を覗き込む。
「もちろんだ! 俺はいつだってお前を女として見てる!」
キスをするくらい顔を近づけてきた。
お、おわあ! な、なんでこんなに近づいてくるんだよ!
「わ、わかってるならいいけどよ」
ぷいと顔を背けた。
落ち着け! 落ち着けよ! オレ!
「だから、どっかのエレクトロニクス社が開発した感情を知らないメイドロボに恋をさせて『コノ ムネ ノ イタミ ハ ナニ?』とか一緒に言わせてみようぜ!」
「何もわかってねぇじゃねぇ!」
義則の顔面を片手で掴んで持ち上げる。
「あががが! 頭が割れるぅ!」
しょうがなく手を離してやる。
「ぐえ」
カエルがつぶれたような声を上げて義則が尻餅をついた。
「くそ、なんでこんなやつ好きになっちまったんだろうなぁ」
「は? なんて言ったんだ?」
「なんでもねーよ」
言うつもりはない。
この関係が壊れるのが嫌だ。
壊れたとき、こいつとこんな風に話すことがなくなるなんて思うとぞっとする。
ケンカならなんでも出来るんだけどな。
「いや、なんか言った。重要なことだ。きっとこの歪んだ世界から抜け出す重要なワードだ!」
……食いつくなよ。
「淫乱バスガイドが『お客様。右手に見えますのが私の大事なところです』とか言ってくれる世界に早く戻してくれ!」
「いや、これが現実だって」
「嘘だろ! 女が俺を見れば助走つけて殴ってくるこの世界が現実!?」
どれだけ嫌われてるんだ。
競争相手がいないのは助かるけど。
「はいはい。現実だからとっとと学校行くぜ」
義則の襟首を掴んで歩き出す。
もう少しオレが女らしかったら――。
そのとき、一人の女がオレたちの前を歩いた。
長い黒髪、モデル並の長身、整った顔立ち、全てが黄金比といっても過言ではない。
「め、女神? つ、翼! 女神がいるぞ!」
「いや、ただの女だから」
そうは言うものの義則が目をハートにさせるのも無理はないほどの美人だ。
同じ制服を着ているが、こんな女見たことあったか?
でも、これくらい美人だったらオレだって――。
あー! くそ! らしくねぇ!
不意に女と目があった。
楽しそうに揺れる瞳。
どこまでも吸い込まれそうな琥珀色の輝き。
その奥に感じる確かな邪気。
まるで何かに魅入られるように頭がぼんやりとしてきた。
「翼、どうかしたのか?」
義則の言葉で我に返った。
気が付けばオレは拳を握っていた。
「な、なんでもねぇよ」
なんだよあいつ。
「ふふ」
女が赤い舌を出して蠱惑的に唇を舐めた。
慌てて視線を外した。
な、なんだあいつ。
怖い。
いやいや、体つきは胸はでかいけど、大胸筋ってわけじゃない。
どう見ても弱そうだ。
ばかばかしい。
「ほら、行くぞ」
オレは早足で女を追い抜いた。
そのとき、女の唇が動いた。
オレが振り向いたとき、女の姿は消えていた。
こわっ!
あの一瞬で消えたのかよ!
「翼、どうしたんだ?」
「いや、なんでもねぇよ」
なんなんだ、あいつは。
「私と勝負しましょう。今日の放課後、学校近くの井上公園まで来て。私に勝てたら――100万円あげるわ」
まさか、本気で言ってたのか?
正直、負ける気がしない。
最後に残された言葉に戸惑いながらもオレは前を歩く。
オレにとって最悪の一日の始まり。
でも、私にとって始まりの一日。