減るもの、増えるもの、積もるもの
どこかしら身に覚えはありますか?
何度も唇を、体を、時間を重ねるうちに恋の新鮮さは薄れて磨り減っていく。
恋愛というのは賞味期限のある消費物。
***
3年と少し、なんだか最近素っ気ないなと思っていた彼氏に意を決して聞いてみた。週に最低2度は一人暮らしの私の家を訪れていたのに、最後に会ったのは2週間前。
電話をすれば出るけれど、時間が短い。
メールをすれば返事がかなり遅い。
私は察していた。
終焉がすぐ足元までやってきて、黒い大きな口を開けている。
悲しみや怒りや切なさの詰まった暗い穴。
恋は落ちるものとは言うけれど、そこにはきっと恋の終わりもまた落下するということを意味しているのかも知れない。
「理由は上手く言えないけど冷めてきて結婚も考えられない。今までありがとう。」
元彼氏の最後の台詞と最後に交わした握手が今も私の胸を締めつける。
でも私と彼の恋愛は擦り切れて食べるところが無くなってしまったのだ。仕方がない。
納得するしかない。
***
私は画面に写した臓器の画像を眺めながら、目の前に病変が現れないか凝視しているのに、ずっと関係ないことを考えていた。
いつ、どうやって、何をすれば、彼の心は繋ぎとめられたのだろう。
突然何か事件があったわけでもなく、大喧嘩もしていない。
だから、難しい。
徐々に失われていったからこそ、気がついた時には遅い。僅かな変化の積み重ねだから修正が効かない。
まるで病気のようだ。
超音波画像上に姿を現した、低輝度腫瘤を計測し性状を確認しつつ、そんな取り留めのない思考を張り巡らす。
注意力散漫、しかし目も腕も指先でさえ仕事に集中している。繰り返した経験が体に、脳味噌に染みついているから。
カルチ疑い。
依頼内容からして怪しかったからな、とチラリと脇に横たわる患者に視線を送る。人生もう半分は過ぎていても、まだまだ楽しみが多くある年代。
気の毒に。
しかし病気は運だ。感染症ではない癌なんて特にそう。自分がかかるかは0か100。罹患率なんて個人においては何の意味もない。
癌か。
私と彼に発生した問題もこれだ。いや目の前のものより深刻だ。そんな不謹慎な考えに侵食される。
眼前の画像の特徴を脳内で知識と結びつける。比較的予後が良さそうな組織型だろう。大きさも小さいし、リンパ節転移も見当たらない。追加検査をしなければ不明瞭だが、これから辛い現実と治療が訪れても、その先には明るい未来が待っている可能性は高い。
でも私と彼、私達にはもう未来そのものが無い。
「お疲れ様でした。検査は終わりました。結果は医師からになるので、お支度できたら外科に戻ってファイルを渡してくださいね。」
脳内がダダ漏れなら非難轟々だろう。貴方だけに集中していましたよ、そんな白々しい澄ました顔を装って、私は受診ファイルを患者へと手渡した。
医療の道を選んだのだから、使命に燃えて技術や知識の向上に励むことも多い。けれども今はそんなものは行方不明。
生きていくために稼ぐ。
そのための仕事。
でも何のために働くのだろうか?
友達と遊ぶのでは埋められない、胸の真ん中に空いた空虚な場所。慰められて元気は出ても、約束が励みになったとしても、恋愛と友情では埋まる場所が違いすぎる。
新しい恋を見つけなければ、でも再び手にした甘美な果実が再び擦りおろされるのも怖い。
結局仕事に精を出して、日々が流れるのを傍観するのが1番だ。
***
所見が増えていくと記憶も曖昧になる。今から検査する患者の電子カルテの記載を確認して、あの日の人かと思い出す。
問題なかった人は次の日にはすっかり忘れてしまうが、有所見者はそうでもない。揺り動かされれば思い出す。
「久しぶりの検査ですね。体調はどうですか?」
胸元にタオルをかけながら、プローブにゼリーを落とす。検査の準備をしながら抜け落ちた髪を隠すための手編みであろう帽子に目を止める。
痩せた。
でも生気を感じる。
末期癌特有の、あのなんとも言えない匂いも気配もしない。電子カルテを見た限りでも経過は順調。
「おかげさまで。先生のおかげで見つかったんですよ。沢山検査していて覚えてないかもしれないけどね。ありがとうございます。」
私は先生ではないし、何もしていない。追加検査、治療方針、手術、経過観察とあらゆる手段で未来を与えたのは担当医。でも野暮なことは言わない。
「そう言って貰えると働きがいがあります。ありがとうございます。林檎が好きだって言ってましたけど、食べれてますか?」
プローブを乳房に滑らせ、画面を注視ししながら話しかける。感謝を受けるような立場にはないから、ありがとうのお礼に貴方のことをきちんと覚えてますよと伝えたかった。
「ええ、この間家族で林檎狩に行ったのよ。温泉まで入って。旦那と娘と。楽しかったわ。」
「良いですね。」
再発がないか、リンパ節転移はないか。大事な術後検査、兆候は見逃せない。耳や口よりも目と手に神経を集中させる。
「りんご湯に初めて入ったのよ。おかげさまで楽しい旅行ができたわ。」
やっぱり。彼女には明るい未来が待っていた。それを嬉しく思う反面、私はまだ擦り減ったまま立ち止まっている事に急に虚しさを覚えてしまった。
彼に新しい恋人が出来ただろう、そう思いながら突然連絡が来ないかなんて夢を見ている。
連絡先も膨大なメールや写真も、跡形もなく消した彼との思い出は記憶からは消去されない。
失恋ってそういうもの。
***
結婚しないの?よく聞かれる年だから仕方がない。
したい。
祝福の中心にいる友人を見ると思う。
子供との愉快な話を披露する先輩の表情に羨望を感じる。
病気になった妻、母親を旅行に連れ出した旦那に娘。
そういうありふれていそうで、ちっとも手に入らないものを簡単にしないの?なんて聞かないで欲しい。
***
「結婚したらああいう家に住もう。」
彼の言葉にギョッとする。一軒家なんて庭の手入れが大変だ。それにあんな広い家なんて掃除も一苦労。
「嫌だな。」
自然と漏れてしまった本心に彼は傷ついたような顔をして、すぐに笑った。苦笑に胸が痛むよりも、ああこれかとストンと落ちた。
腑。
これだったのか。
一緒にいるには良いけれど、それより先は気が重たい。元彼の私への気持ち。
擦り切れていって潰れたのか、初めから本当は存在していなかったのか。私は後者だ。何となく惰性。付き合う人がいないよりは、まあいいか。
生理的に許容範囲。
告白に少しときめいた。
それだけ。
***
人生初のデートで隣の彼と手を繋いだ時の胸が締めつけられて、ふわふわふわふわした甘いのに押し寄せる台風。
初めて付き合った人とのキスは、心臓が爆発するかと思うくらいドキドキ、ドキドキ、鳴り止まなくてはにかんだ。
初体験は意外に冷静だったけれど、幸福に包まれるというのはこういう事なのだと知った。
自分の誕生日を初めて恋人に祝ってもらった日、異性から贈られた初のアクセサリー、恋人との2人だけの初旅行。
積み上げられていって失われた初めてたち。
そうやって恋はどんどん擦り減った。
惰性で恋が出来るようになってしまった。
代替えに目を向けて、本気の失恋を上手く忘れたフリをするようになった。
何度も唇を、体を、時間を重ねるうちに恋の新鮮さは薄れて磨り減っていく。
恋愛というのは賞味期限のある消費物。
期限は初めてがなくなるまで。
なら残っている初を集めるしかない。
消費されるということは、必ずそれはある。
***
私はこんな風に今日も働く。
ありがとうに癒されながら。
***
ふっとすれ違った。
思わず振り返る。
2人して目を丸めて、それから口を開けて、鼻で笑った。
「久しぶり。」
「久しぶり。」
「元気?」
「元気。」
「あのさあのパンケーキ美味かったよな。」
「朝一から並んだやつ?それとも夕方延々並んだ方?」
「ブルーベリーの。」
「それは私が頼んだやつだね。」
「そうだな。」
多分、私達の言いたいことは同じだ。
恋は磨り減るけれど、思い出は積もってく。
***
またすぐに駄目になったけどね
初恋が終わらなかった人が羨ましいと思う今日この頃です。