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北へ

作者: 周防常陸

彼の横が私の特等席だった。いつだってそう。複数人でご飯を食べに行ったときでも、話すときでも、今みたいに、彼の運転する車に乗っているときでも。


私たちは北を目指している。明確な目的地はなく、計画もなく、ただ気まぐれに、そうするのが当然みたいに北を目指す。

高速に乗ってからもう三時間は経つ。東京からは、どれくらい離れてしまったのだろう。

ぼんやりと俯いていた顔をあげて、運転席の彼の横顔を見る。

前だけをまっすぐに、何を考えているのかもわからない、私みたいにぼんやりとした顔で見つめている。

視線を戻して、自分の手のひらを見た。左手の中指にこぢんまりと収まるシンプルな銀の指輪は彼のくれたものだ。


私たちはなにか、特別な関係にいるわけではない。恋人ではないし、そうだった期間もない。体を重ねたことだって、一度も。

彼には彼女が居た時期だってある。私たちは、世間一般でいうところの友達にカテゴライズされるのだろうか。


あくびをひとつ噛み殺したタイミングで、ダッシュボードに無造作に放り出された彼の携帯電話が低く唸った。青い光を夜闇に容赦なく放って、自らの存在と誰かからの着信を誇示する。

それでも彼は携帯の方を見なかった。まるでなにもなかったみたいに、ぼんやりと前だけを見て運転を続けている。

この着信音は仕事からの電話ではないから、きっといくらかけてきても彼が応答することはないのだろう。私と二人でいるときは、仕事以外の電話をなかったことにする人だから。それは嬉しくも、苦しくもあった。


彼が彼女と別れる原因といえば、もっぱらそれだったと思う。一度や二度なんてものじゃない。彼は目立つ人であるからよく女の子に好かれた。告白されれば断ることをしなかったから、女の影は途絶えたことがないといってもいい。

そういえば、三ヶ月前にできた彼女とは今も続いているのだろうか。


私は静かになった携帯電話を見た。ときどき、青いランプの光が不在着信を知らせる。それでも、彼は携帯を見ない。


彼女たちにとって私の存在ほど目障りなものはないだろう。

彼は彼女と私を天秤にかけることすらせずに私を選ぶ。選ぶ、という言葉は正しくないのかもしれない。ただいつだって私を優先する。

お互いが休みの日には、なにかの形で一緒であることが多いし、私が仕事から帰ったら彼が晩御飯を作って待っていることだってしばしばある。

彼女と遊びに行っているのかなんて確かめるまでもなかった。そのための時間のほとんどは私といることで消費してしまっている。特別な存在ですらない、ただの友達の私が。

彼は数ヵ月に一度頬を赤く腫らして私の家に来る。私はその度に冷たく絞ったタオルを、できるだけ優しく腫れた頬にあてがう。

私のせいだ。

その度に強くそう実感する。

何があったのかは聞くまでもないし、答えたとしても喧嘩した、とだけ言うのだろう。

そんな日だけは、私たちは二人で同じ布団にくるまって、できるだけくっついて眠った。私は彼に包まれるみたいにして安心感を味わうし、彼はなにかを確かめるみたいに私の肩の骨をその大きな手で包む。

それでも、彼はまた新しい彼女を作る。温かいその場所は私じゃない誰かのものになる。


三ヶ月前にできた彼女とはもう別れているのだろうと、ふとそんなことが頭をよぎった。

そう思うと途端に眠気が押し寄せてくる。わたしは、結局のところ……。

考えがまとまるより先に、わたしは意識を宙へ手放していた。


肩を軽く叩かれる衝撃で目覚めた。

ついたよ、と少しだけ柔らかい表情の彼が言う。ぼんやりとした頭と視界を無理に研ぎ澄ませてみると、どうやらここはどこかの海らしい。

わたしが起き出したのを確認すると、早くいこうと言わんばかりに運転席のドアを荒っぽく閉じた。彼の表情は、私が知らなかっただけで、はじめからここへ来るつもりだったのかもしれないとさえ思わせる。 だからといって、眠気を引きずったままのわたしは、彼の機嫌にはついていくことはできないだろう。

ごそごそと用意を整えて車から出ると、錠のかかる音を背にして波打ち際を目指した。


ぽっかりと口を開いた真っ黒な闇。厚い雲におおわれて月が隠れたこんな夜では、海は恐ろしいものでしかないように思える。

海は何度も波をこちらへ送り出して、控えめに唸る。今晩は強い風もない。


彼はどうしてここへ私をつれてきたのだろう。

それも、こんな夜に。


彼は何かから解放されたような、どこか心地よさそうな顔をしていた。大きく深呼吸をしてから、ふらふらと波打ち際へと近付いていく。

私はそれをただ見ていたが、海面に足を踏み入れる音が響いても彼が止まらないのを見て、とたんに怖くなった。

「どこまでいくの」

少し上擦った私の声が静寂な海辺に響く。そこで、自分は焦っているのだと気がついた。

このまま行ってしまうのではないかとさえ思わせる彼の表情と、その雰囲気。全てを受け入れてしまうような、底がないような、なにかよくわからない恐ろしいものみたいに思った。まるで夜の海みたいだと。

歩みを止めた彼がゆっくりと振り向く。

そして柔らかい柔らかい笑顔で、こちらに向けて真っ直ぐ右手を伸ばした。


おいで。


彼の言葉はいつでも魔法みたいだった。こんなにも、従わざるを得ない説得力を纏わせた言葉があるだろうか。その存在は奇蹟みたいなものだった。従わざるを得ないことを、こんなにも真っ直ぐ素直に受け入れられるものだろうか。


こんな彼のことは私だけが知っている。他の人の前では無口な彼だから。

わたしは伸ばされた右手に、自らの左手を絡める。彼がはめていた指輪と、私のそれが小さくかすかな音を立てた。

中指にはまるこの指輪が隣の指におさまる日は、きっとこれから、ずっと来ないだろう。

それでもいい。

そう思いながら、わたしも夜の海に踏み入れた。

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