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ネコキジトラト症候群

 目の前にはトラがいた。俺はすっぽんぽんの状態。周りには武器になるようなものなど、何一つ落ちていない。ピンチとはこういうことを言うのだろう。

 だが俺にとってはチャンスだ。舞い降りた幸運に笑いが止まらない。

「ぐきゅーぐるぐる」

 さぁ、食事を始めようか。




「あまりうまくはないな」

「にゃーん」

 非難するような目で愛猫のボリスは俺を見る。

「お前を食わなかっただけマシだろ」

 食べる前に剥いでおいたトラの毛皮を被り、俺は横になった。悪いとは思うが、ボリスに構っている余裕などない。

 漂流して早ひと月。果たして俺は元の生活に戻れるのだろうか。




 ひと月前、俺は愛猫のボリスと一緒に豪華客船に乗っていた。もちろんお金など払っていない。船をジャックするつもりで潜入したからだ。

 俺の腕ならジャックすることは簡単だった。うまくいくはずだったんだ。――嵐にさえ遭わなければ。

 嵐のせいで船は転覆。せっかくの豪華客船も見事にバラバラ。気がつけばどことも知れぬ島の砂浜にたどり着いていた。半日もあれば一周できるくらいの小さな島だった。島の周囲には何も無い。広い海にポツンと取り残されている。

 それから一ヶ月、俺は島に取り残されたままだ。幸いなことにこの島にはそこかしこに動物がいた。俺は動物を狩って喰らうことで、生き延びることができている。




「にゃーん」

 私はボリス。目の前でバカみたいにいびきをかいている男、ヒョウの飼い猫だ。この男のせいで私は日々、散々な目に遭っている。

 あるときは空中一万メートルからパラシュートなしでダイブ、またあるときは腹を好かせた猛獣共の檻の中に投げ込まれ、この前は銃弾の飛び交う中で食事をさせられた。ハリウッド映画もビックリの人生だ。

 この男のせいで私は何度命の危険に晒されたことか。

「うーん、ボリス」

 ……でも悪くはない。悪くはないのだ。スリリングな毎日でも、この男と共に過ごすのなら悪くはないと思える。だからこそ私は生きねばならぬ。ヒョウと生きるために。




 黄色と黒の縞々模様。明らかに毒キノコだ。分かっている、分かっているのだが、空腹状態ではご馳走にしか見えない。一口齧るだけなら、大丈夫かもしれない。希望的観測であることは重々承知しているが、食欲を止める術は私にはないのだ。

 一口齧る。パリッとした食感。正直おいしくはない。空腹を紛らわすには十分ではあるが。

 他に食べ物は見当たらない。だがこれ以上の食事は危険だと私の本能が叫んでいる。諦めてヒョウの元に戻るか。

 私は森から浜辺に戻る道中も食べ物はないか目を光らせて探したが、目ぼしいものは見つからなかった。


 何ということだ。やはり毒キノコだったか。後悔してももう遅い。私の体はいまや"トラ"に変貌してしまっている。同じネコ科ではあるが、まさか毒キノコの効力でトラに変身するとは思いもしなかった。どうすれば元に戻るのだろうか?

 いやそれよりもこの姿はまずい。食料と勘違いされて狩られてしまう危険がある。元に戻るまで身を隠すしかないか。ヒョウの側にいれないのは、苦痛だがこれも致し方なし。私の不注意が招いたことだ。罰だと思って諦めるしかない。





「ボリスー? どこだー?」

 ボリスの姿が見当たらない。一体どこに消えた? 寝る前まではいたはずだ。食料を探しにでも出かけたのか。

 まずいぞ。この島には肉食獣がうろうろしている。ボリスが捕食されてしまう危険がある。早く見つけないと。

 浜辺に残ったボリスのものらしき足跡は森の中へと続いていた。生い茂る草木が邪魔で足跡が見づらい。仕方なく俺は嗅覚を頼りにボリスを探すことにした。獣の臭いが混ざり合って分かりにくいが、ボリスらしき臭いは徐々に強くなっている。

 ――近づいている。俺の直感がそう告げている。同時にこれ以上近づいてはならないと本能が警鐘を鳴らす。今までに感じたことのない濃密な気配に思わず背筋が震える。

 危険だ。この先にとてつもない何かがいる。恐怖を押し殺し、無理やり足を一歩踏み出すたびに震えが大きくなる。一体何が待ち構えているんだ?

 森が開けた。その場所には俺の倍以上の体格を持つであろうトラがいた。





「ガルルー!」

 私は私は私は私は私は私は私は私は……何をしている?

 足元には愛する男が血を流して倒れていた。息をしていない。本能に抗えなかった。私の本能がヒョウに牙を向いた。私の本能がヒョウを……殺した。

 そんなつもりじゃなかった。殺すつもりなんてなかった。食べるつもりなんてなかった。こんなもの言い訳にすらならない。

 私は負けたのだ。自分自身に。私の弱さがヒョウを死に追いやったのだ。空腹に負けずに毒キノコを食べなければ良かった。後悔してももう遅い。何もかも手遅れだ。

 私は生きる意味を失った。せめてもの償いだ。ヒョウの墓を作るために穴を掘る。コツンと爪に何かが当たった。掘り進むと……人の骨が出てきた。別の場所を掘る。また骨が出てきた。まさか……。

 生じた疑念を確かめるため、周辺の土を掘り返す。思ったとおりだ。――数え切れないほどの人骨が土の中に埋まっていた。



 私が食べたのとそっくりな毒キノコの食べ残しがいくつか見つかった。間違いない。この島に住むトラは元は猫だ。恐らく私たちが島にたどり着く以前にも漂流者はいたのだ。

 あの人骨はトラたちの飼い主だ。私と同じように後悔に苛まされたペットが埋めたのだろう。この墓はペットたちの愛情によるもの。私は掘り返した土を埋めた。あなたたちの愛の巣を壊して済まない。

 私はヒョウの首根っこを掴み、拠点にしていた浜辺へと運んだ。ヒョウの遺体を横たえ、隣に座る。この男がいなければ、私には生きる意味がない。愛情を注いでくれた男に襲い掛かるなんて、私はなんて罪深い生き物なのだろう。

 これは罰だ。本能に身を任せた愚かな私への罰なのだ。私は償うことのできない罪を犯した。私にお前の側にいる資格なんてない。もっと深い罰を……。



 私は誰にも見つからないような場所にヒョウの遺体を埋めた。私以外の誰にもヒョウに触れて欲しくないからだ。しばし墓の前で思い出に浸る。決して良い思い出ばかりではない。けれど私にとっては何にも勝る最高の宝だ。


 私はヒョウの側を離れ、広大な海へ向かって一歩ずつ足を進める。冷たい。海水が体にまとわりつく。波が邪魔してうまく進めない。

 半分ほど沈んだ。まだ生きている。口が海につかる。まだ生きている。全身が海に沈む。まだ生きている。海中を歩く。まだ生きている。足が浮きかける。まだ生きている。体が動かなくなってきた。まだ生きている。息も苦しい。まだ生きている。周りが暗い。まだ生きている。意識が朦朧とする。まだ生きている。体が海の底へと沈んでゆく。まだ生きている。……動けなくなって数十分、私はまだ生きている。

 生きている。生きている。生きている。どうして私はまだ生きている? なぜ死なない。死なない。死なない。私は生きていてはいないのに。罪深い私は死ななければいけないのだ。あの男が死んで、なぜ私は生きている。どうして、どうして、どうして? ……早く私をあの男の元へと送ってくれ。




 私はまだ生きていた。――海の底で。理由は不明だが、原因は分かっている。恐らく毒キノコのせいだろう。体は動かないのに意識だけはある。不思議な感覚だ。

 いつ死ぬとも知れない状況の中、私は海の底でじっと佇んでいるしかない。早く死んであの世に行きたい。ヒョウの元に行きたいのに行けない。これは私が犯した罪に対する罰だ。ヒョウを殺してしまった私への裁きだ。



 私は待っている。罪が洗われて、あの世に行ける日を。今か今かとヒョウを想いながら。

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