食欲の怪物
それは本能の塊だった。知性も理性も常識も持ち合わせておらず、ただただ食という己の欲望に忠実であった。目の前にあるものが何かなんて考えもせず、本能の赴くまま食らいつく。
それの体に血が飛び散った。血は食らいついた肉から流れ出たものだった。気にすることなく食べ進める。ドクドクと肉から血があふれ出し、それの口元を真っ赤に染める。喉の渇きを感じたそれは本能に従い、血をごくごくと飲む。
もっともっと。内からほとばしる食欲に突き動かされ、肉を食う。本能で理解していた。肉を嚙みちぎれば噛みちぎるほど血があふれ出してくると。
食らう、食らう、食らう。肉の味が、血の味が口いっぱいに広がる。味の良しあしは関係なかった。それにうまいまずいの概念はない。食うという欲求があるだけだった。口に入るものなら何でも良かった。今食べているのが食材じゃないとしても。肉であるなら食べる。ただそれだけのことだった。
ゆえに無関心でいられた。肉に食らいつくたびに聞こえる女性の叫び声に。
「うっ」
レイカは痛みを感じ、お腹に手を当てた。額に脂汗がにじむ。突き刺すような痛みが増していく。立っていられない。へたりと座り込んだ。
「レ、レイカ。大丈夫か」
駆け寄ってきた夫のタケルに、レイカは「お、お腹が痛いの」と力なく言う。タケルはレイカの膨らんだお腹に目を向けた。
「まさか陣痛か?」
「そ、そうかも」
レイカは激しさを増す痛みに、意識が飛びそうになる。陣痛を甘く見ていた。ずきずきと痛むお腹を抑え、「ふぅー」と息を整える。
「病院に行こう」
タケルの肩を借り、レイカは立ち上がる。おぼつかない足取りで玄関に向かう。
「車を回してくる」
レイカは玄関の扉に背を預ける。支えがないと立っていられなかった。
「さ、乗って」
タケルの手を借りつつ、レイカは助手席に乗り込む。
「あと少しの辛抱だから」
車は病院に向かって出発した。
「っ!」
レイカは声にならない悲鳴を上げた。痛みのレベルが段違いに跳ね上がった。
「ど、どうした?」
「あ、あ、あああああ!」
レイカはがくんとのけぞった。お腹の中で何かが起きている。そう直感した。
「だ、大丈夫か? 生まれそうなのか?」
タケルは慌てふためいている。
「一回車停めるか?」
「っ……」
返答する余裕はなかった。
「かはっ」
レイカは血を吐いた。お腹がじんわりと温かい。
「ひぎゃあああ」
全身ががくがくと震える。痛みにのたうち回る。
「病院はもうすぐだから。なんとか持ちこたえ……」
タケルの言葉が耳に届く前に、レイカは意識を失った。
「レ、レイカ?」
タケルは焦った。レイカの身に異常事態が起きていることは明白だった。急がないと命に危険が及ぶかもしれない。病院までの道のりが、いつもよりも遠く感じた。
「え?」
タケルは耳を疑った。赤ん坊の笑い声が聞こえたのだ。レイカの方に顔を向ける。
「あっ、あぁ……」
レイカのお腹から赤ん坊の頭が飛び出していた。
「あの車か」
不審な車が路肩に停まっているとの通報を受け、警官が現場にやって来た。車はクラクションを鳴らし続けている。
「ちょっとお話……うっ、おぼろろ」
車の中を覗き込んだ警官は吐いた。車内にはお腹に穴が開いた女性、顔面血だらけでハンドルに倒れ込む男性、そして男女の死体にかぶりつき、口元を血で染めながらきゃっきゃきゃっきゃと笑う赤ちゃんがいた。




