芳江
○月×日。お母さんとお父さんは今日も黙っている。一週間以上もだんまり。どうしたんだろう、喧嘩でもしてるのかな?
話しかけても何も答えてくれないし、ボク寂しいよ。ずっとずっと一人で遊んでる。もう飽きてきちゃった。
お腹も空いたな。お母さん、この一週間、一回もご飯を作ってくれなかった。お菓子は好きだけど、やっぱり手料理が食べたいや。
ねぇ、お母さん、ご飯作ってよ。ねぇ、お母さん、笑ってよ。ねぇ、お母さん、何か喋ってよ。ねぇ、ねぇ、ねぇ、ボク何か悪いことした? 謝るから何か言ってよ。ねぇ、お母さん。
○月×日。お母さんとお父さんは今日も喋らない。なんだか段々顔色が悪くなってるような気がする。もしかして風邪でも引いたのかな。だから一週間も元気がないのかも。
きっとそうだ。痩せてるのも体調不良だからだ。よーし、ボクが元気付けてあげるよ。
そしたらいっぱい遊んでくれるよね。
「ねぇ、あなた。気のせいかしら。あの子の声が聞こえるの」
妻の芳江は震えていた。顔が青白い。きっと私も似たような表情になっているはずだ。私にもあの子の声が聞こえているのだから。
『ねぇ、お母さん、ねぇ、お父さん。ねぇねぇ』
「ひぃ」
「大丈夫だ。心配するな」
私は芳江を抱きしめた。震えているのは妻なのか、それとも私なのか。両方かもしれない。
『ねぇ、ねぇ』
お願いだ。頼むから止めてくれ。もうこれ以上、私たちを苦しめないでくれ。一体何が望みなんだ。
『ねぇ、ねぇってば』
「止めろ! 止めるんだ! 良彦、お前は死んだんだ。死んだんだよ!」
あの日、私は残業で頭がぼうっとしていた。判断力も鈍っていた。まさか車庫で遊んでいるとは思わなかったんだ。夜も遅いから、てっきり寝ているとばかり思っていた。
まだ耳にこびりついている。良彦の叫び声が。目に焼きついている。良彦の無残な姿が。
最愛の息子を殺してしまった。事故だったとはいえ、すべて私が悪い。私が殺したんだ。
あの日から、私と芳江は会話をあまりしなくなった。良彦のことを思い出してしまうからだ。だが今思うと、私は妻と会話をするべきだった。自分のことで手一杯で、妻を思いやれていなかった。
気づけば妻はやつれていた。痛々しい姿だった。まだ三十代だというのに、めっきりと老けてしまった。責任を感じていたのだろう。息子から目を離したことに。
異変に気づいたのは事故からひと月が経った夜のことだった。しまったはずの息子のおもちゃが廊下に落ちていたのだ。妻に聞いても出した覚えはないと言う。
このときはまだ変だなと思っただけだ。異変は翌日から酷くなった。一人でいるときは何ともないが、妻といるときだけ良彦の声が聞こえるようになったのだ。最初は気のせいだと思った。良彦のことが忘れられないだけだと思った。
でも違った。息子のためにと買ったお菓子が徐々に減っていたからだ。気づいたとき、私は愕然とした。廊下に落ちていたおもちゃ、妻といるときに聞こえる声。いる、家の中に良彦がいる、そう確信したとき、背筋が凍った。
そして今日、妻にも聞こえていたことを知った。良彦の声はどんどん大きくなる。喉が張り付くように痛い。
「あなた、大丈夫?」
芳江の声にはっとした。心配をかけてはいけない。ただでさえ妻は心労で痩せ細っているというのに。私がしっかりしなければ。守るんだ。妻を。……守る? 一体何から守ると言うのだろう。良彦は私たちの息子なのに。
『死んだ? ボクが死んだ?』
良彦の唖然とした声が聞こえる。すまない、私のせいで。お前の人生を奪ってしまって。
『そうか。ボク死んだのか。そうだ。ボク死んだんだ。……お父さんのせいで』
ゾクッとした。子供らしくない重さがあった。怖いと思った。恐ろしいと思った。
私は芳江の手を掴んで、玄関へ向かって一直線に走った。足がもつれそうになる。早く早く外に出ないと。家の中にいたら危険だ。
「あなたー!」
妻の叫び声が遠くから聞こえる。おかしい。私は妻の手を掴んでいるのに、なぜ近くから聞こえない。
振り向くな。振り向くな。振り向くな。そう思うのに、意思に反して体が動く。振り向いた先にいたのは――良彦だった。
『お父さんも行こうよ、一緒に。ボク寂しいんだ』
良彦はニタァと笑っていた。あの日、事故に遭った無残な姿で。
「良彦、許してくれ。お父さんが悪かった。だから」
『ダーメ』
ぐんと手を引っ張られた。子供とは思えない力だった。引っ張られているはずなのに、なぜか体が床に沈んだ。どんと音がした。私が床にうつぶせに倒れていた。妻が駆け寄る。
「あなたー、しっかりして。私を一人にしないで!」
私にすがる妻を見下ろす私。意味が分からなかった。床に倒れているのは誰だ。なぜ妻は……私をすり抜けた。
『ボクと一緒になったね』
良彦はケタケタと笑っている。息子と繋いだ手が透けていた。手だけじゃない。全身が半透明になっている。
まさか、肉体から魂を引き剥がされたのか。そうに違いない。なんということだ。私は死んでしまったのか。良彦と同じ幽霊になってしまったのか。
『お父さん、あの世に行こうよ』
良彦は私の手を掴んだまま、浮かび上がった。天に召されようとしている。私の魂も。
イヤだ、死にたくない。芳江を置いていくわけにはいかない。私が死んだら、誰が芳江を守るというのか。
『芳江、芳江ー!』
私は必死で手を伸ばした。体に戻ろうともがいた。でも届かない。遠い。体が遠いのだ。背中が天井に触れる。
妻が振り向いた。私の声が聞こえたのだろうか。
「あなたー!」
『芳江ー!』
芳江が手を伸ばすも時すでに遅く、私の体はもう天井をすり抜けていた。イヤだイヤだイヤだ。私は死にたくない、死にたくないのだ。
『ボクを殺したくせに』
良彦が耳元で囁く。背筋がぞくりと震えた。許されない罪を犯した私への罰。死は免れない。子を殺した私が、生きたいなんて虫が良すぎる話だ。
すまない、芳江。本当にすまない。
あの子と夫の姿が見えなくなった。夫は息をしてない。良彦が連れ去ったんだ。愛する我が子が、愛する夫を殺した。その事実に眩暈がした。私は一体誰を恨めばいいのだろう。
分かっている。全ての責任は私にある。目を離した私が悪い。気が緩んでいた。ほんの少しの間、眠ってしまった。気が付いたときには夫が叫んでいた。駆けつけたときにはもう良彦は死んでいた。
私が目を離さなければ、良彦は死なずに済んだ。夫が苦しむこともなかった。悪いのは私なのに。どうしてあなたたちが逝ってしまうの。逝くべきなのは私のはずなのに。
もう一人はイヤだ。寂しい思いはイヤだ。苦しいのはたくさんだ。
私はただ家族と幸せに暮らしたかった。愛する家族はもういない。きっとあの世にいる。うん、決めた。もう一度、家族みんなで幸せに暮らすんだ。
「待っててね。良彦、あなた、今逝くからね」
左手で夫の手を握る。右手にはキッチンから持ち出した包丁があった。どくどくと心臓が鳴っている。怖い。でも一人はもっと怖い。あなたたちがいない人生なんて生きている意味がない。
だから……覚悟を決めろ、私。あの子たちは私がいないと生活なんて送れないんだから。早く逝かなくちゃ。
「ごめんね、お母さん、お父さん」
視界が真っ赤に染まった。血の気のない私が見える。やった、成功だ。私は幽霊になったんだ。待っててね。
私は天国逝き。あの子と夫は地獄逝き。あぁ、結局私は一人ぼっちなのか。




