落下生
僕は一体いつまで落ち続けるのだろう。どこまで落ち続けるのだろう。この生に果てはあるのだろうか……。
ある日突然、僕は"落ちた"。地面に吸い込まれるように、地面なんてなかったかのように。……僕の体は地面を通り抜けていった。
最初は戸惑った。恐怖を覚えた。どうして僕がこんな目に遭わなければいけないんだと神様を呪った。地上へ戻ろうと必死にもがいた。いくら足掻いても無理だった。目の前にある地面に触れることが出来なかった。
僕にできることは何もない。そのことに気づいたとき、僕は本当の意味で絶望した。
何時間とも知れない時間を漂ううち、変化が起きた。地面を抜けたのだ。その先は――空だった。
僕は世界を移動している。そのことに気づいたのはいつだっただろうか。
空を落ちている間、目には世界のあらゆる情報が飛び込んできた。空飛ぶ車や人型ロボットなどが存在する近未来風の世界、まるでRPGのようなモンスターが我が物顔で歩いている世界……想像を超える世界を僕はいくつも見た。
どうして僕に世界を移動できる力が備わったのかは分からない。ただただ落下しているだけのことを力と呼んでいいのかは疑問だが……。
空を浮遊し、地面を通り抜ける。この感覚にも大分慣れてきた。自由に動くことはできないが、その代わり眠くもならないしお腹も空かない。僕は人間ではなくなったのかもしれない。考えたところで答えが見つかるわけもない。そんなことは分かっているが、考える以外にすることがない。
非日常漂う世界を見るのは楽しかった。自分の現状も忘れるほどに見入ることも多かった。――でもそれも最初だけだ。
非日常が日常になった今では何の感慨も湧かない。考えることにも飽きてきた。一体いつになったら元の生活に戻れるのだろう。落下するだけの人生はもううんざりだ。自由が欲しい。
朝起きてご飯を食べて、娯楽を楽しみ寝る。そんなごく当たり前の日常が……今は欲しい。当たり前の人生は幸せだ。非日常なんて味わうべきじゃない。日常こそが幸福だ。
僕は幸せで、幸せで――幸せだった。地面に落ちるまでは。早く幸せな生活に戻りたい。
数え切れないほどの時間が過ぎた。心が死んでいくのを感じる。感情を思い出せない。笑うとは、悲しいとは、怒るとは、一体なんだったろうか?
幸せな生活に戻りたいと思っていた。でも今は幸せが何だったのかすら思い出せない。僕は地面に落ちる前は、どんな人間でどんな人生を歩んでいた?
記憶が零れ落ちていく。人として大事なものがぼろぼろと零れ落ちていく。僕は本当に人ではなくなったのかもしれない。
何も感じない。何も分からない。何も思い出せない。――僕は一体……何者なんだ。
高層ビルが立ち並ぶ。人々が楽しそうに歩いている。ごくごく普通の景色だ。どこかで見たことのある光景だ。懐かしい。……久しぶりに感情を感じたような気がする。心に火が灯ったみたいだ。
大事な何かを思い出せそうだ。忘れてはいけなかったことを思い出しそうだ。
……あぁ、そうか。この世界は――僕が生まれた世界だ。やっと戻ってこられた。嬉しさで胸が詰まる。本当に懐かしい。数々の思い出が蘇ってくる。忘れてはいなかった。ちゃんと僕の中に残っていた。そのことが堪らなく嬉しい。
徐々に近づく地面。あともう少しで日常へ戻ることができる。長い時間、地面を踏みしめていないから、ちゃんと歩けないかもしれない。でも大丈夫だきっと。すぐに慣れる。僕はそう信じてる。
やっと地に足のついた人生を送れる……おかしい? 何の感触もしない。変だ。足元を見ると、僕の足は当然のように地面に――吸い込まれていた。
あぁ、まだ終わらないのか。この人生は。