絶望アンリミテッド症候群
「先生、また一人いなくなってしまいました」
「……絶望者になってしまったのか?」
「はい」
先生と呼ばれた男はため息をついた。室内は静まり返っている。男は窓の外を眺めた。
「いずれ私たちもああなってしまうのだろうか?」
男の視線の先には、うつろな表情で座り込む青年の姿があった。
事の始まりは半年前。一人の老人の死がきっかけだった。その老人は希望も幸せも楽しさも嬉しさも満足感も味わうことなく死んだ。老人が人生で味わったのはただ一つの感情――絶望、それだけだった。
絶望に苛まれた肉体はやがて悲鳴を上げ、老人の命を奪うほどに膨らんだ。だが絶望は老人が死んだ後も消えなかった。ゆらゆらと宙を漂い、やがて近づく者を襲い始めた。
老人の絶望に触れた者は一人の例外もなく堕ちた。世界に絶望し、ただ死を待つだけの物言わぬ肉体となり果てた。世間は畏怖の念を込め、彼らを『絶望者』と呼んだ。
「この街はもうダメかもしれない。一体何人の人間が生き残っていることか」
「先生、『絶望アンリミテッド症候群』を治療する方法はないのでしょうか?」
助手の言葉に男は何も言わなかった。助手は諦めたように視線を落とす。
絶望アンリミテッド症候群。一人の老人が遺した最悪の病。うつとは比べものにならないほどの絶望、立ち向かう術はない。
「私たちはもう……」
「いや、近づかなければ大丈夫だ」
男は力強く言った。まるで自分に言い聞かせるかのように。
「先生! 私たちは……救うのが仕事ですよ。何かをしなければいけないんです。何か……何かを」
何かを振り払うように男は唇を強く噛んだ。血が滲む。
「私は、私は」
男はドアノブを掴んだ。
「――医者だ!」
扉を力強く開ける。
「先生……」
助手は男の後を追う。男が向かった場所は老人が死んだ家だった。
老人の家はボロボロだった。まるで怨念が家全体にとりついているかのような異様な雰囲気を醸し出している。
「君はここで待っていてくれ」
「先生、私も行きます」
助手は男の後を追おうとした。
「駄目だ。君まで絶望アンリミテッド症候群になってしまったら、一体誰が患者を救うんだ」
男は真剣な眼差しで助手の目を見つめる。諦めたように助手はため息をつき、男を見上げた。
「無事に……戻ってきてくださいね」
「あぁ、必ず戻ってくる。患者を救う手がかりを見つけてな」
老人の家へと入る男の後姿を助手はいつまでも見ていた。
あれから半年、お腹が大きくなった。先生はまだ戻ってこない。
街からは随分と人が減った。今じゃ、『笑顔が消えた街』なんて呼ばれている。
私は信じている。先生が帰ってくるのを。絶望になど屈しない。絶望になんて負けない。絶望はしない。私には使命がある。街の人たちを救うという使命が。
あれから十年、子供も大きくなった。先生はまだ戻ってこない。
街はもはや街ではなくなった。多くの人が絶望に追いやられ、生き残っている人間はごく僅か。ゴーストタウン、今ではその名称が相応しい。
あれから三十年、孫も生まれた。先生はまだ戻ってこない。
絶望は国を覆いつくすまでに広がった。国の人口は半分以下、絶望アンリミテッド症候群の患者は一向に減らない。
何十年、患者を診続けても対処法が見つからない。誰もが絶望し、希望を胸に灯していない。誰も現状を変えようとしない。誰も……手伝ってくれない。治療法を探し続けているのは私たちだけなのだろうか?
あれから五十年、親子三代で研究を続けている。先生はまだ戻ってこない。
患者を診ることもなくなった。生き残っている人間はどれくらいいるのか見当もつかない。研究も滞っている。
寂しい、先生、早く会いたい。私は今でもあなたを思っているのに。約束したでしょう。戻ってくるって。
あれから幾何の月日が経っただろうか? 希望は子と孫に託した。先生はまだ戻ってこない。
私の身体はもはや動かない。もう年なのだろう。絶望せずに今まで生き続けられただけでも奇跡だ。
世界はどうなったのだろうか? せめて孫の子供たちには希望に溢れた未来を送ってほしい。私の代では治療法は見つからなかった。もう孫たちに託すしかない。
先生、最後にもう一度あなたに会いたかった。あなたにもう一度抱きしめられたかった。
あれから長い年月が過ぎた。老人の絶望は消えず色濃く残っている。……人類が滅亡した後も。
『次ハ貴様ラダ』




